あなたの心にかける金メダル
さかたいった
試合終了まで残り0.1秒
これはある並行世界の物語。世界的流行となった伝染病の問題を抱えつつ、厳戒態勢でオリンピックが開催された2020年夏のある日の記述。
試合時間は残り0.1秒。限りなく0に近い状態でタイムクロックは停止している。
東京五輪のバスケットボール。メダルのかかった重要な試合の舞台で、私はコート上のフリースローラインの前に立っていた。その場所でSNS用に自撮りをしているわけではない。
得点は79対78。私たちのチームは1点負けている。国の威信をかけた最後のオフェンスは私に託された。
インバウンドパスを受け、ドリブルでディフェンスを振り切りリングに向かってドライブを仕掛けた私は、ゴール下にいた大型ディフェンダーからシュートモーション状態でのファウルを受けた。
つまり、私はチームを逆転勝利に導くための2本のフリースローのチャンスを得たのだ。時計が止まり、ディフェンダーの妨害を受けない状態でのシュートチャンス。2本とも決めれば逆転。もし1本しか決められなくとも、延長戦に持ち込むことができる。
私はこの試合の最重要局面で、フリースローラインに立っている。そこでSNS用に自撮りをしているわけではない。
私の体は震えている。これは筋肉の酷使ではなく、精神の緊張による震えだ。チーム、関係者、そして国民全体の期待が今私にのしかかっている。瞬間的に性転換でも起こしてしまいそうなほどにどうにかなってしまいそうな緊張が、私の思考と体を支配している。
外したら、負ける。
そしてそれは全て、私の責任。
ゴール付近でリバウンドポジションを固めるチームメイトと相手チーム選手の目。
厳戒態勢の中会場に訪れた、観客席にいる大勢の人間の目。
カメラの向こうから見守る世界中の人々の目。
目、目、目。――目、肩、腰に効く。……ふざけている場合ではない。
ゴール下にいるレフェリーが私のほうへボールを投げた。一度フロアに当たってバウンドしたボールが私の胸元に届く。
慣れ親しんだバスケットボールの感触。そのはずなのに、私は未知の物体に触れるような感覚でボールを持っていた。
呼吸を整え、練習通りのルーティンでボールの感触を確かめ、構える。
いつもよりリングが遠くに感じる。どんなに力を込めても届かないと思うほどに。
私はフリースローの一投目を放った。
彼はバスケットボール会場の観客席にいた。
試合も大詰めの重要な場面だが、彼には自分のやるべき仕事があった。それも、絶対に成し遂げなければならない仕事だ。
彼はボストンバッグを手にし、席を立った。そのボストンバッグは、協力者の力添えにより会場に持ち込むことができた。コートから離れていく方向に、観客席の通路を歩いていく。
彼は近くにいる警備員の位置を横目で確認する。怪しまれてはならない。少なくとも、あと数十秒は。
観客席の最上段の位置まで辿り着いた彼は振り返り、試合の様子に目を戻す。
ちょうど逆転をかけたフリースローの一投目が放たれたところだった。
彼はボストンバッグからスナイパーライフルを取り出した。
ボールがリングの手前の縁に当たり、跳ね上がった。もう一度リングに当たったボールは外にはじかれて、フロアに落ちて数回弾んだ。
固唾を吞んで見守っていた観客たちが一斉に息を漏らした。
ゴール付近にいる相手チームの選手が一人、控えめにガッツポーズをした。
ゴール付近にいるチームメイトは、一人は「気にするな」という表情を私に送った。もう一人のチームメイトは、プレッシャーを与えないために気を遣って、あえて私のほうは見なかった。
これで延長戦以外の逆転の可能性は潰えた。その事実は、重く、重く、私にのしかかる。
私はこの場から逃げ出したいと思った。自宅でチャーハン(スパゲッティだっていい)でも食べながら、のんびり試合の様子を眺めていたい。自分にまったく責任のかからない状態で、試合を楽しく眺めていたかった。
それでも、時は進む。私は逃れられない運命に立ち向かわなければならない。
レフェリーが私のほうへボールを投げた。弾んだボールが私の手元に届く。
延長戦に持ち込む最後のチャンス。試合の残り時間は0.1秒。これを外したら、即試合終了。終わりだ。
全ての運命は、このボールと、私自身にかかっている。おそらく、私の人生の最盛期。良くも、悪くも。
それがどちらに転がるか。それはまだ誰も知らない。周りにいる全ての人間が、その行く末を見守っている。
ヒーローになるか? それとも敗者となるか?
私はボールを構え、フリースローラインから遠い遠いリングを見据えた。
彼は観客席の最上段からスナイパーライフルを構え、照準を合わせた。
簡単な仕事ではない。狙いは動く
会場にいる人間の視線はコート上のただ一点に集まり、誰も彼のことを気にしていない。
チャンスは一瞬。そして一度きり。外せば、これまでの苦労が水の泡だ。
そして、それだけではない。おそらく、彼は全てを失うことになる。
それでも、彼は仕事をまっとうするつもりだ。誰にどう思われてもいい。それが、彼自身の意志。
彼はライフルのスコープで、フリースローラインに立っている選手の顔を眺めた。
悪く思うな。尊い犠牲は必要だ。
彼は一度も話したこともない人間に、勝手に労いの気持ちを抱く。
一瞬後には、仕事の緊張と集中を取り戻す。
呼吸を整え、銃を構える。
時は来た。
私の指先から放たれたボールは回転しながら宙を進み、弧の軌道を描いていく。
手応えはあった。これ以上ないシュートタッチだった。今まで何万回と練習し決めてきたタッチと同じ。
ボールはリングを通過し、ネットをかすめる。そのイメージが私の頭の中で刻まれる。ボールが描く軌道は、栄光への架け橋のよう。
彼は引き鉄を引いた。その瞬間、彼の仕事は終わった。
会場の宙を切り裂く弾道は真っ直ぐ狙いに進み、その球体の物質に命中した。
会場の人間、そしてカメラの向こうから見守っていた全ての人間が、それを目にした。
誰もそれの意味するところがわからなかった。リングに向かっていたボールが空中で破裂し、一瞬にして広がった眩く白い閃光が視覚を刺した。
その時は、まだ誰も知らない。その目から受けた刺激に、世界中に蔓延しているウイルスを死滅させる効果があることを。
その光は一瞬。だから多くの人間の視線が集中するその場面でなくてはならなかった。
バスケットボールであったものの残骸がフロアに落ちる。
試合は、79対78のまま、終わった。
放たれたボールがリングを通過しなければ得点にならない。それがルールだ。
彼は拘束された。初めから逃げられるなんて思っていない。
彼は満足だった。自分の行動を誇りに思っていた。たとえ他人にどう思われようと。
ただ、一つ願いが叶うなら、最後にフリースローを打ったあの選手と言葉を交わしたかった。一言だけ、謝罪したい。
「俺のせいで負けてすまなかったな」と。
私は敗者となった。歯医者に転職したわけではない。敗者だ。
私の所属するチーム、国は、メダルを逃した。獲得する絶好のチャンスがあったものの、叶わなかった。届かなかった。
それはひとえに私の責任。
それでも、私の心は晴々としていた。
あの試合を境に、パンデミックは急速に収束へ向かった。
余談だが、ボールが破裂した時のあの光には、サブリミナル的にエッチな画像が組み込まれていたらしい。そのムフフな刺激が人間の潜在意識に働きかけ、そこから生まれる信号が体内のウイルスを消滅させたのだ。
エロが世界を救ったわけである。
その事実をあなたが信じるかどうかは、私の知るところではない。それを私のジョークとして受け取るのも自由である。
ただ、一つ言えることは、
今日も世界は平和だ。
あなたの心にかける金メダル さかたいった @chocoblack
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます