第11話 「彼等は来るのよ」

 にぶい感触が、背中全面に、かかった。そしてそれと同時に。


「ミッシャ! サンド!」


 サッシャは慌てて二人に駆け寄る。彼は軽く目を閉じて、自分の身体の損傷の度合いを推し量る。打撲は大したことはない…… 何とか受け身が効いたらしい。だが。

 サッシャは弟に抱きついて思い切り揺さぶる。次に腕を見て、今度は青ざめる。そして。


「ちょ、ちょっとサンド……」


 彼女は息を呑んだ。下に敷いたクッションが、赤い染みを作っていた。ベルトに差し込んでいたはさみが、落下のショックで、彼の太股に深々と突き刺さっていた。


「……サンド……」

「大丈夫だよ、このくらいなら……」


 彼はやや頭がふらつくのを感じはしたが、そのままはさみをぐっと引き抜いた。傷まわりの布をそれで切り裂くと、大きく深呼吸をする。

 一瞬、血は強く吹き出したが、さすがに止まるのも速かった。


「そうじゃない。そうじゃないのよ……」

「……何だこいつは!」


 サッシャの背後から、声が飛んだ。何かが終わったのか、工場からぽろぽろと出てきた作業員の男の一人だった。彼女の顔色が変わる。何なんだろう、と彼は彼女にふと声をかける。


「サッシャ……?」


 すると彼女は、絞り出すような声で、こう言った。


「あなた本当に、馬鹿よ!」

「おいサッシャ…… そいつ……」


 男は、早送りのムービーのように治っていく彼の傷を指さして、声をうわずらせていた。サッシャはきっ、と男を見据える。


「……何よ…… 弟の命の恩人なのよ」

「こいつは、天使種だ!」


 彼女は反射的に飛び上がった。そして彼の手から素早くはさみを奪い取ると、黙りなさい、と工員の男につきつけた。


「サンド立って! 逃げて!」


 え、と彼は問い返す。


「ニュースがさっきから言っているわ。交渉は、決裂したのよ!」


 傷は既に塞がっている。だが。

 その時、誰かが彼の手を引っ張った。ミッシャ、と彼は少年の名を呼んだ。少年は、ふらつく足取りで立ち上がる。そして使えない方の腕はだらりと垂れ下げたまま、彼の手を取った。


「逃げるのよ!」

「君は!」

「すぐ行くわ!」


 彼はぶるん、と頭を一回振ると、立ち上がった。治ったばかりの傷は、さすがに鈍い痛みを感じる。

 だがそれを気にしている余裕はなかった。ミッシャの赤くなった手のひらを掴むと、彼は走り出した。

 遠くで、サイレンが鳴っている。

 掴まえろ、と声がした。

 雨の中、彼は少年の手を引いて、走っていた。どんな近道をしたのか、濡れた髪から水を滴らせて、サッシャは、やがて彼に追いついた。そしてこっちよ、彼女の家の方向を指した。

 やや息切れがする。本調子ではないのを彼は感じる。いくら「優秀な兵士」の天使種とは言え、傷を治したばかりの状態の時に、いきなり走るのは辛いものだ。

 サイレンの音が空いっぱいに広がって聞こえる。どうしてこの音は、どんな場所でも奇妙なほどに不安を覚えさせるのだろう、と彼は思う。長く長く尾を引いて、よく響く低音が、鈍い色の空一面に走る。


「来るのよ、連中が」

「アンジェラスの軍勢が?」

「そうよ」


 サッシャはうなづいた。


「そう、ラジオが告げたのか?」

「いいえ。まだそれは告げられていないわ。だけど、彼等は来るのよ」

「どういう意味?」


 彼の足が止まった。突然のことに、手を掴まれたままのミッシャはつまづきそうになる。慌てて彼はその身体を支えた。

 雨が、音を立てる。


「俺は、ずっと疑問に思っていたけど……」

「あたしが…… あたし達が、あなたを天使種と知っていながら助けたこと?」

「そうだ」


 彼は大きくうなづいた。サッシャは口を開きかけた。

 だが、次の言葉を待つ余裕はなかった。

 背後に、気配がする。同じ色合いの集団が、家庭に常備されている凶器を手に手に、近づいてくる。

 はさみも、パスタを打つ棒も、何だって、いざと言うときには凶器となるのだ。


「……行くわよ!」


 サッシャは弟の手を彼から奪い取ると、走り出した。彼もまた、その後を追う。彼女の足は速かった。そして、彼以上に、自分の家の周りをよく知っていた。

 そして彼女の足は、ごくごく当たり前のことのように、あの林へと向かっていた。

 濡れた草をかき分けて、草を踏んで、草がちぎれて。

 ざわざわと草が互いの身体を触れ合わせる音。水のにおいや、濡れた遠くの舗装のにおい、林の木々のにおいに混じって、青臭いにおいが広がる。

 サイレンの音が、止まる。数秒。そしてまた鳴る。

 十秒鳴って、三秒止まる。十秒鳴って、三秒止まる。

 サッシャはふらりと顔を空に上げる。つられるように彼も見上げた。何処にも、青いところなどない、鈍い、低い雲がいっぱいにかかった空を。

 サイレンの音に混じって、何か別の低い音が、聞こえてくる。腹の底から、うねるような音が、不安を呼び起こす。

 そしてサッシャはいきなり声を張り上げた。


「来るのよ! いい加減に逃げたらどお!?」

「やっぱり、お前はそうだったんだな! あいつらの」

「そう思うなら思えばいいわ!」


 あいつらの。


 彼は思う。


 あいつらの、何だったというんだ。


 彼の躊躇など全く容赦もせず、サッシャはまた、彼の腕をぐっと引いた。


 ……林の中に逃げ込むつもりか。


 彼はまた彼女の後について走り出した。


「あの女!」

「やめろ! お前も迷いたいか!」


 背後で声が聞こえる。木々がざわざわと、上の方で巻き起こっている風に揺れている。葉のすき間から、雨の雫が落ちる。

 林はそう大きくはないが、中が迷路のようになっていることは、どうやらこの里の人間はよく知っていることらしい。

 彼女は弟の手を引き、するすると木々の間をすり抜ける。ついていくのが彼には精一杯だった。やがて雨の粒は細かくなり、ゆっくりと降りてきた。あたりの景色がやや白く霞む。

 サイレンは鳴り響いている。

 そして景色が開けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る