第5話

 三日間降り続いた雨がやんで、頭上に真っ青な空が広がった。

 図書館の前庭の芝生も陽光を浴びて緑のなかを水の粒がきらきらと輝いている。僕は湿った土と緑のにおいが混じり合った澄んだ空気を吸い込んで、大きく空を仰いだ。

 図書館に入館し、エントランスを通って書架の並ぶフロアに入る。館内は一部の窓が解放されていて、いつもより幾分大きな空気の流動が感じられた。

 貸し出しカウンターを見やり他の利用者が並んでいないのを確認すると、先日借りた伝記を手に急ぎ足でカウンターへ向かった。開館して間もないにも関わらず、フロアにはすでに十人ほどの人影が見える。

「返却お願いします」

 瑞枝さんは僕の声に視線をわずかに上げ、表情を変えずに返却手続きを行った。

「今日も来てますか」

「一番乗りだったわ」

 瑞枝さんが軽く頭を動かして奥の自習席を示しながら答えた。

 遠慮気味に斜め後ろを振り返って見ると、今日もあの女の子が熱心にノートにペンを走らせていた。服はTシャツに薄いベージュ色のコットンパンツというカジュアルなものだ。

「制服を脱いで気が楽になったみたいね」

 女の子は瑞枝さんに本の持ち出しを指摘された次の日の午後、私服姿で大きな布製の袋を持って図書館に現れ、深々と頭を下げて十一冊の小説を返却した。そして、瑞枝さんと短く言葉を交わすと、笑みを浮かべてこれまでと変わらず自習席に座った。瑞枝さんが言うには、彼女はこれからも引き続き大検の合格を目指して勉強を続けると話したらしい。夏が終わったらこの近所のフリースクールに通うことも考えているそうだ。

「それにしてもよくあんなに確信を持って彼女におおみえきれましたよね。だってよく考えたらスーツ姿のあの男の人だって身分を偽ってないとは限らないじゃないですか。そこを突っ込まれたらどうするつもりだったんですか」

 今日もフロアの入り口付近の雑誌コーナーでビジネス誌を熟読している男の人を横目に見て言う。

「たしかにそういう切り返しも考えられたわね。でも本を持ち出しているのがあの子だっていう確信はあったし、あの男の人が身分を偽っていないことも前々日の夜に確認済みだったから」

 その言葉に驚いて再び視線を瑞枝さんの方に戻すと、瑞枝さんが眼鏡のツルに触れる素振りをした。

「まさか」

「午前中は営業回りで、午後からは店舗勤務だそうよ。夜に駅前の眼鏡屋さんに行ったらちゃんと接客してくれたわ」

 僕はなんだか体の力が抜ける思いがした。

 瑞枝さんは多分だいぶ前からあの女の子が怪しいと睨みながら、貸し出し期限と貸し出し冊数が限度に達するまで盗難行為をわざと静観していたのだ。もしかしたら一度くらい女の子が新刊本を盗る素振りを目撃したかもしれない。それでも『貸し出し』と定義づけられるギリギリまで彼女を信じて待ち続け、いざ指摘しなければならないとなった時はすべての裏を取った上で、事実で追い詰めるのではなく彼女個人の内面を汲み取る言葉で踏みこんだのだ。

「瑞枝さんてなんなんですか」

 瑞枝さんが表情を変えずに僕の方を見る。

「こうやって僕の話を聞いてくれたり、盗難をしてる女の子の心情まで推し量ったり。素っ気ないように見えるけどいつも利用者のことを第一に考えて動いてくれてる。一体どうしてそんなことまでしてくれるんですか」

 瑞枝さんが黙ったまま僕の顔を見つめた。

 一瞬瑞枝さんが目を細めたような気がした。

「考え過ぎね。私は結婚にも家族にも縁のない、ただ本を貸し出すだけの図書館司書よ」

 いつもの調子でいなすように言って、瑞枝さんはまた視線を落とす。僕がさらに言葉を重ねようとすると、机の下から雑誌を取り出してこちらに差し出した。

「いつもあなたが読んでる美術雑誌の最新号よ」

 僕は息を呑んだ。

 その本の表紙には小さい頃から見慣れた絵があった。

「私のことなんかより、自分のことを考えた方がいいわ」

 それは母の絵だった。羽根の生えた天使のような少女のシルエット。画風は多少変わっているが見間違えるはずがない。表紙には『海外で活躍する日本人アーティスト』という文字が踊っている。ずっと創作活動をしていた母は、七年前ボランティア活動で知り合ったアーティストの男性と海外に移住するために家を出て行ったのだった。

「あの日あなたの描いた半袖のブラウス姿の女子高生のスケッチに惹き付けられるものがあったから、私もあの子が女子高生じゃないって確信が持てたのよ」

 瑞枝さんの声が優しく耳に響いた。父さんと二人きりになったあの日、蓋をした想いが堰を切ったように溢れ出てくるのがわかる。小さい頃母と二人でクレヨンや絵筆を片手に画用紙と向き合った時の高揚感が蘇って胸が押し詰まった。

「瑞枝さん、僕ね」

 口を開いたのと同時に自分の名前を呼ぶ怒鳴り声が聴こえて、声のする方を向いた。

 振り向いた視線の先、フロアの入り口の前に父さんが立っていた。

「圭人(けいと)!お前何をやってるんだ。予備校の先生から最近来てないって昨日連絡があったぞ。後を追ってみたら図書館なんかに入り浸って。行きたい大学があるんじゃなかったのか」

 父さんはそう言って猛然とカウンターの方に近づいてきて僕の腕を掴んで引っ張った。

「やめてよ!」

 僕は突然の事態に混乱しつつも反射的にその手を振り払い、弾みで父さんの足下に美術雑誌が落ちた。

「お前これ」

 あとずさった父さんが雑誌の表紙に目をやって小さく呟き僕の方を見る。

 気持ちが揺らぐのを感じて瑞枝さんの方を振り返ると、瑞枝さんが目を伏せたまま小さくうなずいた。

「父さん僕ね」

 もう一度父さんと向き合って声を搾り出す。

「大学で美術の勉強をしてみたいんだ」

 父さんの顔が今にも泣き出しそうに歪んだ。

「ずっと絵が描きたかったんだ」

 窓から吹き込む暖かな風に周囲の空気が大きく震える。

 視界の端で床に落ちた雑誌の表紙がゆっくりとめくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ものがたりのある場所 佐藤 交(Sato Kou) @yuichiro7212

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ