第13話 遠い未来の記憶の中、出会う時まで
……壁にぶつかっていた。
視界のまぶしさに彼はくらりとする。反射的に手を出す。ざらついた石の壁。陽の光を吸い込んだ暖かい感触。濡れた手が触れると、指の形の跡がつき、すっとすぐにまた乾いていく。
頭の芯に、冷たく光る金属の玉が幾つも詰まって回転しているような、鈍い重さが駆け回っていた。額に手を当て、濡れてへばりついたままの髪をかきあげる。
「……あの、大丈夫ですか?」
え、と彼は顔を上げた。若い女性の声。
「ひどい顔色ですわ……」
「サッシャ……?」
え? と日傘を持った女性は声を立てた。
いや違う。次第に視界ははっきりしてくる。同じ金髪だけど、彼女じゃない。青い瞳ではない。ミッシャもいない。
「……すみません、大丈夫です」
「そうですか? ではせめて、その膝にどうぞ……」
女性はそう言ってにっこりと笑うと、白いハンカチを彼に渡した。彼がありがとう、と言うと、ゆったりとしたおじきを一つして、立ち去って行った。
彼はそのまま道路の端に座り込むと、「けがしたところ」にハンカチを巻いて、縛った。もう何処にも傷はない。破れた服が、今までのことを嘘ではないと告げるが、だがそれだけでしかない。
ひどく暑かった。強烈な日射しが、降り注いでいる。
石造りの道路には、色とりどりの髪の人々が、色とりどりの格好をして思い思いに歩いている。見たこともない格好、見たことのない建物。足取り。風に混ざる匂い。
……ここは何処だ。
彼の脳裏に、ようやくその問いが浮かんだ。
少なくとも、あのハンオクのオクラナ、ココラヤ共和同盟ではないのだ。雨は降っていない。雲一つない青空、焼け付くような暑さ。じわじわと照りつけるその熱が、確実に、ここが「そこ」ではないことを、彼に気付かせる。
また、か。
彼は自分が、また時間と空間を越えてしまったことに気付いた。自分の中の何か、が宿主である自分を生かすために、それは行われる。
あの時と同じように。そして。
司令。
彼は内心つぶやく。
あなたは俺の、この天使種としても特異な、この性質が欲しかったんですか。ただそれだけなんですか。
予想はできる。先の絨毯爆撃の理由は、同胞を殺したという言いがかりだったという。きっと、俺は、その殺された同胞の役を当てられていたのだろう。俺は死なないから。本当に危険になったら、俺は、飛べるから。
判っていたつもりだった。あの司令に最初に出会った時から、あの冷ややかな瞳に見据えられた時から、そうなるのは。魅せられて、望む役割を果たそうと決めたはずだった。そのために大切な友人すら裏切った。
だけど、それは、判ったつもりだけだった、と彼は思う。
そうすることが、何なのか、俺は、本当に知ってはいなかっんだ。
彼は唇を強く噛む。一瞬、血の味が広がるが、すぐにそれはふさがる。忙しそうな人の群が、挙動不審な若者には目もくれずに、急ぎ足で通り過ぎていく。ざわめき。遠くで何やら奇妙な音楽が聞こえる。穏やかで、平和な光景。
それがいつの何処であるかなんて、どちらでも良かった。
とにかく、この瞬間、サイレンは鳴らない。
彼はゆっくり顔を上げると、空を仰いだ。何処までも続く青。目に痛い程の日射し。
……司令。
彼は声にならない声でつぶやく。
やっぱり、あなたは、間違っている。そして俺も、間違っている。
少なくとも、あの二人を、あの二人を取り巻く世界を、ああいう風にする理由が、俺には判らない。
最初の爆撃がなかたら、あの二人の両親は死ななかった。ミッシャは声を無くすことはなかった。
サッシャは里の人々に白い目で見られることはなかった。
少なくとも、もう少し、生きやすくなっていたはずだ。
あの、何処までも、生きることに強気の彼女を。
俺のせいなのかもしれない。
俺のせいでもあるんだ。
俺というコマが現れることを想定したことだというなら。
無論、それだけではないことは彼にも判る。自分が全ての元凶だと考える程彼はうぬぼれてはいなかった。
だが。
彼の中に、思っても見なかった言葉が浮かぶ。
俺は、あなたに、逆らえるだろうか。
殺さないでくれと、少なくとも生かしておいてくれ、とあの司令から子供達をかばった大佐のように。
それは、大佐がそうしたことより難しいのは目に見えている。あの司令の網の目は、時間と空間を越えて、張り巡らされている。司令にとって、彼の行動は、許容される変数のようなものなのだろう。
それでも。
耳にはまだ、二人の声が、絡み付いている。
ミッシャに助けてもらった礼を言ってなかった。
サッシャに本当の名前を告げていなかった
生きなくては。行かなければ。
何処へ?
何処とも判らない。だが、あの時司令からなだれ込んできた遠い未来の記憶の中、自分は確かに、またあの司令と出会うことがある筈なのだ。
その時には。
その時までは。何をしてでも。
……彼はゆっくりと立ち上がった。
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