第5話殺人鬼と探偵
手をしっかりと洗って顔を上げると、鏡の中の自分の顔に驚くことがある。
誰でもそうだとは思うが、鏡に映る髪型や目鼻の配置、耳の形にびっくりするのである――あれ、こんな形をしてたっけ?
夢を見た朝なんて特にそうだ。
夢を見てない朝だって、そうだけれど。
「けどそれって、おかしなことかしら? 誰だって、自分が誰かと自信を持って言えるかというと、そんなこと無いでしょう?」
「…………」
「私もそうだわ、私も。こうして顔を変えてしばらくはずっと、そういう感覚に悩まされる――自信を持って作ったのに、その自信が一瞬で揺らぐのよ。確信していればしているほど、ありもしない欠点が目に付く。眉毛の生え方一つとっても、当たり前なのに、あの日の自分と違って見えてしまう」
「…………」
「だからなのよ、私は。だから私は見本を取っておくの」
動かなくても、もう喋らなくなってしまっても。
骨だけにならない限り。
「だから貴女も……あら? もう寝ちゃったかしら?」
また明日ね。
私はそう言って、彼女を倉庫に戻した。
「おはよう、西上さん! 昨日のドラマ見た?」
「ごめんなさい、見ていないな。最近、ちょっと勉強が忙しくて」
「さすが、まじめー」
「大事だもの」
お勉強はね。
「学生らしい行動だし、それに、学は身を立てるっていうでしょう? 身につけて損なことは何もないわ」
そう、身につけて損することは何もない――こうして優等生に成ってみると、地力というのがどれだけ大事か良くわかる。
勉強の出来ない振りは簡単だ、だが、出来る振りは難しい。ただでさえ立ち居振る舞いを覚えなくてはいけないのだから、安易に難易度を上げる必要は無いのだ。
「じゃあ、それも勉強の?」
クラスメートの指摘に私は、あぁと手にした本を閉じる。
「まあ、参考にはなるけど学校の勉強って訳じゃあない。これは……そう、私小説というところかしら」
「ししょうせつ?」
「作家の体験を元にした物語。アレンジした日記みたいなものよ」
「へー、それ、面白いの?」
「まあまあね」
シンプルなカバーを撫でながら、私は彼女に微笑んだ。「悪くはないわ、少なくとも題材としてはね」
「なんて本? ていうかそのカバー、格好いい」
「良いでしょう? 大変だったけど、素材がとても気に入ってね」
特別なカワ製のカバーの、つるりと冷ややかな手触りはとても好みだ。定住する機会があれば家具も、レザーで統一したいくらいだが。
そんな機会は永遠に来ないと私自身、勿論理解している。私はそういう存在じゃない、永遠に
「ねえねえ、どんな話?」
「そうねぇ、一言で言ってしまうのなら……」
「殺人鬼に成る話よ」
「はーい、じゃあ皆、席についてー」
担任の声で、教室にざわめきと静寂が満ちる。
学生たちのこういうところはとても面白い。どんな、教師や親など身近な大人に対して敵愾心を持つ子供でさえ、こうした呼びかけには粛々と従うのだ。
私はそもそも座っているので、本を仕舞うだけで済んだ。インドア派万歳。
「またね、西上さん」
「えぇ、また」
「……最近西上さん、なんか話しやすくなったね。女性的になった、ていうか……」
「そう?」
私は微笑みを返す。
少しくらいの違和感は、大して問題ないと私は知っている――それなりに似たような経験を積み重ねてきた身だ、その辺りは詳しい。
平静、そして時間。
それまでとの僅かな誤差を指摘されても、何事もないかのようにそれをつづけていけば、積み重ねていけば、やがてそれが真実と成る。
過去は重ねた年月に埋もれていくものだ。そして誰かが新たに掘り返しても、重ねた嘘の方が早く多く見つかる。
これまでと同じだ。
私が脱ぎ捨ててきた子たちの周囲の人は、誰も彼も私を覚えている。本当の、元々の本人のことなど完全に忘れて。
それまでの西上東は埋もれて潰れて風化して、そしてやがて、消えて無くなる。
そしてやがて。
全てが私になる。
「さあて今日は、皆さんに一つお知らせがあります」
幼い喧噪を押し返そうと声を張り上げる担任の声で、私は空想から引き戻される。
私も大人によって夢から覚まされる、しがない学生に過ぎないというわけだ――永遠に卒業することは、無いわけだが。
永遠の夏休み。
それを疎ましくこともあったが、どれだけ飽きても水を飲まなくては人は生きていけない。繰り返しは、死から遠ざかる重要な儀式である。生きていたいなら、死にたくないなら、続けるしかない。
――まあ、だからわざわざ獲物を選んでいるんだけれどねぇ。
その点、彼女は面白かった。
中学の頃、磯貝天海の皮を被って三年。独特な、個性的な性格の確認のために近付いた幼馴染みだったが――接してみると何ともまあ、興味深い性質だった。
こうして日記を読んでみると良くわかる。
彼女は随分と歪んでいる。そもそもの歪みはそれほど大きくもないのに、こじらせてしまった結果取り返しの付かない時点まで、湾曲してしまったのだ。
闇に憧れるのは誰にでもある時期だ、だが、彼女は自分の全てを賭けると誓ってしまったのである。日常の全てを、やがて殺人鬼に辿り着くために費やし続けてきたのだ。
ある意味で。
私と西上東は紙一重だったかもしれない――もっと遅く出会っていたら、彼女は磯貝天海をきっと。
そう考えると残念だった。
彼女の準備が整うまでにどのくらいか、側にいた私には手に取るように解ってしまった。やるかやられるかという段階にまで、もし彼女が育っていたら。きっときっと楽しめたのに。
駆け引き、探り合い、そして殺し合い――互いに互いの血を飲めば、きっともっと、深く強く結びつけたのに。
そんな、益体のない空想は。
「はい、じゃあ、入ってきてー」
主人公の登場で吹き飛ばされた。
しん、と。
教室の空気が凍ったような気がした。
あぁ、今なら私も悪魔に魂を売るかもしれない。
短い黒髪。
無駄もなく引き締められた肉体は、体幹を揺らすことなく確り、けれど静かに歩いてくる。
しゃんと伸ばした背筋に、油断なく周囲を観察する瞳。
この中に外敵がいると確信しながら、口元には挑発的な笑みを絶やさない。
小柄ではあるが大物の風格を漂わせる少女は、世界からスポットライトを当てられているかのように眩しく、輝いている。
「……こんにちは、皆さん」
その声を聞いた瞬間。
その瞳と見合った瞬間。
その存在と出会ったその瞬間に、私の全細胞が理解した。
これは――彼女の物語だと。
そうして彼女は、私のごとき端役の感動に気が付くこともなく。
教壇の前に立って堂々と、物語の始まりを宣言した。
「僕の名前は
そうして物語は始まった。
美少女探偵と
ある愚か者の話 レライエ @relajie-grimoire
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