第5話 初めまして

 夢を 見ていた


 いや それは夢というより 子供の頃の思い出だった



 ◇ ◇ ◇



 これは恐らく、俺が小一か小二の頃の思い出だ。

 親父が、俺の寝ている部屋の隣で母さんに怒鳴っている。

 閉じられたドア越しに、皿が何枚か割れる音が聞こえた。

 人が倒れた音もする。

 また、酔っぱらった親父が母さんに手を上げたのだろう。



 ――クソ親父が家にいるときはほぼ毎晩、こんな状態だったな。



 俺が小学校に上がった辺りから、親父はたびたび家を空けるようになった。

 たまに家にいても、大酒を飲んで怒鳴っては母さんを殴った。



 ――どれだけ母さんを守りたくても、鬼のような形相で暴力を振るうクソ親父が小学生の俺には怖かったんだ。



 母さんからは、くれぐれも部屋から出ないようにと、きつく言われていた。

 俺が殴られるかもしれない危険だけは避けたかったのだろう。

 親父が家にいる夜は、母の殴られる音と親父の怒号が耳に入らないよう、早くから布団にくるまって泣いているぐらいしかできなかった。



 ――ごめんなさい、ごめんなさいって、布団の中で呪文のように呟きながら、一晩中、息を潜めて泣いていたっけ。



 あの親父は、すでに俺の許にいない。

 殴られ、泣いていた母さんも死んだ。


 だから、この頃のことを思い出すなんて、ずいぶん久しぶりだった。

 どうして今更、こんなことを思い出したのだろう?



 ◇ ◇ ◇



 そう。

 どうして、こんなロクでもない過去を思い出したのか。



 それは今、目を閉じて倒れている俺のすぐ横で、知らない男女二人の声がケンカしているのを聞いたからだった。


「だから、何故こんなことになっているのか、と私は聞いているんだ」


「そんなのボクだって知りませんよ! 猫の配置もトラックのタイミングも、ボクが組んだスケジュール通りでしたもん!」


 落ち着いた年配の男性の声と、少し甲高くヒステリックな若い女性の声が、何やら口論をしている。



 男女の口喧嘩ってのがまた、あの頃のことを思い出させるな。

 ウチの場合は、負け犬のようにキャンキャン吠えるのが親父の方だったけど。



「ではなぜ、ここにいるのが狩野くるみではない。スケジュール通りというなら、おかしいだろう?」


「だから、それはボクのせいじゃないですってば!」


 二人のケンカは収まる気配がない。



 まったく……。

 ケンカなんか当事者同士で好きにすればいいけど、もう少し静かにしてくれないかな。

 聞かされるこっちは、あまり思い出したくないことまで思い出すんだよ。



 俺は目を閉じたまま、二つの声に向かって心の中で毒づいた。


「……む。少し静かにしよう。とりあえず目も覚めたようだし、まずは本人に説明が必要だ」


「そうですね。ボクも彼には言いたいことがありますし……」



 やれやれ、なんとかケンカは収まったみたいだな。



「富士翔悟くん。ボクたちはケンカをやめたから、キミも起きてくれない? もう目は覚めてるでしょ?」


 女性の声の方が、手をパンパンと二度叩いて言った。



 あれ? いま、この女性ひと、俺の名前を呼んだのか?

 聞いたこともない声の主が、なぜ俺の名前を知ってる?



「そうだ。私たちは間違いなく富士翔悟、君の名を呼んだ。すまんが時間もないので、早く起きてもらえるか」


 今度は男性の声が俺に話しかけてきた。



 ちょっと待て。

 こいつら、さっきから、俺が声に出していないのか⁉



 俺は目を開き、ガバッと上半身を起こした。



 ――まず驚いたのは、そこが霧の濃く立った河原であったことだ。



 俺はなぜか、河原に倒れていたらしい。

 遠くでサラサラと川の流れる音も聞こえるが、霧が濃く、しかも薄暗いために川自体は見えない。


「な、なんだよ、ここ……」



 さっきまで俺、家の近所の道路にいたはずなんだけど……。



 それどころか、ウチの近所にこんな寒々とした雰囲気の河原はなかったはずだ。

 河原は肌寒くはなかったが、体の表面ではなく心の奥が冷え込むような嫌な風が吹いていた。

 俺は思わず、開け放していた制服のブレザーのボタンを締めた。



「初めまして。富士 翔悟くん」


 再び女性に名を呼ばれ、俺は声の方を振り向く。


 そこには俺と同い年か少し下ぐらいの、紫の髪をショートカットにした色白で幼い顔立ちの女の子が、黒のビキニを着て立っていた。

 そのビキニも、そんじょそこらのビキニではない。

 南米のボインボインのお姉さんとかがエッチなグラビアで着ている、ほぼ紐みたいなマイクロビキニってやつだ。



 おいおい。

 こんな寒々しい河原で、このはなんて格好をしてるんだ。

 でも残念ながら、ボインボインのお姉さんと違って体型はツルペタだな。

 マイクロビキニが泣くぞ。

 せっかく顔は可愛いのに。



「あーーー‼ いま、失礼なこと考えた! ボクが気にしてる体型のことバカにしたでしょ!」


 急に女の子が俺を指差して怒り出す。



 しまった。

 この人たち、さっきから俺の考えてることに答えてたんだっけ。



「そうだよ! ボクたちに隠し事ができると思わないで!」



 やっぱり俺の考えてることは、すべて筒抜けになってるようだな。

 ツルペタとか、顔は可愛いって思ったのも聞かれちゃったのか。



「あーーー‼ またツルペタって考えた! ひどい! 人の体型をバカにするヤツは地獄行き決定! ……でも『顔は可愛い』とも思ってるのか。その辺は、いい審美眼を持っていると認めてあげるけど」


 女の子は、テンションが上がったり下がったりしながらブツクサ言っている。

 この間にも俺の目の前には、いくらツルペタとは言えど顔はとても可愛い女の子が、きわきわのマイクロビキニ姿のままで立っているワケだ。



 あああ。

 もう、怒った勢いで無防備に飛んだり跳ねたりするから、なんか見えちゃいけない部分が見えちゃいそうでドギマギしてしまうではないか。

 だって俺ってば童貞だから。

 これはちょっと、健全で旺盛な性欲が宿る童貞高校生への刺激が強すぎるだろ。



 スケベな想像をして彼女に読まれてしまう前に、俺は彼女からそっと目をらした。


 しかし――



「う……うわあああぁぁぁあああ‼⁉」


 そこで思わず、俺は絶叫して腰を抜かしてしまった。



 俺が視線を逸らした先に立っていたのは、身長が優に2メートルはある、茶色のロングコートを着て腕を組んだ――――骸骨だった。

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