春の終わり

工藤行人

城址公園の黄昏時

 某県の城址公園で花見をする計画は、智彦の仕事の都合ということでべになってしまった。そのことについて菜穂子は当然にもまず不満の色を見せたが、すぐさま何か思いついたかのように少しく首をかしげ、しばらく思案をめぐらすふうであった。そして、それもいつもと違って良いかもしれない、と頬を緩ませた。

 

◇◇◇


 一週間前であれば、首に痛みを感じるであろう仰角ぎょうかくで二人の視線が釘付けになっていたはずの樹々は、まだ花の色こそ優勢ながらも処処ところどころに新緑を散らしたモザイク画のようになっていた。

 歩いている最中も静風きよかぜに花びらが舞い、二人のかすめないことはなかった。こうなると、花を視界の隅に収めながら、それ以外に見るべきものを求めて視線があちこちに乱反射するのも道理であった。剪定せんていされた後の木の節目、犬と散歩する老人、土塀どべい漆喰しっくいの変色、石垣の隙間から顔を見せる名も知らぬ草、そして隣を歩く菜穂子の薄い肩を感じながら、やはり機嫌を損ねているのだろうな、と智彦は伏し目がちに彼女の横顔を伺ったが、その顔はあたかも目的地をはっきりさせた人が一切の無駄をいとうように、真っ直ぐ前を向いたままであった。

 しばらくお互い無言で歩いていると、菜穂子がおもむろに歩を速めた。お堀に架かる橋を目指す彼女に智彦も従った。

 櫓門やぐらもんくぐって橋を渡り始めた智彦は、菜穂子の視線が、開けた夕闇の空に当然向かうであろう予想を裏切って、下のお堀に向かう俯角ふかくで固定されていることに気づいた。そして智彦もまたそれにならって視線を落とした瞬間、彼はまさに言葉を失うことになった。

 お堀には、散った花びらがどこまでもほころびなく敷き詰まり、それが堀端ほりばたを照らす雪洞ぼんぼりの明かりを吸ってほのかに光っていたのである。水面みなもとろんでいささかも揺蕩たゆたうことなく、模様のない花色一色に染まった一枚の貼り絵を、遅れてきた花見客に見せていた。

 菜穂子はしゅりの欄干らんかんに手をついて、その花色に頬を染めながら、

「この間、職場の上司に聞いたの。花筏はないかだって言うんですって。綺麗よね」

と、この公園に来て初めて言葉らしい言葉を智彦に向けた。そしてすぐにまた、眼下に視線を落とした。

 智彦はただ、そうだね、とこたえるだけだった。二人は並んでしばらく同じ風景を見ていた。

 先に沈黙を破ったのは菜穂子であった。

「散る桜を一緒に見に来るなんて、五年も付き合ってて初めてだね」

「うん」

「私たちもいい歳になっちゃった。学生だった頃が懐かしい」

「そうだね。このお堀の花びらみたいに、いろいろ散り積もって五年……」

「え、私たち散っちゃったの? まだ咲いてもいないのかと思ってたのに」

「……ごめん」

この智彦の声音こわねに含まれる様々な色を菜穂子は気取けどった。

「嘘よ。でも」

「でも?」

「でも、そんなに分厚く散り積もってるなら、飛び降りても着地できそうじゃない?」

 菜穂子の口から、着地という言葉がこぼれた時、智彦は自分の心中を彼女に見透かされていることに気付いた。彼の額にうっすらと汗が滲んだのは、太陽が沈む瞬間に発する最後の熱のせいだけではなかった。

 こたえるべき言葉を選んでいたその時、智彦の眼路めじに何かが放物線を描き、それは間の抜けた水音を立ててお堀の貼り絵を切り裂いた。

 二人の静謐せいひつを破って、今度は女性の甲高い声が耳に進入してきた。

「ダメでしょ、てっちゃん、ジャガイモ投げちゃ。今日、てっちゃんの好きなカレーライス、作れなくなっちゃうよ!」

大きな声がした方に二人が向くと、今にも泣き出しそうに声を震わせる四、五歳くらいの男の子が欄干らんかんを背に立っていた。

「だって! ぽちゃんって音、聞きたかったんだもん!」

母親らしき女性は片膝を付いて男の子の前に立ちはだかり、子どもの所行をとがめ始めた。

 智彦と菜穂子は顔を見合わせた。

(そうだ、この橋から飛び降りても……)

自分は確実に沈む。にわかに、智彦の胸底にそのような思いが沸き上がった。そうだ、着地など出来ないのだ。そのことは遙か前からわかりきっていたことで、そのことに目を背けていただけなのだ。だから、いつも二人して満開の桜ばかり見上げていたのだ。見たくない足許あしもとを見ないようにして。

 欄干らんかんから手を離した菜穂子の視線は、揺らぎが収まったお堀の上に再び移ることはなく、智彦を見据えたままであった。彼の背後にある雪洞ぼんぼりの柔らかな光が揺れるその二つの黒い硝子玉に、智彦は自分の姿がもはや映ってはいないことを悟った。

「戻ろうか」

そう言う智彦に、菜穂子は顔を歪めて絞り出すような声でこたえた。

「どこに?」

 それっきり二人は動けなくなった。先ほどの母子はすでにおらず、周囲には誰もいなくなっていた。

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春の終わり 工藤行人 @k-yukito

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