ものがたりのある場所

佐藤 交(Sato Kou)

第1話

 午前十時。僕は瑞枝(みずえ)さんが椅子に座っている貸し出しカウンターの前に立った。

 開館したばかりの図書館はどこか気怠い静寂に包まれ、スポーツ新聞に目を凝らすスタジャンを着た初老の男性や、学校をサボっているのであろう紺色のブレザー制服姿の女子高生、スーツを纏い黒革のビジネスバッグを持った営業マン風の男など、利用者はまだ数人しかいない。

 僕がいつものように美術雑誌のバックナンバーを貸し出しカウンターの上に置くと、瑞枝さんが雑誌を手に取り、幾分煩わしげな面持ちで貸し出しの手続きをおこなった。

「最近本がなくなることが増えているの」

 瑞枝さんが雑誌と貸し出しカードを重ねてこちらに差し出しながらおもむろに呟く。

 詳しく尋ねてみると、近ごろ小説の新刊ばかりが七冊も続けて盗まれているらしい。

「私は毎朝早くから来る常連さんの中に無断で持ち出している人がいると睨んでいるのよ」

 瑞枝さんは虚空を睨むような目をして、ちょっぴり深刻な様子で言った。

「僕じゃないですよ」

 わざと白々しい調子で否定の言葉を口にする。

「知ってるわ」

「僕のこと信頼してくれてるんですね」

 冗談めかして言ったその台詞を、瑞枝さんは真顔のまま二度首を左右に振って否定した。

「じゃあどうしてそう思うんですか」

「あなたはまだここから本を盗まなければならないほど困窮しているようには見えないもの」

「何に」

「物語に」

 その言葉の意図を測りかねて、瑞枝さんの顔を見たまま静止した。しばしそのまま黙って向き合っていると、瑞枝さんが不意に視線を僕の背後に向けて後ろに人が並んでいることを示唆したので、やむなく雑誌を持って貸し出しカウンターを離れた。

 僕は釈然としない小さな澱みと借りたばかりの雑誌を携えて図書館の奥へと進み、一面ガラス張りの壁を背にして置かれたソファに腰を下ろした。ソファにのけぞり館内を仰ぎ見ると、ガラスの壁から採光された六月の光に包まれて目の前の景色は全体的にぼんやりと白んで見える。書架と僕との間の中空には、光に晒され露になった微細な埃の糸くずがゆらゆらと無数に漂っていた。


 僕が頻繁に図書館を訪れるようになったのは約一ヵ月前。高校時代から一年半ほど付き合っていた恋人の早紀(さき)にフラれたことがきっかけだった。失意から彼女と一緒に通っていた予備校に今まで通り行く気になれず、数日間当て所なく昼間の街をふらついた末に、美術館と隣接して立つこの県立図書館に行き着いたのだ。

「ここは物語を失った人たちが多く集う場所なのよ」

 最初に訪れた日の閉館間際、僕が貸し出しカードの申し込み用紙に必要事項を記入していると、カウンターで司書として対応してくれた当時初対面の瑞枝さんがおもむろに言った。

「特に朝から来る人たちは危険ね。外の世界では自分の生きるストーリーを見出せず、逃避してしまっている人が多いわ」

 面識のない自分に対して何の前置きもなく不可解な話題を淡々と語り続ける瑞枝さんに不気味さを憶えたが、自分のことを遠回しに指摘されている気がして、おそるおそる目の前にいるその人の様子を窺った。

 瑞枝さんは真っすぐ背筋を伸ばして椅子に座り、べっ甲色の縁眼鏡の奥の目を正面に向けていた。顔全体の印象はほとんど化粧らしい化粧をしていないこともあってどこか幼く見えるが、肌の張りや目の周辺の皺から察するに年齢は四十歳前後だろうと推察された。艶のある長い黒髪をアップで縛り、白いブラウスの上に図書館支給の濃紺のエプロンという極めてつましい出立ちだが、その飾り気のなさが却って存在の異様さを醸し出しているように思えた。僕はその姿の向こうに恋人や結婚とは無縁の簡素で寂寥感ただよう中年女性の日常生活を想像した。

「毎朝入り口を入ってすぐのところにある雑誌コーナーでビジネス雑誌を読んでるスーツ姿の男性は、営業成績が上がらず会社でも家庭でも肩身のせまいサラリーマン。同じく朝からその近くのソファで新聞を読んでるおじいさんはこの春から息子家族と同居を始めたんだけど、気の強い嫁と思春期の孫たちに疎まれて家に居場所がないらしいわ。それと、さっきまであなたも座っていた奥の自習席で今も勉強している制服姿の女の子は、クラスの女子全員から無視されてるの。生半可顔と頭が良いことが災いしちゃったのね」

 瑞枝さんは僕から受け取った申し込み用紙に視線を落とし、記入項目を手際よく確認しながら、毎日朝の開館時間に必ずやってくる常連利用者三人の素性についてすらすらと淀みなく語った。

「そして今日初めて朝から姿を見せたあなたは、何かショックな出来事があって落ち込んでいる予備校生ってとこかしら」

「どうして予備校生だって知ってるの」

 僕は驚きから思わずそう口走り、静かな館内に自分の声が響き渡ったことにおののいて身を縮こまらせた。

 瑞枝さんはその質問には答えず、無表情のままコピー機の中から一枚のカードを取り出し僕の前に置いた。それはさっき身分証として提出していた予備校の学生証だった。僕は化かされたような気持ちと恥ずかしさから、慌てて学生証を定期入れにしまった。

「そんな利用者の個人情報を初対面の僕にペラペラ話しちゃって大丈夫なんですか。例え相手が話したことだったとしても、それは相手があなたを信用して話したことでしょう」

 軽い反駁の意味も込めて言った。

「問題ないわ」

「え?」 

「だって、全部私の想像だもの」

 瑞枝さんはパソコンの画面の方を向いたまま何気ない調子で答えた。

「それをあんなにもっともらしく話してたんですか」

「あなただってさっき私の方を盗み見て少なからず私生活を想像したでしょ」

 不意に自分の内面を見透かされたような気がして目を伏せた。

「それと一緒。他人なんてそんなものよ」

 慌ただしくキーボードを叩く音とバーコードをスキャンする音がして、その日借りた画家の伝記と貸し出しカードが僕の方を向けて差し出された。

「ここでは一度に最大十二冊まで本を借りることができるから気が済むまで誰かの物語にどっぷり浸るのもいいと思うわ」

 動揺している僕に構うことなく、瑞枝さんは独特の言い回しで整然と話し続けた。

「でもその物語はひと時の間借りているだけで、他の誰かのものなんだってことをけして忘れずに。貸し出し期間は基本二週間で最大一ヵ月まで延長できるけどその期日までには必ず返してね」

 瞬間真っすぐ自分に向けられた眼差しが鋭さを増す。

「あなたの物語はあくまであなたが語るものよ」

 瑞枝さんはそう言うと、自分のエプロンのポケットに挟んであったボールペンを取って僕に手渡した。カードの署名欄に自分の名前を書けということらしい。

「でもまあ、また自分のことを語りたい気持ちになるまでは時間がかかると思うから、それまではここにくればいいわ。ここは理由や目的がなくても追い出したり入館拒否したりしないから」

 その言葉に僕が自然と顔を上げたのと同時に、館内に閉館を知らせるやわらかな旋律が流れ始め、瑞枝さんは立ち上がって、利用者が並んで順番待ちをしている隣の貸し出しカウンターの方へ行ってしまった。

 僕は若干拍子抜けしつつも不思議な安堵を憶え、すっきりとした想いでカードに名前を書き入れた。頭の中では胸のネームプレートに書かれていた『遠藤瑞枝』という名前がいつまでも揺れていた。


 首筋を撫でる微かな空調の冷気に我に返り、壁に掛かっている大きな丸時計を見ると、針は午前十一時過ぎを指していた。

 慌てて雑誌を閉じてソファから立ち上がり、トートバッグを預けてある建物の出入り口近くのコインロッカーの方へと歩きだした。

 今日は、最近僕が登校していないことを不審に思った予備校の担当講師から昼休みに職員室に顔を出すように命じられていた。講師に言われるがまま学校に赴くのは不本意だったが、今日の約束を反故にしてしまうとすぐに父親に連絡がいくことになるため、嫌でも行かざるを得ない。

 早足で館内を歩き、貸し出しカウンターの横を通り過ぎようとした時、斜め後ろから僕を呼び止める大きな声がした。

 立ち止まって振り返ると、瑞枝さんが椅子から立ち上がってこちらを正視している。貸し出しの手続きをしようとカウンターの前にやってきた別の利用者も瑞枝さんの行動に虚を突かれて動きを止めていた。

「またなくなったの」

 唖然としている僕に、瑞枝さんが深刻さを帯びた静謐な声で告げた。

「さっき確認したら、昨日入ったばかりの新刊小説が一冊、貸し出し手続きをされずになくなっていたの」

 周囲に一瞬の静寂が流れる。

 瑞枝さんの隣の机でもう一人の司書の人が書籍のバーコードをスキャンする音が甲高く響いた。

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