第2話

 瑞枝さんが最初に本の盗難に気づいたのは約三週間前のことだった。

 閉館後に館内を見回っている時、なんとなく新刊の棚の光景に違和感を憶え、パソコンで貸し出し状況を調べたところ、案の定貸し出し手続きをされていない新刊小説が一冊なくなっていたそうだ。

 それでも始めは、時々起こる単発的な盗難の類いだと思いあまり気に留めていなかったが、その日から定期的に新刊小説が無くなるようになり、それから十日間で合計四冊ほどが無くなったあたりで、その行為が意図的に繰り返されているものであることに気づいたらしい。

 持ち出されているのが一貫して新刊小説ばかりであることや、なくなる時間帯が決まって朝の早い時間であることから、それらはこれまでの八件とも同一人物の行いであろうと推測された。また、朝の早い時間に来る利用客はほとんど決まっており、本が無くなる日だけ別の人物が決まって現れるのならすぐにわかるはずなので、毎朝早くから来る常連利用者三人のうちの誰かの仕業ではないか、というのが瑞枝さんの見解だった。

 スポーツ新聞に目を凝らす初老の男性、学校をサボっているのであろう制服を着た女子高生、スーツを纏い黒革のビジネスバッグを持った営業マン風の男。

 懸命に毎朝開館直後の図書館の光景を思い出し、何か盗難の兆候のようなものはなかったかと考えを巡らせてはみるものの、これといって思い当たることはなかった。何よりそんな人数の少ない目立つ状況の中で、カウンターの斜め前の棚にある新刊小説ばかりを盗む理由が僕にはわからなかった。


 話をちゃんと聴いているのか、というようなことを呼びかける声がして、図書館での事件に思いを馳せていた僕は今自分が予備校の面談室にいたことを思い出した。

 視線を上げると、担当講師の杉本先生が不安気な面持ちでこちらを見つめていた。二十代後半で溌剌とした爽やかさが売りの杉本先生がこんな表情をしているのを見るのは、高校三年時にこの予備校に通い出してから初めてかもしれない。

「本当にどうしたんだよ。高三の時や今年度の春先はあんなに意欲を持って取り組んでたじゃないか。いくらお前がもともと成績が良いとはいっても、一ヵ月も欠席してたら頭の回転は鈍るし、試験に対する感覚だって少しずつ失われてくんだぞ」

 杉本先生はわずかに悲哀を帯びた声で言った。

 僕は『自分が今も難関国立大学を志望している』ということを前提に語られる話を聞いていることが耐え難く、目を逸らして部屋を見回した。白い壁に白い机にホワイトボード。全体的に白っぽいトーンで統一されたこの部屋には視線を落ち着けられる場所がなく、仕方なく俯いて、太腿の上で握られた自らの両こぶしを眺めた。

「確かに予備校は単位を取って卒業しなきゃいけないっていう義務を生徒が負ってるわけじゃないし、こっちは高い授業料を払ってもらってるわけだから無理強いは出来ないけど、お前にはここで有意義な一年を過ごしてもらって、順調に目標の国立大学に合格してもらいたいんだよ。それがこの地方都市の予備校の実績と宣伝にもなるし、お前にだって際立った実績をあげた生徒への特別措置として授業料を一部返還してやれるんだ」

 杉本先生のこういう明け透けで率直な物言いは嫌いではなかった。むしろ変に美辞麗句で取り繕われるよりはずっと清々しかったが、そもそも国立大学へ行くことに意味を見出していた理由自体が消失してしまった今の僕には、先生が語るその言葉に対してただ無表情のまま押し黙っていることしかできなかった。

「ほら、なんか将来の目標とか夢とかないのか。大学に入ればそれに関することを学べると思えば、少しはやる気が出るんじゃないか」

 なんとか僕の反応を引き出そうとしてか、先生が矢継ぎ早に口にした言葉のなかで、『夢』という単語だけが意味を持ち合わせない無機質な音として耳に響く。いくら考えてもその言葉の含んでいるイメージの実感を掴むことができず、僕は思考を空回りさせた。

 一体、最後に夢という言葉を口にしたのはいつだっただろうか。そう思い巡らせて浮かんでくるのは幼い頃自宅でクレヨンやペンを握ってテーブルに向き合っていた時や、母親と一緒に行った洋食店などではしゃいで将来なりたいものなんかを語っている時の光景ばかりで、中学生以降は将来の夢を尋ねられると、父親の職業である銀行員や、安定性のある公務員など、父が正しさを認める職業を自然と口にするようになっていた。

 自分自身のやりたいことや興味関心を省みてそこから行動を起こしていくということを久しくした覚えのない僕にとって、夢という言葉はあまりに曖昧で朧げなものだった。

「ありません」

 僕が短く口にした言葉に杉本先生の顔が再び切なげに歪むのがわかる。

「僕には誰かに語れるような夢なんてないんです」

 多くの生徒が軽口を言い合いながら行き過ぎていくざわめきが廊下から聴こえ、僕と杉本先生との間の沈黙をよりくっきりと浮かび上がらせた。

 杉本先生が机に両肘をつき、組んだ両手の上に顎を乗せて一つ息を吐く。

 それから間もなくして昼休みの終わりを告げるチャイムが校内中のスピーカーからけたたましく鳴り響いた。


 午後の授業が始まるため昼休みの終了とともに面談は打ち切られ、もどかしげな表情で見送る杉本先生に頭を下げて面談室をあとにした。先生はまだ話し足りないと言った雰囲気だったが、何を言われても上手く反応出来ないことに居たたまれなさを感じていた僕としてはチャイムに救われた思いだった。

 塾の入っているビルを出てシャッターの閉まった店舗の目立つ駅前通りを駅の方に向かって歩いていると、早紀と別れ話をした喫茶店の前を通りかかった。

 付き合っていた当時あれだけ毎週のように通っていた店にも関わらず、一ヵ月ぶりに眺めるその佇まいは妙によそよそしく感じられた。早紀と積み重ねた日々の記憶が自分の中で否応なく過去になろうとしていることを察し、途端にそれに抵抗する気持ちが疼いて胸苦しさを憶えた。

 僕と早紀がよく座っていた通りに面した窓際の席には僕らと同年代の男女が座っていて、互いに愛おしさを称えた眼差しを注ぎ合いながら親密そうに言葉を交わしていた。自然とその光景に自分たちの姿を重ね合わせようとしてふと、この喫茶店に早紀と居たとき自分が何を話していたか一切思い出せないことに気がついた。

 早紀が僕に向けて話してくれた印象的な言葉や話題はいくつも思い浮かぶのに、何度思い返しても、自分が何を話していたのかを思い起こすことができない。記憶の中の僕は、早紀の意見や提案に同意の言葉を返したり、目の前で語られる魅力的な話に気持ちを上気させたりするばかりで、自分からなにか見解を述べたり、エピソードを語ったりすることはなかった。不覚にも、早紀が自分から離れていった理由がわかってしまった気がした。

 高校三年の受験時、私大の合格を蹴って浪人を決めた時のことが思い返される。

 目標としていた国立大学の受験には失敗したものの、滑り止めで受けていた東京の有名私大に合格していた僕は、進学か浪人かで正直心が揺れていた。でも、同じ国立大学に落ちた早紀がためらいなく浪人することを決めたのを目の当たりにして、自分ももう一年、早紀と一緒に挑戦することを決めた。彼女と二人「来年こそ一緒に合格しよう」と誓い合い、「現役で進学した方がいい」と何度も進める父親にも「どうしても行きたい公立の大学がある」と繰り返し説明して、渋々浪人することを納得してもらった。

 あの当時はその進路を自分が強い意志を持って選んだものであると思っていたけれど、結局あの選択だって、一人で自分自身と向き合うことを避けて、早紀の描く将来像に折り好く便乗しただけの中身のないものだったのだ。

 その証拠に、早紀の心変わりであっさりフラれたその時から、国立大学進学への意欲は消え失せ、自分が何をしたいのか全くわからなくなってしまった。今僕に残されているのは、時おり沸き上がっては蠢く未練がましい情念と、行き先を見失って茫然と立ち尽くすこの空っぽの体だけだ。


 誰か通行人の体が触れて我に返った。過去の回想を振り払うように目を喫茶店から背けると、こちらに向かって歩いてくる二人の制服姿の女子高生の上着が半袖のブラウス一枚になっているのが目に入って、六月が衣替えの時期であることに思い至る。高校卒業からまだ約三ヵ月しか経っていないのに、その場所を離れてしまうと、季節の変わり目の象徴的な出来事さえ、こうもあっさり忘れてしまうものなのかと驚いた。なんだか全てが自分から遠ざかって行くように思えた。

 僕は胸に重たいものがせり上がってくる感覚を憶えて視線を当て所なく泳がせた。そしてせわしなく周囲を見渡したあとで、自分がその視線の先に求めているのが瑞枝さんの姿であることに思い当たった。

 トートバッグを右手で触って中の雑誌の形を確かめ、図書館に戻ろうと再び駅の方に向かって歩きだす。一刻も早く瑞枝さんに話を聞いてもらいたい気持ちが急いて上半身が前のめりになった。

 すれ違った瞬間女子高生が恋人について話すはしゃいだ声が鬱陶しく耳に響いた。

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