第4話
「だから私、ここ一ヵ月なにも借りてないんですけど」
少し輪郭の震えた声で女の子は言った。両の手のひらは閉じられ、その指先には制服の袖口が割合と強く握られている。
「家に返し忘れている本はありませんか。小説が十一冊ほど」
「なんのことだかわかりません」
女の子は尚も強張った声で否認した。
「そう」
瑞枝さんは静かに言って、おもむろにカウンターの机の上に置かれていた革の学生鞄に手を伸ばし、ファスナーに手をかけた。その瞬間、女の子が猛然と鞄を掴み取り、瑞枝さんの手のひらから引き離した。
「なにするんですか」
強い口調で胸元に鞄を抱えながら女の子が言う。
「その鞄のなかに今日無断で借りられた十二冊目の小説が入っているんじゃないかと思って」
僕は女の子の横顔がはっきり見える位置に体を移動させる。女の子の目元が時折小さく痙攣するのがわかり、その表情からは微かなおののきが窺えた。
「一ヵ月前から新刊小説を無断で持ち出していたのはあなたよね」
「だからなんで私なんですか」
一向に抵抗する姿勢を崩さない女の子の様子に辟易してか瑞枝さんは目を伏せて一つ息を吐いた。そして気持ちを落ち着けるように少し間を置くと、再び顔を上げ、整然とした口調で語り始めた。
「約一ヵ月前から度々起こるようになった開館直後の時間帯に本がなくなる件において、本を持ち出した可能性があったのは、あなたを含めて四人。ほぼ毎朝開館時間に訪れるメンバーよ」
凛とした声がひと気のない図書館に響く。
「その中で、いつもスポーツ新聞を読んでいるおじいさんと、今あなたの斜め後ろにいる予備校生の彼は物理的な理由から候補者から外れるわ」
僕はいきなり話を振られ慌てた。ちらりとこちらを振り向いた女の子にも咄嗟に愛想笑いをしながら会釈をしてしまう。
「物理的な理由ってなに」
「おじいさんはそもそも本を入れられるような入れ物を持っているところを見たことがないし、予備校生の彼はいつもその日必要なものだけだして、トートバックは建物の入り口をはいった所にあるコインロッカーに預けているから、そんなに何度も目立たずにこのフロアから本を持ち出せるとは考えずらいもの」
「よく見てるのね」
淡々とした声とは裏腹に女の子の顔に苦々しい表情が浮かぶ。その頻繁に動く唇の歪みからは彼女の焦燥が見てとれた。
「でもまだ私以外にもう一人いるわ」
「そうね。でもスーツを着ている彼は、朝は必ず入り口付近の雑誌コーナーか、もしくは新聞コーナーにいて、本が紛失する時間帯に新刊本の棚の前を通ることはまずないの。あったとしても一ヵ月に一度か二度でしょう。この一ヵ月の間その時間に棚の前を頻繁に行き来していたのは、あなたと予備校生の彼だけなのよ」
女の子が息を呑むのがわかった。
「つまりこの二つの事実から、違和感なくあの時間帯に本を鞄に忍ばせることが出来るのはあなただけなの」
僕はいつもの偏った考察ではない、具体的な事実に基づいた瑞枝さんの説明に素直に感じ入った。それとともに、そのシンプルで割合い容易であろう推理の内容から瑞枝さんが随分前から女の子が犯人だとわかっていたことも察せられた。
「そんなのただの消去法じゃない。本が盗られるのはどっちにしても司書のあなたが私たちや新刊の棚から目を離している時なんだから、スーツ姿のおじさんがあなたの見ていない瞬間に素早く棚に近づいて鞄にいれてるかもしれないじゃない」
「確かに。いくら注意深く見ていてもそれは私の見ている範囲でしかないって指摘は正しいわ。だから、そのことで本を持ち出したのがあなただと確実に立証出来てるとは思ってない。ただ、私にはどうしても四人の中で本を持ち出す理由を抱えているのはあなただけに思えるのよ」
「どういうことよ」
「だってあなた、女子高生じゃないじゃない」
僕は瑞枝さんのその言葉に、改めて女の子の姿をまじまじと見た。
そしてようやく彼女の纏っている違和感に気がついた。
「そうか衣替えか」
「そう」
思わず口をついて出た言葉に瑞枝さんが同調の声を発した。
「確かにあなたが以前カードを作る時に提出してくれた保険証の生年月日も、見た目から受ける印象もなんら『高校生』として矛盾した部分はなかったわ。ただあなたは六月に入ってしばらく経ってからも、ずっとブレザーの上着を着たままだった。いくら学校に行ってなくても高校生であるって意識があるなら衣替えの時期くらいには反応するはずよね」
女の子が初めて俯いて自分の服装を確かめるように、両の手のひらで上半身を包んでいるブレザーの上着の表面を撫でた。
「図書館の本は管理バーコードが貼ってあって、透明なシートで表紙がコーティングされてるから古書店に売るのは難しいし、よっぽど欲しい本ならともかく何冊も繰り返し無断で持ち出すにはメリットが低いわ。ここから小説をいくつも持ち出そうなんて考えるのは、なんらかの形で明確に社会を欺かなければ自分を保てないぐらい、自分自身を支える為の物語に枯渇している人だけなのよ」
静寂に雨の轟音が一層強く響いた。館内に流れていた閉館の音楽はいつの間にか止んでいる。
「また学校に足を取られたってことね」
女の子はひんやりとした声色で呟いた。口元にはうっすらとした笑みが浮かんでいる。
「あなたの言う通り、私は高校生じゃないわ。一年の終わり頃から始まったクラスメイトからのいじめが原因で二年になった今年の春に学校を辞めたの」
女の子がおもむろに語り始めた。
「きっかけはクラスメイトの一人の女の子の自習時間中の態度を学級委員長として軽く注意したこと。なぜかそれから少しずつ周囲の女子から疎まれるようになって、ある日を境にクラス中の誰も私と口をきいてくれなくなったわ。学校を辞めるなんて最初は考えられなかったから、三ヵ月くらいは耐えて通ってたんだけど、学年が上がる時あと二年もあるって思ったらその惨めさに我慢出来なくなって退学して大検を受けることにしたの」
彼女は俯いたまま訥々と言葉を継いでいく。瑞枝さんはただ黙ってその姿を見つめている。
「でもそこまではまだ良かった。現に辞めて校舎を後にする瞬間には清々しささえ感じたわ。ところが学校を退学した次の日から、今度は母の私に対する態度が一変したの」
声が鋭さを帯びる。
「学校に通ってた頃は過保護が過ぎるくらいかいがいしかったのに、辞めてからは露骨に妹のことばかりかまうようになって、私が何を話しかけても生返事しかしなくなった。ああそっか、模範的な子どもじゃなくなった私はお母さんにとって話す価値もない存在なんだなと思ったわ。そうしたらなんだか自分が無意味なただのハリボテみたいに思えた。それで昼間母と二人で家にいるのもやり切れなくなって、毎朝制服を着て家を出て、この図書館で勉強するようになったの」
淡々と話し続ける女の子の黒々とした瞳は一点を見て動かず、変化の少ない顔の表情からはハッキリとした感情を読み取ることができない。ただ、彼女の抱えている空疎な感覚のようなものが空気を伝って僕の中に流れ込んでくるのを感じて、それに自分の内面が共振するのがわかった。
「いざ母親に期待されなくなって会話もしなくなってみると、自分のやりたいことなんか何もなかった。ここに来るようになってからもしばらくは勉強もあまりせず無為にぼーっと一日を過ごしてたんだけど、ある日なんの気なしに手に取った小説のページをめくっていたら自分でも驚くくらい物語の中に入り込んでて、自然と体の内側に気力みたいなものが満ちてくるのを感じた。それで、よこしまな意図も、悪意もなく、本当にただ続きを読みたいっていう一心からその本を鞄に入れて持ち帰ったの。その行為が『盗難』だって気づいたのは家に帰って部屋で鞄から本を取り出した時だったわ」
「なんでそこで素直に謝って返さなかったの」
僕は素朴な疑問を口にした。
「嬉しかったのよ」
「え」
「たとえそれが犯罪だったとしても、自分が世界と関わっている実感を明確に得ることが出来て嬉しかったの。多分それまでずっと優等生で悪いことなんてしたことなかったから余計そう感じたのかもしれないわね。そしたらもっとその感覚を感じたくなって本を盗るのが癖みたいになってたわ」
女の子は僕の方を見て静かに言った。
「新刊ばかり盗んでいたのも、開館直後に行為に及んでいたのも、今日わざわざカウンターに本を借りにきたのも同じ理由ね」
瑞枝さんが口を開いた。
「そうね。誰も借りていないような本をたくさんの利用者が居る時に盗っても、気が付かれないかもしれないし、自分が影響を与えてるって実感は薄いから。まあ今日の『司書の人と接触する機会をもって緊張感を楽しむ』って思惑は見事に裏目に出ちゃったけどね」
女の子はそう言うと、鞄を開けて中から本を取り出した。
「はいこれ。今日盗った本。私どうすればいい?ここで警察待ってればいい?」
瑞枝さんはなにも言わずに差し出された本を受け取りバーコードをスキャンした。雨の騒音に包まれる館内に一際甲高い音が響く。
「あと今貸し出し中の本が十一冊ありますね」
瑞枝さんがいつもの平坦な声を発する。
「一番最初に借りられた本が明日で貸し出し一ヵ月になるので、明日までに返却してください」
女の子が事態を飲み込めないという怪訝な顔をして瑞枝さんを凝視する。
「図書館は本を貸し出すところですから、規定に従って返して頂ければ問題ありません」
「でも」
女の子が戸惑いがちに何かを言いかけたのを遮って、瑞枝さんが言葉を続けた。
「その替わり、今後は本を借りる時はもちろんのこと、貸し出し期限延長の際なども必ず貸し出しカウンターに申し出てください。次回それを怠った場合は、規定により一年間本の貸し出しができなくなりますのでご注意ください。また、なにかご意見やご要望、その他話したいことがある時はなんでもおっしゃってくださってかまいません。私で良ければいつでも伺いますので」
瑞枝さんはそこまで言うと立ち上がって本を手に書架の方へ行ってしまった。
館内は再び静まり返り、建物全体を包み込む雨の轟々とした音だけが響いた。女の子は俯いたまま立ち尽くし、目もとを拭うような仕草をしている。
雨が外壁を叩く音が大きくなったので壁の方に目をやった。ガラスの壁に大量の雨粒が打ち付けて、おびただしい量の水が壁を伝って地面へと流れ落ちていた。
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