2-⑥.


  ***


 カッカッカッ、と板書するチョークの高い音。それがひと際大きく聞こえるのは、教室がとても静かだったせいだろう。チョークの音がむと、今度は代わりにシャッシャッというノートを取る鉛筆えんぴつの音がさざ波のように流れる。

「この段落では、主人公は親友に結婚けつこんすることを自分の口から打ち明けられなかったことに罪悪感をいだいているのがよく分かるな。そして、次の段落では自分の自尊心が邪魔じやまをして……」

 昼食後の現代文は眠気ねむけさそいやすいのか、クラスの四分の一は机にしずんでいた。生徒がていても構わないスタンスらしい国語科の教員は注意もせずに淡々たんたんと説明を続けている。かろうじて起きているだけの生徒も多く、ノートを取り終えると船をいでいる者もいた。そんな中、葉桜は真面目な顔でせっせとノートを取っている。葉桜の横顔をこっそり盗み見ながら、六年前の引っ越した日のことを思い出していた。

 あの時、手紙を書くと言えば良かったのだろうか。そうすれば彼の変化に気づけたのに。栞は後悔こうかいしていた。

「じゃあ、次の段落の最初から。誰に読んでもらおうか……ええと、雪間」

「あ……は、はい!」

 葉桜を盗み見ていた栞は急に名前を呼ばれて、飛び上がりそうになった。

「百五十ページの終わりまで一気に読んでくれ」

 はい、と返事をしながら、半分授業を聞いていなかった栞は教科書のページを慌てて捲った。その場で立ち、指定された箇所から教科書の本文を読み始める。

 有名な、古い小説だった。難しい言葉が多くて読みやすいとは言えないが、栞は以前にこの話を文庫本で読んだことがあった。栞が今朗読している部分は、この小説の中でも最もつらいシーンだった。主人公が裏切ったために親友が死んでしまうというかなしい場面だった。何度読んでも胸がぎゅっと苦しくなる。教科書を読み上げながら栞はふと異変に気づく。

 隣で座っている葉桜の様子がどうもおかしい。落ち着かない様子で、貧乏びんぼうゆすりをしたり、しきりにペンを回している。葉桜と隣の席になってもうしばらく経つが、こんな挙動不審ふしんな葉桜を見るのは初めてだった。

 読み終えた栞はほっと息をついて、腰を下ろした。すぐに葉桜へ視線を向けるが、その顔は何かに耐えているような、苦悶くもんの表情をかべていた。顔色も見るからに悪かった。

「吉野くん、大丈夫? 具合悪いの?」

 栞は声をひそめて、葉桜にたずねる。しかし、葉桜は無言のままだった。栞は悶々もんもんとしながら授業が終わるのを待った。その間もチラチラと葉桜に目をやるが、あまりにも苦しそうなので見ているだけで辛かった。

 チャイムが鳴って授業が終わった途端に、葉桜は立ち上がり、教室から逃げるように廊下に出て行った。

「吉野くん、おなかでも痛かったのかな……あれ」

 栞は、葉桜の机の下にハンカチが落ちていることに気づいた。すぐに拾って追いかけると、葉桜が廊下の最奥さいおう、北階段を上っていくのが見えた。

「どこに行くつもりなんだろう?」

 栞はとりあえず、葉桜を追って廊下を進む。まだ転校して日も浅いので校舎の造りはよく分からないが、校舎の北側は普段ふだん授業で使う教室から遠く、倉庫や空き教室ばかりだと聞いた。そのため、生徒は北階段をあまり使わないのだとか。栞も北階段は使ったことがなかった。

 案の定、北階段の周辺には誰もいなかった。葉桜の姿もない。栞は不審に思いながらも、階段を上り続けた。けれど、一番上まで上りきっても葉桜はいなかった。屋上に続く扉には立入禁止と大きく書かれている。

「見間違いだったのかな。確かにこっちに来たと思ったんだけど……」

 栞は来た道を戻ろうと、きびすかえした。その時、かすかに苦しそうな声が聞こえ、栞は耳をそばだてた。

 その声は屋上の扉の奥から聞こえてくる。立入禁止と書かれた扉に手をかけ、取っ手を回せば抵抗ていこうなく扉は開いた。そのまま屋上に出ると、しゃがみ込んで膝を抱えた葉桜がいた。

「葉桜くん?」

 びくっ、と肩がね、葉桜ははじかれたように顔を上げた。その顔を見て、栞は思わず息をんだ。

「なんで、ここに……」

 震えて、かすれて、絶望した声だった。

 葉桜は目を赤くして泣いていた。ぽろぽろ、ぽろぽろと雨のように降る涙はコンクリートの地面に染み込んでいた。一瞬いつしゆん呆気あつけに取られていた栞だったが、慌てふためいて葉桜の前に膝をつき、勢いに任せて彼の手を両手で包み込む。

「何があったの! どうして泣いているの? どこか痛いの?」

 栞は真剣しんけんな表情で葉桜をまっすぐに見つめた。一方の葉桜は気まずそうに目を伏せた。

 涙が音もなく頬を伝う。それはあまりにも静かな涙で、泣いているというより、零れているというほうが正しかった。

「……君にだけは、知られたくなかったのに」

 葉桜は栞の手をほどいて、すっくと立ち上がる。栞は後ろにたおれ、その場でしりもちをついた。

「ちょっと待ってよ、葉桜くん!」

 栞はその場から去ろうとした葉桜に咄嗟とつさに手を伸ばして、学ランのそでつかんで引き留めた。

「何がなんだか、私には分からないよ。とにかく、落ち着いて話を……」

 葉桜の表情を見て、栞は言葉を詰まらせた。

「お願いだから、僕に構わないで」

 悲しみと苦しみと、それにずかしさをうつわいっぱいに入れてぐちゃぐちゃに混ぜたような、そんな強い感情があらわになっている。彼の顔があまりに痛ましくて、栞は自ら引き留める手の力をゆるめてしまった。

「僕が泣いていたことは、誰にも言うなよ」

 消えてしまいそうな声だった。葉桜はそれだけ言うと、栞の手をはらいのけて屋上を出て行った。階段を駆け下りる足音は荒々あらあらしく、栞にはそれが悲鳴のように聞こえた。


 その後、戸惑とまどいながらも栞は教室に戻ったが、葉桜の席は空いたまま次の授業は始まった。いつの間にか、葉桜の鞄は消えていた。大将に聞けば、葉桜は具合が悪くなって早退したのだという。

 葉桜の泣き顔を思い出すたび、栞の胸はざわついた。


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