1-②.


 わずかな間、言葉もなく、二人の視線は交差する。栞はその稀有けうで美しい瞳を知っていた。桜色の瞳が大きく見開いて彼が何か言いかけた時、見計らったように本鈴がひびいた。はっとして彼は後ろをかえる。

「やばい、朝礼が始まる……って、あっ、花が!」

 彼の後ろにはミニバラやシクラメンなどが入った鉢植はちうえがごろごろと転がっていた。鉢植えは横に倒れ、土と花がこぼれ出している。少年は急いで倒れた鉢を起こし始めた。その手はかすかにふるえていた。

「やだ、鉢植えが大変なことに……私も手伝います!」

 栞が手伝おうとしたが、彼は下を向いたまま「近づくな!」とするどい声を上げた。

「え、でも、私のせいだし……」

「これは一人でなんとかできるから。それ以上、近づかないで」

 栞を見ずに、少年は冷たくはなすように言った。

「あの、でも、一つだけ聞きたいんだけど、あなたってもしかして」

「お願いだからこっちに来ないで。ぼくにこれ以上話しかけないで……来客用の玄関ならあっちだから、さっさと行ってよ」

 栞の言葉をさえぎって少年は言う。

 彼の指さす方向を見ると、看板と矢印があった。

 あまりにも冷たい言い方に栞は言葉の続きをむしかなかった。彼は下を向いて鉢植えを黙々もくもくと片づけていたのでその表情は分からなかった。栞はどうしてこうも突き放されるのか理解できないまま、小さな声で「ありがとう」と言うと、指さされた方向にとぼとぼ歩き始めた。

 絶対に彼だと思ったのに、間違いだったのだろうか。

 栞は心の中でぐるぐると考えていた。栞の知っている彼は誰よりも優しくて人を傷つけるような言い方はしない。でも、あの美しい瞳を見て、人違いだとは思えなかった。

「ちょっと待って」

 ぐい、とかたつかまれて栞は振り返る。先ほどの少年がハンカチを押しつけるように栞に手渡てわたした。

ひざから血が出てる……返さなくていいから」

 目をせたまま、それだけ言うと少年は鉢植えをかかえてげるように走っていった。

 手の中のハンカチを見つめながら、栞は思った。

 ――やっぱり彼だ、と。


 来客用玄関から校内に入ると、担任が栞を待ち構えていた。色黒で恰幅かつぷくが良く、若く溌剌はつらつとした男性教師だった。きっと科目は体育に違いない。

「雪間栞さんだね! こんにちは……っておいおい、その足はどうしたんだ? 大丈夫か?」

「ちょっとそこで転んじゃったんです、あはは」

 栞はじわりと血がにじむ膝を見て、苦笑いした。

「こりゃあ保健室が先だな! こっちだ、ついておいで」

 担任が人気のない廊下を進んでいく。栞は後ろを歩きながら、手の中のハンカチをぎゅっとにぎった。

「先生……転んだ時、助けてくれた人がいたんです。同じ二年生だと思うんですけど」

「へえ、どんな奴だった?」

「花の鉢植えを持った、桜色の目をした男の子です」

「桜色……ああ、それは生物部の吉野葉桜よしのはざくらだな! あの人見知りがめずらしいこともあるもんだ」

 吉野葉桜。その名前を耳にした瞬間、身体からふ、と力が抜けた。

 やっぱり、葉桜くんだったんだ。

 栞は彼の桜色の瞳を思い浮かべた。あの綺麗な目を見間違えるなどあり得ない。けれど、それでも、あまりにも今の彼は違いすぎる。

「彼、人見知りなんですか?」

「ああ、困ったことに無口で誰とも話したがらないんだよ」

 誰の話をしているのか分からなくなりそうだった。あの泣き虫だけど誰よりも優しい彼は変わってしまったのだろうか。けれど、手の中にあるハンカチに唯一ゆいいつ、彼の優しさが残っている。一見冷たくてぶっきらぼうに見えたあの少年こそが間違いなく栞の幼馴染みで、初恋の相手。

 会いたいと願っていた――――高校二年生になった吉野葉桜だった。


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