Epilogue

年の瀬のコロンビアコーヒー 〜霧ヶ峰美歌〜

 十二月二十八日。あたしはチロルハイムに戻ってきていた。


 先週のクリスマスライブで最後の一曲を力の許す限り歌い終えたあたしは、半ば放心状態にあった。一曲歌っただけなのに、ダンスは茜さんに全て任せたはずだったのに、それでももう息をするだけでも精一杯で、あたしの隣で見守っていてくれた管理人さんにその顔を心配されたくらいだ。そして管理人さん、歌い終わった後も必要以上にあたしの身体を庇おうとするんだもん。『話せるか?』とか『車椅子、自分で動かせるか?』とか。後でその様子を見に来た真奈海の視線の方があたしには怖くて、またいつもの冷たい態度を取ってしまったわけだけどね。別に管理人さんが悪いわけじゃないの。あたしがただ素直になれないだけ。……だと思うよ? 多分だけど。


 退院したのはそれから二日後。つまり昨日だ。

 元々あたしはただ眠っていただけだし、それ以外のどこかが悪かったわけでもない。そしたらリハビリも兼ねてと早々に退院することになった。ライブのときにはまだ必要だった車椅子も今では不要で、ひとまず病院からは念のためと松葉杖を渡されているけども、それすら使用することはまずない。もちろん激しい運動は厳禁。だからしばらくはダンスも『BLUE WINGS』の活動もお休みとなってしまう。真奈海にはまた迷惑をかけてしまうけど、真奈海にしてみたら『復帰の目途が立っただけでも嬉しい』って、そう言ってくれたんだ。


 そういえばクリスマスライブの翌日の芸能ニュースも大騒ぎしてたっけ。


『悲劇のヒロイン春日瑠海、またしてもドッキリを仕掛けられる!』

『蓼科茜の陰謀炸裂! 春日瑠海を陥れた今年最後の罠とは?』

『春日瑠海崩壊! 『奇跡の歌姫』未来からのプレゼント』


 ……うん。これらは全部同じことを言ってるはずだけど、およそ構図としては茜さんが悪者で、真奈海が悲劇のヒロインに仕立て上げられていた。もちろんこれには茜さんも真奈海も納得していないらしく、『なんで徹夜で準備したあたしが悪役にならなきゃいけないのよ!』とか、『わたしが悲劇のヒロインとか絶対に納得できない!』とか、あたしがチロルハイムに戻ってきた昨日になっても、愚痴をだらだら溢していた。まぁあたしに言わせると、やっぱしどちらも自業自得と思わないこともないけどね。


 だけど、一番大きな報道はあたしのことよりむしろこっちだったりして。


『BLUE WINGS新メンバーの天才ミュージシャンITOは、女子高生だった!?』


 突如現れた『BLUE WINGS』の新メンバー、ITO。作曲家として既にその名声を手にしていた糸佳ちゃんだったけど、まさかの女子高生だったという事実はセンセーショナルな内容として強く報道されていた。ネットではまだ『名前だけで偽物では?』と囁かれているのも事実だけど、実際にライブを観に来た人の感想は『偽物だったら瑠海や茜とあそこまで対等にやりあえないだろ』とか『キーボード二台であのメドレーの弾きこなしは本物だった』とか、そんな肯定の声が疑いの眼差しを全て上書きしている。『そういえば学園祭ライブの時にもいなかった?』などという声もあるにはあったけど、そのライブについては知らない人のほうが圧倒的多数なので、あまり話題には挙がっていないらしい。

 ただ……糸佳ちゃんのMCの内容がアレだっただけに、案の定とも言うべきか、文香さんの一存で『私の娘ということは絶対に伏せて!』となったらしい。確かに糸佳ちゃんは学校の成績も優秀だし、作曲家としても完全に申し分ないけど、天然な性格は正直あたし以上だ。そんな糸佳ちゃんが社長令嬢とわかれば、さらに大きな見出しがついて話がややこしくなりかねない。文香さんの気持ちも察してあげるべきだよね。


 そんなことが諸々あった年の瀬で、あたしは自分の部屋の二〇二号室にいる。

 すると机の上に置いてあったスマホがぶるぶる震え、着信があったことを伝えていた。


『退院おめでとう! さっきネットニュースで見たよ〜』


 美都子からのチャットだ。修学旅行で同じ班だったけど、その途中であたしが倒れてしまってから、ずっと心配してくれてたって、昨日糸佳ちゃんから聞いていた。


「ありがと〜。でもネットでそんな記事まで出てくるなんて、なんか恥ずかしいね」

『そんなことないよ〜! だって美歌いつも頑張ってるじゃん』

「あたしここ一ヶ月仕事放棄してずっと眠ってただけだけどね」

『眠ってた分だけリハビリ頑張るんでしょ? 応援してる』

「ありがと」


 最後にうさぎのスタンプで『頑張れ』と送られてきた。美都子らしい可愛いスタンプだ。あたしももう一度『頑張らなきゃ』って、改めて認識する。

 でも今頑張らなきゃいけないのは、リハビリの方ではなくどちらかというと……。


「お姉ちゃん! 数学の勉強中にミクと通信するのは絶対禁止です!」

「してないから!! それは美希の完全な誤解だから!!!」


 あたしが退院した時、既に学校は二学期が終わっていた。だけどあたしはずっと眠っていたわけで、試験を全く受けていない。学校と協議の結果、冬休み明け早々、あたしは追試を受けることになったんだ。で、糸佳ちゃんのノートを借りて、年末の掃除もせずに勉強に明け暮れる毎日。しかも妹である美希の監視付きだ。


「てゆか美希は自分の部屋の掃除とか大丈夫なの?」

「それならネンにやってもらってるから大丈夫だよ。お姉ちゃんが心配しなくても」

「ネンって……確かあたしそっくりの人形のことだっけ? あたしが意識を取り戻してから動かなくなったって聞いた気もしたけど?」

「そのネンにミクを移植したんです。だから今は普通に動いてますよ?」


 ここまでの会話の流れ、恐らく他の人に聞かれても何の話かさっぱりわからないと思うけど、正直なところあたしも今ひとつ理解しきれていない。ただ何となく聞いた話だと、ネンというのは、高さ十五センチほどのお人形さんで、以前あたしが交通事故で一時的に意識を失っていた時に、あたしの魂が宿っていたとされる人形なんだそうだ。もちろんあたしはそんな人形に宿った記憶は一ミリもないし、そもそもあたしの魂とか何のこと?と思わないこともない。ただし何の因果か、あたしが意識を取り戻していくのと同時に、ネンも徐々に動かなくなっていったんだとか。それが今年の春のこと。美希はネンが動かなくなったことを不思議に思って、あたしのいるチロルハイムに尋ねて来たというのだから、あたしにとってこのネンという人形は迷惑極まりない人形だ。

 で、そのネンという人形に、今度はミクが宿っているとのこと。ミクというのはつまり、およそ一ヶ月前まであたしの身体に同居していた、あのAIのことだ。これまたあたしにとっては非常に迷惑なAIだったけど、今では無事にあたしの元を離れ、ネンとして美希の家で新しい生活を送ってるということらしい。


 ミクとあたしは、今でもネットワークを介して会話ができる。それってあたしの考えていることをずっとミクに覗かれているような気もしていて、なんだか少し気持ち悪いけど、それでもいざとなれば難しい数学の計算も簡単に解いてくれるし……


「……お姉ちゃん。今ミクにこの問題を解かせましたね?」

「って、なんでわかるの!??」

「このPCでお姉ちゃんとミクの通信状況は常時監視をしています」

「…………」


 ねぇ美希? そうやって、あたしの考えてることまで覗いてたりしないよね??


「美希さん。ちょっと美歌を借りていい?」


 あたしの部屋二〇二号室のドアが開き、救いの手を差し伸べてきたのは真奈海だった。


「数分だけなら……」

「てか美希。なんであんたがあたしをそこまで監視する必要があるのよ?」

「だって……ネンのいる家に今は戻りたくないと言いますか……」

「まさかあんた、同居している男の子とまた喧嘩中とかそういう話じゃないでしょうね?」

「お姉ちゃんには関係ないでしょ!」

「そうじゃなくて、だったらあたしを巻き込むな〜!!」


 ミクに通報。『美希ならあたしの家にいる』って。


「ああ〜、お姉ちゃん! 今、あたしの居場所をミクにばらしましたね?」

「頼むから痴話喧嘩ならあたしを巻き込まないでくれる!?」


 こうしておけば、一時間ちょっとで美希の同居人の男の子がここに迎えに来てくれるだろう。あたしの迷惑な監視役がようやくいなくなるわけだ。

 美希は交通事故で両親を失った後、父の研究を手伝っていた男の子を頼ったんだそうだ。さっき話題に出てきた人形のネンだって、元々はその男の子が制作したもの。何の因果か、そんな人形にあたしの魂が迷い込んでしまったらしいけど、そんなのもはやあたしの理解の範疇を越えている。


「あの〜、今お取り込み中だった???」

「真奈海大丈夫だよ。もうすぐ美希は同居人が迎えに来てくれるらしいから」

「そ、そうなんだ……」


 こんなしようもない姉妹喧嘩に真奈海を巻き込む必要はどこにもない。あたしは真奈海と一緒に部屋を出て、二人で喫茶店『チロル』へと向かった。


 管理人さんは糸佳ちゃんと一緒に、引っ越しの準備をしている。糸佳ちゃんの引っ越しが明日に迫り、今晩は糸佳ちゃん最後の晩餐となるらしい。と言っても、またいつもの激辛カレーなんだろうけどね。なお茜さんは自分の部屋に籠もって、黙々と年末の大掃除を進めているようだ。

 だから年の瀬を迎えた日中の朝、喫茶店『チロル』には静けさが漂っていた。


「ねぇ、美歌?」

「ん? な〜に、真奈海。なんだか改まっちゃって……」


 真奈海がコロンビアコーヒーを淹れる。普段めんどくさがりの真奈海がこうやってコーヒーをドリップして淹れる光景はあまり見ない。


「コーヒー、コロンビアでよかった?」

「うん。あたしはなんでもいいよ」


 ましてや今日の真奈海ときたらあたしの分まで淹れようとしてるんだ。明日は季節外れの雨が降るんじゃないだろうか。でもそのくせ、案外手慣れた手つきだったりして。ひょっとすると真奈海って、人に見られるのが嫌なだけで、一人でこっそりいろんなことに挑戦しているのかもしれない。そう考えると何ともいぢらしい普通の女子高生だ。


「クリスマスイブのことなんだけど……」

「イブが、どうかした?」


 真奈海は妙にもじもじしている。そこに春日瑠海らしさはどこにもない。


「あれ、見てたの……?」

「なんのこと?」


 そもそもイブって、いつのことだったっけか? あたしはすぐにその会話の流れが急には掴めなかったので、冷静になって思い返してみる。ようはクリスマスの前日だから、あのライブの前の日のこと。そうするとあたしはまだ病院にいて……あ〜、その話のことか。


「だからあれよ〜。あれ!」


 ただし真奈海の反応もかなりいい加減だ。ので、ちょっと意地悪してみる。


「真奈海がわんわん泣いてたのなら、あたしも見てたよ」

「うんそれも猛烈に恥ずかしいんだけど〜!!」


 真奈海の顔は『どうせわかってるんでしょ!』くらいの顔をしている。だからあたしも負けじと敢えてその話から逸したんだ。真奈海って、こういう色恋沙汰になると途端に本物の女子高生っぽくなる。まぁ確かに女子高生には変わりないんだけど、真奈海がこんなだから諸々上手くいってないんじゃにかって、そんな疑いさえもあるんだ。


「真奈海ってさ。キスを見られるの、そんなに嫌だった?」

「だってまだ美歌が眠ってると思ったんだもん」

「だからって、他人の病室でキスをするのもさすがにどうかと思うんだよな〜」

「いやほら、キスしたら目を覚ますって、お話の中でもよくあるじゃない?」

「それは寝ている人にキスしたらだよね? 関係ない人同士がキスしても意味ないよね!?」


 言い訳にも程がある。ただしそれらひっくるめて今日の真奈海は可愛いんだけど。


「だから……ごめんね」

「別に謝る必要なんて一ミリもないよ。真奈海があたしを心配してたのだってもちろん知ってるから、あたしはそっちをちゃんと信用してる」

「でも……」


 もじもじとする真奈海。だけど本当は謝ってほしくなんてない。


「それに、管理人さんの初めてを奪ったのはあたしの方だしね!」


 だから逆に意地悪をしてやるんだ。


「そうだ。学園祭!! なんでわたしの目を盗んでキスなんてしてるのよ〜!」

「急に手のひら返し!?」

「それにあれがユーイチにとっての初めてだなんて、本当に言い切れるのかな〜?」

「あ〜。あの時の真奈海の落ち込んだ様子を見たら、少なくとも真奈海はまだだったよね?」

「っ……」

「糸佳ちゃんとキスしてた可能性もなくはないけど……まぁそれはないでしょ」

「ねぇ美歌。それ本当に言っていいの? 大丈夫なの!?」

「だからあたしは管理人さんにとっての初めての人。真奈海には譲れないね」


 こう返しておけば、真奈海は謝ることなんて忘れるだろう。というより謝る必要なんて最初から一ミリもなかったということ。それなのに真奈海ときたら……。


「それに、管理人さんが真奈海を選んでることは、あたしだってちゃんと知ってる」


 そう。だからこそ真奈海には謝ってほしくない。


「だから真奈海には、もっと堂々としていてほしい」

「堂々と……?」

「そりゃあたしの病室でキスしてくれたのは多少ショックだったけどね……」


 ……多少? 長い眠りから覚めて、その後すぐにあたしの好きな人が別の女子とキスしてるのを見せつけられるってそれはどうなんだろう? ……とかとか思わないことないけれど、まぁそれはさすがに今更かな。


「でもさ。そこであたしに気を遣う必要なんて全くないんじゃないかな?」

「美歌……」

「ま、気を遣ってばかりの管理人さんだったから、あたしは好きになっちゃったんだけどね」

「って、話を丸く収めようとしながら突然の宣戦布告!??」

「だからさ……」


 あたしは真奈海が淹れてくれたコロンビアコーヒーをほんの少し口に運んだ。

 苦さと甘さが混ざりあったブラックコーヒー。口の中がほんのりと温かくなる。

 そういえば真奈海って、コロンビアコーヒーが前から大好きだったよね。


「真奈海がぐずぐずしてたら、本気で管理人さんを取っちゃうから」


 あたしは口に運んだコーヒーをごくりと飲み込んだ。あたしの顔が今どうなっているのかわからないのだけど、ただ恐らくは真奈海とおんなじような顔をしてるんじゃないかって、そう思ったんだ。


 真奈海ったらあたしに負けじと、にっこり微笑みを返してきたから。

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