春風ひとつ、想いを揺らして

野森ちえこ

名前はいらない

 彼はとても、影が薄い。すぐそこにいても存在を感じさせない。すこしキレイな言葉をえらぶとすれば、はかない――だろうか。風でも吹いたら跡形もなくかき消えてしまいそうだ。実際ひどくマイペースな彼は、現実でもふいにいなくなる。時代が時代なら優秀な忍者になれたかもしれない。


 しかしその存在感のなさに反して、彼が描く絵画の圧倒的な吸引力は恐ろしいくらいだった。突出した観察力と抜群のセンス。才能のかたまり。


 彼は油画。あたしはグラフィックデザイン。専攻も、おそらくはこの先進む道もちがうのに、彼が持つありあまるほどの才能に、出会ったそうそう問答無用で打ちのめされた。


 それが彼、薄井友うすいともである。



 ◇



 なんのサークルだったか、なりゆきで参加した新歓コンパ。あたしとおなじく新入生だった彼は、会場のすみっこでひとりスケッチブックをひらいていた。近くをとおったとき、たまたま目にしてしまったあの衝撃は、きっと一生忘れないと思う。


 たのしそうな顔。退屈そうな顔。ビールにフライドポテト、サラダにからあげ。ただの鉛筆スケッチなのに、いきいきと息づいている、もうひとつの世界がそこにあるみたいだった。


 大学に入学してすぐ彼の存在を知ったのは幸か不幸か、人によって意見がわれそうだが、あたしは幸運だったと思っている。本物の『天才』というものは、おなじ空間にいるだけで刺激になるような気がするのだ。

 ただ彼の場合、影が薄すぎて、いつのまにかいなくなっていても気づかなかったりする。刺激もなにもあったものではないが、もしかしたら、その存在感のなさが彼のマイペースぶりに拍車をかけているのかもしれない。


 それゆえ――か。彼のすごさを認識している人間はほとんどいなかった。いや、気がついている人間はたぶんたくさんいた。彼のスケッチひとつ、デッサンひとつ、ほかの学生とは次元がちがう。仮にも芸術を志す人間にわからないはずがない。わかるからこそ、ライバルにすらなれないと思い知らされて、けれどそれを認めたくなくて、彼の存在感の薄さを盾に見て見ぬふりをしていたのだ。だから誰も、彼を正当に評価しようとしなかった。学生たちばかりでなく、講師や教授たちでさえも。


 どんな才能だって、それを評価する人間がいなければ意味をなさない。


 だがその点において、とうの本人がまるで無関心だった。おそらく彼にとっては『描く』ことがすべてなのだ。描きたいから描いているだけ。芸術大学に進学したのだって、思うぞんぶん絵を描けると思ったからではないだろうか。そう思ってたずねてみたら、あっさり肯定された。好きなだけ描いていても『怒られないから』と。


 無欲なのかどん欲なのかよくわからない。


 名声などに興味がないという意味では無欲なのだろう。そこだけ見て美徳ととらえる人もいるかもしれないが、ふざけるなと思う。これほどの才能を埋もれさせておくなんて、それはもはや罪だ。


 聞けばこれまでコンクールらしいコンクールに出したことすらないという。彼のいいぶんはただひとつ。


『だってめんどくさい』


 これである。怒る気にもならなかった。手続きとか運搬とか、そんなことしている時間があるなら『描いていたい』のが彼なのだ。これはもうしかたない。しかたないと思ってしまうような絵を彼は描く。

 問題はまわりの人間だ。教師は、親は、友だちは。なぜ誰ひとり行動しなかったのか。ひとりひとり問いただしてまわりたいくらいだった。


 感動は、ときに人を救う。


 すごい。素敵。いいもの見た。出会えてよかった。そんな感動が、また明日からがんばろうという気持ちにさせてくれたりする。


 そして彼の絵には、十分すぎるほどにその力がある。わけもなく泣けてしまうほどに、深く胸を打つ。すくなくともあたしは、強く強く、心をつかまれた。


 だから――


 ほかに誰もやらないなら、あたしがやる。

 彼の絵を、光のあたる場所につれていく。


 大学一年生の夏、あたしはそう決意した。



 ◇



 秋のはじまり。あたしが手続きを代行して出品した、それなりに有名な絵画コンクールで、彼の絵は大賞をとった。あたりまえだ。出すところに出せば、必ず評価されると思っていた。

 その結果、あちこちの画廊や画商からアプローチされるようになり、彼は画家としての道を歩きはじめた。そうなれば、もうまわりの教授や学生たちも無視できない。見事な手のひら返しだった。


 こちらの無知につけこんで、展示費用をどっさりふっかけてくるようなぼったくり画廊とか、あやしげな連中もむらがってきたけれど、先輩や教授たちにも相談しながらすべてはたき落とした。もちろんあたしが。

 そうして最後にひとり、信頼できそうな老舗画廊のオーナーが残った。現在、彼の作品はすべてそこで管理してもらっている。



 激動の数か月だった。けれど、まわりがバタバタしているあいだも、彼は彼のまま、マイペースに絵を描いていた。これがほかの人間だったら腹が立ちそうだけれど、彼の場合はなぜだろう。マイペースでいてくれることに、むしろ安心した。


 気がつけば新しい年が明け、桜はいつのまにか満開になっていた。そして、状況的にも精神的にも、ようやくいろいろなことが落ちついてきたある日、あたしは彼から一冊のスケッチブックをもらった。


「ずっと考えてたんだけど、どうやってお礼したらいいのかわからなくて」


 そこには、たくさんのあたしがいた。笑っているあたし。ふてくされているあたし。歩いているあたし。お弁当をたべているあたし。振り向いたあたし。空を見あげているあたし。


「こんな……いつのまに」

「ほとんど記憶だより。でも、描きすぎてえらべなくなった」


 気にいったのがあったらキャンバスに仕上げてプレゼントしてくれるという。


 見返りを求めていたわけじゃない。だけどこの瞬間、すべてがむくわれたような気がした。


「……なんで泣いてるの」


 そういわれてはじめて自分の頬がぬれていることに気がついた。ごまかそうとして、だけどすぐに思いなおす。


 ひとつひとつのスケッチから『ありがとう』があふれている。これほど無垢でまっすぐで、あたたかい心をもらっておいて、意地をはるなんてバカげている。


「うれし泣き」

「よかった」

「ありがと」

「うん」


 最近よく、彼と『つきあっているのか』と聞かれる。はじめて聞かれたときには、意味を理解するまでにしばらくかかった。


 カマトトぶっているわけではなくて、あたしのなかで、彼はそういう場所にいなかったのだ。


 特別な存在であることはまちがいない。だけどそれは、男とか女とか、好きとか嫌いとか、そういったことではなかった。だからといって友だちとか、仲間とか、そういうものともすこしちがうような気がする。


 彼は彼。薄井友という唯一無二の人間としてあたしのなかに存在している。

 彼との関係に名前はつけられない。つける必要もないと思っている。


 ぶわ――っと、ぼやけた春の風が、地面を飾っていた桜の花びらを巻きあげる。


 彼はまるで風の姿が見えているみたいに、目を細めて右から左に顔を動かした。


 いつもフラットで、感情の起伏もあまりないように見えるけれど、彼はふつうの人間にはとらえられない『なにか』を、とても繊細に感じとっている。

 彼の心がどれほど豊かでこまやかな感性を持っているのか、その絵を見れば一目瞭然だ。


 どこかぼんやりと、リュックからスケッチブックをとり出した彼は、さらさらと鉛筆を走らせる。


 春が、生まれていく。


 いつまで彼とこうしていられるのか。わからないけれど、できればもうしばらく、この名前のない関係のまま、そばにいたいと思う。


 春風ひとつ、想いを揺らして。


 その『揺れ』を絵筆にのせる彼は、目には見えない想いを、今日もキャンバスに描き出す。



     (おわり)



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