第3話

 静かにカウンターに画集を差し出すと、瑞枝さんは目を伏せたままそれを引き取って速やかに貸し出し手続きを行う。はじめの頃は味気なく思えたこの一連のやりとりも、今となっては日々の大切な日課となって、あくせくした気持ちを鎮めてくれる。

 開館直後の図書館には今日もゆったりとした静寂が流れている。

「眼鏡変えたんですか」

 瑞枝さんの動きが一瞬だけ止まった。

 今日の瑞枝さんの目を縁取っているのは、いつものべっ甲色の枠ではなく、半透明で細い青色のフレームだ。

「前の眼鏡の調子が悪かったから」

 瑞枝さんが貸し出し期限の書かれたしおり大の紙を画集のページに挟み込みながら、わずかにこもった声で答えた。

「壊れてるようには見えませんでしたけど」

「何が言いたいの」

「いや、新しい眼鏡も似合ってるなあと思って」

「それはどうも」

 瑞枝さんが澄ました顔で言って、画集とカードを差し出した。

 僕はその芝居がかった無愛想な振る舞いの裏に親密さを感じ取って、密やかな愉悦を憶える。おこがましい追求をしたことを詫び、満ち足りた気持ちでカウンターに背を向けると、瑞枝さんが思いついたように短い声を上げ、僕を呼び止めた。

「今日の午後は蔵書整理で休館だから」

 瑞枝さんはパソコンに向き合ったまま、振り向いた僕にそう告げた。

 画集を持って歩を進め、図書館の壁際の一角に並べられた自習机の椅子の一つに腰を下ろした。ガラスの壁の向こうの空は厚い雲に覆われていて、外の暗さに合わせて全ての蛍光灯がつけられた館内はいつもより少しだけ厳かに感じられる。

 画集を机の奥に置き、席の確保用に置いておいたノートを手許に引き寄せて周囲を見回した。

 今日も僕以外は、ほぼ毎日図書館が開くのと同時に入館するお馴染みの三人と、小さな子どもを連れた若い母親の姿が見えるくらいで目立った人影はない。僕は不穏な動きをしている人がいないことを確かめ、手許のノートを開いてシャープペンシルを握った。

 初めて瑞枝さんから盗難のことを聞いてから一週間が経った。その間、さらに三冊の新刊小説が盗まれ、盗難された本の累計は十一冊になった。僕も話を聞いて以来、注意して周りに目を配っているのだが、なかなか犯行の瞬間をとらえることができない。疑わしい人物はほぼ三人にまで絞り込めているにも関わらず、一向に最後の決め手を掴むことが出来ず、本を持ち出している人物の特定は停滞していた。

「きっと黙って本を借りていくその人は自分の社会的な立場を偽っているはずだわ」

 瑞枝さんは盗難の話をする度、確信に満ちた声で言った。

「どうしてわかるんですか」

「図書館から本を持ち出さなければいけないほど追いつめられているのよ。『一般社会』と呼ばれているものとの間に明らかなズレが存在するはずよ。その溝を埋める為にたくさんの物語を必要としているとも言えるわね」

「なるほど」

 僕は揺るぎない口調で語られるそんな考察を聞く度、あまりに独特の観点に理解し切れない部分を残しつつも、反射的に同意の言葉を発した。そして、いつも瑞枝さんはその打算的な声色を聞き逃さず、

「本当にわかってる?」

 と鋭い視線と言葉で詰問するのだった。

 僕は初めて話した時から、瑞枝さんに嘘をつくことができなかった。

 時に会話のなかで痛い所を突かれテキトウに誤摩化したいという考えがよぎっても、その凛とした佇まいを前にすると、全て見透かされているような気がして、いつもつい事実を口にしてしまう。

 ただ、どんなに浅はかで未熟な内容であっても、その時の自分にとって本当であると思えることを口にした時、瑞枝さんがそれを否定したり、是正したりすることは一切なかった。瑞枝さんはほとんどの場合貸し出しカウンターで何か業務をしながらそこに座っているだけで、視線をこちらに向けることも滅多にないし、話の途中で口を挟むことも稀だった。にもかかわらず、不思議と話を聞いてくれているという気配があり、この人は誰にも口外しないという強い安心感があった。

 次第に僕は瑞枝さんと話をすることを楽しみに図書館に通うようになっていて、何かことある度に瑞枝さんのいるカウンターに足を運んだ。図書館内で閲覧すれば事足りそうな本も、『あとで借りたくなるかもしれないから朝のうちに借りておく』という言い訳を自分の中で拵えて、毎朝まだ人の少ない時間に何かしらの本を瑞枝さんのカウンターで借りた。たとえ一言二言でも瑞枝さんと話しをすると体のなかに温かなものが満ちるのを感じた。

 早紀とのことも、予備校のことも、父親のことも、そして今までほとんど誰にも話したことのなかった母親のことも、瑞枝さんにはためらわずに語ることができた。話しをするたびに自分にもこんなにたくさん話したいことがあったのかと驚き、ずっと自分は誰かにこんな風にただ話を聞いて欲しかったのだと思った。


 肩を叩く感触がして目を開き顔を上げると、瑞枝さんの顔が遠く上方に見えた。

「もう今日は閉めるよ」

 ぼんやりとした意識で見た丸時計は十二時丁度を指している。

 どうやら僕は落書きをしているうちに眠ってしまったようだった。

「女子高生好きなのね」

 瑞枝さんが僕のノートを覗き込みながら冷めた声で言うので、手許に目を移すと、眠りに落ちる前に走り書きした女子高生の落書きがあった。

「いやこれは、この前街を歩いてたら偶然目についただけで」

 僕の言い訳に反応する素振りもみせず、瑞枝さんは放心したような表情をしてしばしノートを見つめていた。そして不意に

「そういうことか」

 とつぶやき、そのまま踵を返してカウンターの方に戻って行った。

 僕は不可解さを感じつつも、ノートと画集と筆記用具を持って立ち上がった。

 出入り口に向かって歩きながら貸し出しカウンターの方を見やると、ひっそりと静まりかえった図書館のカウンターの中で、一際洗練された所作で業務をこなす瑞枝さんの姿が目に入った。


 建物を出た僕は、図書館前の並木通り沿いにある洋食店に入った。

 木製の扉を押し開けると、小綺麗な身なりをした男性店主がいつもと変わらない和やかな顔と声で出迎えてくれたので、挨拶の言葉を口にし、ついでにオムライスとコーヒーを注文して、奥の二人がけのテーブル席に腰を下ろした。

 図書館周辺は市街地からも若干離れた場所にあるためか、平日昼間の食事時にも関わらず、店内には僕と、朝の図書館の常連利用者であるスーツを着た男性がいるだけだった。

 トートバッグを向かい側の椅子に置き、運ばれて来た水を口に運びながら店内を見渡す。席の配置、家具や床の色合い、カウンターの中で調理をする店主のシルエットなど、この席から見える以前と印象の変わらない光景に安堵と胸苦しさの入り混じった想いがした。

 ここは十二歳の時、母が家を出て行く前日に最後に二人で訪れた店だった。

 その日母は、平日であるにも関わらず僕に学校を休ませ、デパートに映画館に美術館と、二人でそれまでもよく訪れた場所を一通り一緒に周遊して回った。

 当時小学生だった僕は、両親が離婚して離れて暮らすことを口頭で聞かされてはいたものの、まだどこか実感が希薄で、その日も母に連れられるまま、ただ茫然とそれらの場所を付いて歩いた。

 すべての場所を回りきり、最後に美術館を出ると、いつもよりゆっくり並木道をならんで歩いて、陽が少し傾き始める時候にこの洋食店に入った。

 街を歩いている間も普段と比べて口数の少なかった母は、洋食店に入っても自分はコーヒーだけ頼んで何も食べず、オムライスを食べる僕を黙って眺めていた。

「ごめんね」

 オムライスを食べ終え紙ナプキンで口許を拭っていると、それを見ていた母が唐突にそう口にした。顔を上げた先にあった母の顔は、いつもの闊達で明るい表情とは似ても似つかない、これまでに見たことのない悲痛な表情に歪んでいた。

 その瞬間僕は、『母がいなくなる』という実感が猛然と全身を覆っていくのを感じ、『自分が見捨てられる哀れな子どもなのだ』ということを悟った。

 それからしばらく母は俯いて静かに泣き続けた。母が涙をこぼす度、僕は自分がここにいることに対する強い罪悪感が体に染み込んでいくのを感じた。母の背後に見える窓の外のイチョウの葉の緑が陽光を浴びてやけに鮮やかに目に映った。

 翌朝、目を覚ましてリビングに降りていくと、いつもキッチンで忙しく立ち回る母の姿はそこにはなく、まるで以前からそれが当然の光景であったかのようにエプロンをつけた父がフライパンで目玉焼きを焼いていた。父と二人向かい合った食卓で僕は、黙ってトーストを口に運ぶ父の姿をじっと息を潜めて見つめた。そして、この人にだけは見捨てられてはならないと、トーストを持つ手先が痺れるほどの切実さで決意したのだった。


 あれから七年、ほとんどこの場所に近づいたことはなかったが、図書館に通い始め瑞枝さんと話すようになったある日、ふとこの店で昼食をとってみようと思い立った。最初は少し怖さもあったけれど、いざ入店してみると、不思議な懐かしさを憶えた。そのまま席に座り、オムライスを前に自然とあの日のことを思い返すことが出来ている自分に気づいた時、胸のなかのわだかまりが一つ溶けるのを感じた。それ以来ときおりこの店でオムライスを食べている。

「お待たせしました」

 店主のやわらかな声とともにオムライスを載せた皿がテーブルに置かれた。温かな湯気にのったケチャップの匂いが食欲を刺激する。スプーンをカゴから取る際、斜め前の席に座っているスーツ姿の男性がスマートフォンを耳にあて、恐らく勤め先かどこかに遅刻することを詫びている姿が目に入った。その過剰に腰の低い口調になんだか和やかな気持ちになる。僕は一つ唾液を飲み込んで、オムライスをスプーンで掬いゆっくり口に運んだ。


 次の日の朝、空は僕の穏やかな気分とは相反して厚い雲に覆われていた。空の様相や外気の感触を推し量って傘を持っていくかいかないかを逡巡しているうちに少し家を出るのが遅れてしまった。

 いつもより二十分ほど遅れて図書館に入ると、珍しく瑞枝さんがカウンターを出て、雑誌コーナーの奥にある新刊を紹介する棚の前に立っていた。

「どうしたんですか」

「やっぱりないわ」

 瑞枝さんが棚の方を向いたまま言った。その声はいつもよりずっと深い悲壮感を携えているように聴こえた。

「昨日入ったばかりの新刊がないの」

 瑞枝さんは一度眼を閉じて息を吐いた。そして、再び目を開きまっすぐ前を睨んだ。その張り詰めた横顔は、微かな畏怖を感じさせた。

「もうこのまま放置しておくわけにはいかないわね」

 そう言うと、瑞枝さんは体の向きを変え、こちらには目もくれずに僕の横を通って貸し出しカウンターの方へ戻って行った。

 緊迫感に包まれた瑞枝さんの様子を考慮して、朝のうちに本を借りることは断念し、近くにあった新聞閲覧用の席に腰を下ろしてそれとなく館内を見回す。

 今朝も館内には僕以外にはいつもの三人だけだ。

 入り口付近の丸椅子に座って今日はキャップにTシャツ姿でスポーツ新聞を読み込んでいるおじいさん。壁際の自習席でノートにペンを走らせて勉強している制服姿の女の子。そして、僕の座っている新聞コーナーの脇の雑誌コーナーで足を組んでビジネス雑誌に目を落としているスーツ姿の中年男性。

 ほぼ毎朝同じメンバーのせいか、一度も言葉を交わしたことがないのに薄らとした連帯を憶えていた僕は、この顔ぶれのなかに本を盗難する人がいると考えること自体、正直ためらわれた。たとえ瑞枝さんの推察が当たっていたとしても、真相が暴かれてこの光景が変わってしまうことを想うと胸にもの悲しさが込み上げてくるのを感じた。ずっとこのまま変わらずこの場所に居たいと思った。

 その後午前中は雑誌のバックナンバーを読みあさり、午後は画家の自伝に一心に目を走らせているうちに、またいつの間にか眠りに落ちていて、目を覚ますと館内には閉館の音楽が流れていた。

 目を擦りながら今日はまだ本を借りていなかったことを思いだし、慌てて読みかけの自伝を手に貸し出しカウンターに向かう。建物を包む騒音に気がついて横に目をやると、外の景色はガラス壁を覆う雨粒の向こうに霞んでいた。

 遠くに見える貸し出しカウンターに別の利用者の姿が見えて、まだ受付時間が過ぎていなかったことに安堵する。ざっと見渡したところ館内にいる利用者は僕と、その利用者の二人だけのようだった。

 カウンターの五メートルほど手前まで来たところで少し急ぎ足を緩めると、瑞枝さんがこれまで聞いたことのない冷たく強い口調で何かを言い放つのが聴こえて立ち止まった。利用者がそれに対して異議を唱える声も聴こえる。

「もうあなたは貸し出し限度の十二冊まで借りているので、新しい本を貸し出すことはできません」

 瑞枝さんはさっきよりは幾分落ち着いた口調でゆっくり相手を言い諭すように言った。

 斜め前に見えるカウンターの前に立った制服姿の女の子の背中が強張ったのがわかった。

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