第8話 「何を悩みたいの、あなたは」
どうしたんだろう、と彼は少年の間近な表情を見ながら思う。何をそんなに泣きそうな顔をしているんだろう。彼はミッシャの肩を押さえると、少しだけ押し出すようにした。
「どうしたの。そんな顔して」
少年は、大きく首を横に振る。どうしたものだろう、と言いたげに、眉を寄せると、つとその小さな手で彼の頬に触れた。そして、その手を開くと、彼の前に突き出した。
その指が、濡れていた。
彼はそれが何のことか、初めは判らなかった。少年は、彼を指して、大きく首を横に振る。彼の手を取って、自分自身の頬に触れさせた。
「え?」
彼はその時やっと、自分が泣いていたことに気がついた。
*
「何かずいぶん懐いてるじゃないの、あの子」
え、と彼はテーブルの上に広げた新聞から顔を上げた。
「ミッシャがね。ああそろそろ糸を買い足さなくちゃ」
彼女はそう言いつつも刺繍をする手は止めない。
一体どんな図柄が、どのくらい出来ているのだろう。彼は思う。彼女のその作業への集中ぶりを見れば見るだけ、その興味は大きくなる。だが彼女も、そういう彼の気持ちに気付いてか気付かずか、かいま見せるような真似はしない。
「そう見える?」
「見えるわよ。あの子が懐くなんて珍しいわよ」
「そうかなあ。いい子じゃないか」
「いい子だわ。あたしから見てもね。だけどそう見ない連中だっているのよ。隣のおばさんは、見ていてはがゆいんだ、って言っていたわ」
「はがゆい」
「あの子が喋れないのは、どちらかというと、精神的なものよ。ほんの小さい時にひどかった爆撃が怖かったからなのよ。何か一つ、掛け金が外れれば、あの子は声を取り戻せる筈なのよ」
「だけどそれが、できない?」
「そう」
ぱさ、と彼女は布の向きを変えた。彼は軽く身を乗り出す。
「見ようとするのは無礼だって言ったでしょ」
「だけど俺はここの人間じゃないよ」
「出来たら見せてあげるわよ。出来ないうちに見てはいけないの。そうなっているのよ。刺繍は思いを込めてするものよ。願いごとが叶わなくなってしまうじゃないの」
願い事、と彼はその言葉を繰り返した。
「そう」
「願をかけてるんだ…… それはじゃ、聞いてはいけないよね」
「ちょっとならいいのよ。聞きたい?」
彼はうなづいた。
「会いたいひとがいるのよ。ずっと」
「会いたいひと」
「そう。会いたいひと。会えるかどうかなんて、さっぱり判らないけど……」
会いたいひと。
「あなたには、会いたいひとはいないの?」
サッシャは訊ねる。彼は自分の手のひらに視線を移す。
「いないの?」
「居るよ。だけど俺は、そいつにひどいことをしてしまった」
「ひどいこと?」
「裏切った。だから会えない。今生きているかも判らない」
だってもう時間が飛んでいる。
確かに自分達は、ある一定の年齢からはその時間を止めて長く生きることができる。
だが戦争の最中だ。奴は軍人だ。果たして無事なんだろうか。彼は再び自分の手のひらを見る。
「でも会いたいんでしょ?」
サッシャは重ねて問う。
彼はうつむく。
会いたいよ、と両の手を握りしめる。
そう、とても会いたい。だけどもし会えたとして、自分に何が言えるのだろう。
「あのねサンド」
彼女は手を止めた。
「あたしだってそうよ。あのひとが、生きてるかどうかなんて判らない。あのひとが、あたし達を覚えているかだって判らない。だけど、会いたいと思っている間は、会えるかもしれないのよ」
ぎゅ、と両の手を握りしめる。彼はゆっくりと彼女の方へ顔を上げた。
「会って、どうするの?」
「そんなのは、会ってから考えるわ」
「だって」
「その時、あなたのそのひとは、もうあなたのことを許しているかもしれないじゃないの」
「そんな訳は……」
「そんなこと、誰が決めるのよ。あなたの相手があなたを許さない、なんてあなたが勝手に決めてるんじゃない」
彼はやや目を細めた。サッシャは再び手を動かし始めた。
「あたしはあなたが何でここにいるかなんて知らないわよ、サンド。あなたがその相手に何をしたかなんて、全然知らない。別に知りたくもないわ。だけど、あなたがそんな判りもしない未来のことを一人でうだうだと思い悩んでいるのは嫌よ」
「サッシャ……」
「見てて、鬱陶しいわよ。会いたいなら会えるようにすればいいのよ。待つなら待てばいいのよ。それで会って、そのひとがあなたを許していないというなら、その時許しを乞えばいいじゃないの。何を悩みたいの、あなたは」
頭の後ろから、冷たい水を投げかけられたような気が、した。
「今は戦争中なのよ。そんなことで思い煩っている時間なんて、ないのよ。明日死ぬかもしれないのよ?いきなりの爆撃ってのは、確かにあるのよ?」
「だけど……」
「あなたが天使種だからそんなことはないって? 馬鹿じゃないの。いきなり惑星破壊弾が打ち込まれたら、そんなことが何だっていうのよ。誰だって、死ぬのよ。天使種だって、死ぬのよ。死ぬことだって、あるのよ」
きっぱりと、彼女は言った。
そして彼の中にはそれ以上、彼女に反論する言葉の持ち合わせがなかった。しばらく二人の間に沈黙が続いた。それを破ったのは、彼女の方だった。時計を見ると、つと立ち上がった。
「……ああもうこんな時間…… ラジオを聞かなくちゃ」
彼女は軽く頭を振ると、金の巻き毛を揺らせた。その拍子に、彼にはふと布が動いたように見えた。彼女はラジオのヴォリュームを上げる。雑音が多いわ、と彼女はつぶやいた。
「……それでは次のニュース」
男性の声が、途切れ途切れに聞こえてくる。
「……が決定しました…… 管区第53防衛ライン配属の大佐……」
本当にひどい雑音だ、と彼は思う。彼女は何やら数本飛びだしたアンテナを≠チちに向けこっちに向け、とあちこち動かしている。そのたびに多少の音質は変わるが、この日の雑音は手強かった。強烈なものが一つ入り込んでいる。
彼にはそんな彼女の姿が何となく奇妙に思えた。いつもだったら、雑音が入っても、こんなに必死になって良い感度のところを求めようとはしない。
「……んもう、肝心なところを……」
ふと、そんなつぶやきが聞こえた時、ずるり、と布が床にすべり落ちた。彼は思わずそれを拾おうとして、テーブルの下に潜り込んだ。
次の瞬間、布を取ろうとした彼の手は、凍り付いた。
彼女はそれに気付かないのか、必死でアンテナを動かしている。
白い羽根が、見えた。
そして彼の視界に飛び込んだのはそれだけではなかった。
黒い髪。美しい、氷のような、その顔。
「……司令……」
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