チロルハイムの明日 〜大山優一〜

「ちょっと優一先輩? 糸佳先輩に伝えること、本当にないんですか?」


 十二月二十九日の朝。快晴。

 茜と一緒に糸佳自慢の音響機材を喫茶店『チロル』へ運び出す途中、僕はそんなことを言い寄られていた。なお糸佳は自分の部屋で今でも梱包作業を続けている最中。美歌は年明けに行われる追試に向けて今日も勉強中らしく、それを真奈海が付き添っているらしい。でも真奈海と美歌の学力を比較したら圧倒的に美歌の方が上だし、真奈海はただのお邪魔虫になってるんじゃないかって、そう思わないこともない。


 今日は糸佳の引っ越しの日だ。前から文香さんに一緒に暮らさないかと呼ばれていたらしく、チロルハイムを出ていくことになった。僕がその話を聞いたのは修学旅行の時だ。以来糸佳は僕のことを『お兄ちゃん』ではなく、『優一くん』と呼ぶようになった。そう、僕の父と糸佳の母親が再婚する前と同じように。長年、僕の呼び方として定着したはずだったその呼び方に戻ったんだ。


 あの時糸佳は、何かを決断していたようだった。


『それでもダメだったら、イトカを選んでください!』


 その言葉が、今でも僕の胸を強く突き刺している。あれから糸佳に対して僕は何も応えてはいないけど、ただ何も答えないというのが僕の導き出した答えでもあった。

 なぜなら僕はもう、自分の気持ちに嘘をつけなくなっていたから。


「糸佳がチロルハイムを出ていく。その手伝いをする以外に何もないよ」


 そう、だから何もないんだ。今僕が糸佳にできることは、何もないから。


「でも優一先輩はいつも未練たらたらじゃないですか?」

「は!?」

「いっつも誰かをとっかえひっかえ、あっち向いたりこっち向いたり……」

「っておい。それ、誰のことだ?」

「そんな優柔不断じゃない優一先輩なんて、らしくありませんよ?」

「…………」


 なんだか酷い言われようだ。もっとも一概に否定できない僕も情けない限りだが。


「ま、あたしとしては優一先輩と糸佳先輩がくっついて、真奈海先輩を不幸のどん底に突き落としてくれたほうが嬉しいのですけどね」

「…………」

「いやでも待ってください。ここは素直に真奈海先輩と優一先輩がくっついてくれた方が、女優春日瑠海の復活も近づくんですかねぇ〜?」

「…………」

「優一先輩、どう思います?」

「そんなの僕に聞くな!」


 それこそ真奈海にでも聞け!って思ったけど、真奈海の回答はおよそ想像がついてしまう。もっともその回答が茜が求めるものに近いのかと聞かれると若干怪しい部分もあるけど、少なくとも真奈海の答える選択肢としては一つしかないだろうな。


 それにしても真奈海は、もう女優に戻る気なんてないのだろうか?


「てか最近の真奈海先輩、なんだか見ていてムカつくんですよね〜」

「何をそんなにムカついてるんだ?」

「だって〜、アイドルを楽しそうにやってくれちゃってるじゃないですか〜?」

「いやそれなら特に問題ないだろ」

「アイドルに熱中しすぎて、女優業をサボってくれてることが問題なんですよ!」

「だから真奈海は女優を休業中だし……」

「そんなのただの言い訳。あたしは女優とアイドルを掛け持ちでやってますよ?」

「まぁ確かにそうでもあるけどな……」

「でもでもアイドルとして成功すれば、優一先輩を口説き落としたのも同然だし、女優として復活してくれるってことなのかな?」

「…………」

「優一先輩、どう思います??」

「だからそんなのは真奈海に聞けって!」


 そもそも真奈海がアイドルとして成功すると、どうしたら僕を口説き落としたことに繋がるのだろう。どこか今ひとつ話が噛み合っていない気もするのは気のせいだろうか。


「ま、そんなわけなので、糸佳先輩を振るなり焼くなりしてください!」

「茜は一体誰の味方なんだ???」


 そうこう話しているうちに、肩幅以上ある大きなダンボールを茜と二人で喫茶店『チロル』に運び終わった。重さもそこそこあったし、そもそもこのダンボールには何が入っているのだろうか? ただ、糸佳がまだ梱包中ということは他にもこんな大きいダンボールが残っているということかもしれない。糸佳の新居は文香さんと父龍太の隣の部屋だって聞いた気もするけど、これ本当に全部新しい部屋に収まりきるのだろうか?


「あ、優一くん。ありがとうございます」


 そんなことを考えていると、背後から糸佳の声が聞こえてきた。手には僕と茜が持ってきたダンボールよりもさらに一回り大きな箱を抱えており、もはやダンボールが歩いていると言っても過言ではない。少なくとも糸佳の顔はダンボールの背後に隠れてしまい、声さえなければ誰かわからなかったくらいだ。


「これで最後です。本当に助かりました! 優一くんのおかげです」

「いや……あ、うん。どうも」

「やっぱし男の子って頼りがいがありますね。イトカ一人じゃ運びきれなかったです」


 糸佳は抱えていた段ボール箱をその場に下ろし、ようやくそのにっこりとした顔を拝むことができた。ただこうして素直に感謝を言われてしまうと、いくらその童顔な糸佳と言えど、やや恥ずかしい気持ちになる。

 そういえば兄と妹になる前は、こんな風に頼られることももっと多かった気がする。それがいつから変わってしまったのか、最近はお互いに恥ずかしがっていたのか、少し距離を置くようになってしまったんだ。


「向こうに優一くんのような素敵な男の子がいるとは限らないんですけど……」

「…………ん?」


 しかしなんだろこのシチュエーション、妙にこっ恥ずかしい。


「でもでも、きっとまたイトカにも新しい出逢いがあるって信じてますから」

「お、おう……」

「きっとイトカの今度の部屋の隣の部屋には、生意気でお調子者でだらしくなくて優柔不断な男の子が引っ越してきちゃうんですよ!」

「……お、おい。糸佳?」

「いやでも隣の部屋なんて家賃がもったいないです。イトカの部屋だって十分広いんですから、イトカの部屋にそのまま住んじゃえばいいと思いません?」

「ちょっと待て。その一つ前のセリフ、誰のことを言ってたんだ?」


 確かに今度の糸佳の引越し先は、文香さんと父龍太の住む部屋のすぐお隣で、百平米ほどの3LDKの部屋だって聞いた気がする。女子高生一人で住むには十分すぎるほど広すぎだと思うのだが、さすがは社長令嬢といったところか。


「だから優一くん。イトカ、不倫は大歓迎ですよ!」

「さっきから一体何の話をしてるんだ……?」


 ただし、引っ越しとか不倫とか、さっきから話が妙な場所へ飛び火している気がする。


「そこの我儘で傲慢で男にだらしない三下アイドルに我慢ならなくなったら、いつでもイトカの部屋に逃げてくればいいんです。イトカ、いつでも待ってますから」


 糸佳は微笑んだ。そこにはもう僕のこと『お兄ちゃん』と呼んでいた小さな女の子の顔はなくて、兄離れと言うか、また一歩、大人の女性の凛とした表情へと変わっていたんだ。

 ……じゃなくて、結局どういう話をしてたんだっけ!??


「あの〜。糸佳先輩、優一先輩? 下手なラブコメの別れの挨拶は終わりました〜?」

「下手とかじゃありません! イトカは本気ですよ!!」

「まぁあの三下アイドルが我儘で傲慢で優柔不断なのは、あたしも非常に賛同し……ふにゃ!?」

「あっかねちゃん! それ、一体誰のことを言ってるのかな〜?」


 気がつくと茜の背後には真奈海がいた。後ろから茜の両頬を両手で強く引っ張り、ぐにゃぐにゃぐにゃと上下左右前後に動かしている。真奈海の隣には美歌もいて、今やふにゃふにゃになりつつある茜の顔の行く末を案じているようだ。


「糸佳ちゃんも荷物運び終わったんなら、とっとと引っ越しちゃいなさいよ〜」

「真奈海ちゃんのそういうところが我儘で傲慢で男にだらしないって言ってるんですよ!」

「は? これって我儘で傲慢かもしれないけど、男にだらしないとか関係なくない?」


 ……いや真奈海、我儘で傲慢な点については否定しなくていいのか?


「ちょっと真奈海ちゃん。それ以上やると茜さんの顔、本当に壊れちゃう!!」

「いいのよさっき糸佳ちゃんも言いたい放題言ってくれたんだからこれくらい……」

「そうじゃなくて、茜さんも一応女優でアイドルだから!!」

「あの〜。あたひ一応じゃなくて、ちゃんと女優でアイドルでふよ〜」

「そうですよ美歌ちゃん。そんな生温いこと言ってるから真奈海ちゃんに取られちゃうんです!」

「え、ちょっと待って。あたしが真奈海に取られたって…………なんのこと?」

「……あの〜美歌ちゃん? それ、本気で言ってるんですか???」


 美歌はぽかんとした顔を見せている。完全に話に取り残された女の子のようだ。


「糸佳ちゃんと美歌がどんなに結託しても、絶対にユーイチは譲らないからね!」

「そんな宣言今は必要ないので、とっととその手を離してくたさい! ……いたた」


 茜の顔は本当に壊れそうな形相だ。その瞬間、茜とぴったり目が合ったけど、まるで子犬が『助けて』と言わんばかりに、僕に訴えかけてくる。僕は慌てて視線を逸らす。……茜には大変悪いが、僕に真奈海の暴走を止められる手段はない。


 次に糸佳と目が合った。小さい頃から僕を『優一くん』と呼んでいたその声は、今も何一つ変わっていない。お互い隣同士で、お互いの階段を昇っていく幼馴染。だけど糸佳はもう僕のことを『お兄ちゃん』と呼ぶことはないだろう。こんな風に見つめ合うと、少し前の糸佳ならすぐにすっと逸していたはずなのに、今は真奈海と対峙することを選んでいるのだから。


 次に美歌。チロルハイムの中では誰より真面目で一生懸命で頑張り屋さん。全力疾走をしすぎて、たまに自分の居場所さえもわからなくなってる気がする。でもそれが美歌の良さでもある。まだ目覚めたばかりの女の子は、これからさらに美しい女性へと成長していくことだろう。真奈海も認めたライバルとして。……まだ本人がどこまで自覚しているのか、さっぱりわからないけどな。


 最後に、真奈海と目が合った。いつも我儘でマイペースで、僕を困らせることにおいては人一倍そのツボを熟知している女の子。国民的女優だの、国民的アイドルだの、普段は大人顔負けの仕事をやってのけてしまう春日瑠海であるはずなのに、チロルハイムではまるで別人のように振る舞ってくるんだ。でも、それもそのはずだよな。真奈海がどんなに有名なアイドルであっても、真奈海本人は人の笑顔を誰よりも願うだけの普通の女子高生なんだから。本当は誰よりも寂しがりやで、甘えんぼで、そんな気持ちを前面に出して僕の胸へぶつけてくるんだ。


 お互いがお互いの道を進んでいく。その道は、時に険しいものかもしれない。

 一人で進むと険しい道でも、互いに互いを巻き込めば平坦に感じることだってあるだろう。

 誰だって一人ぼっちは辛い。暗闇の道を歩くのは、心細いときもあるはずだ。

 それでも手を取り合いながら進んでいけば、自ずと暗闇の中に光が見えてくるはず。

 チロルハイムはそんな場所。朝になれば明るくなり、夜になれば暗くなる。

 一人じゃできないことを、住民みんなで叶えようとする、そんな場所なんだ。

 明日もまた、朝日は絶対に昇ってくるんだから。


 お〜い真奈海〜。そろそろその手を離さないと、また文香さんに怒られるぞ〜。

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チロルハイムの四次元彼女 鹿野月美 @shikanotsukimi

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