2-⑤.



 図書当番が終わった栞は例のごとく、まっすぐには家に帰らずに丘を上った。いつもの桜の下で、絵本を広げる。誰もいない丘なら遠慮えんりよなく大きな声を出せる。栞は読み聞かせの練習にはげんでいた。

 陽が傾いて、風が冷たくなり、そろそろかも、と栞は丘の下から続く坂道に目をらす。栞の読みどおり、部活を終えた葉桜が坂を上ってきた。

「吉野くん、さっきぶり!」

 栞が満面の笑みで呼びかけると、まだ遠くにいた葉桜が足を止めた。いつもは無視して通り過ぎる葉桜だったが、さすがに根負けしたのか大きなため息と共に栞のそばに歩み寄る。

「なんでいつもここにいるの? 暇なの?」

 相変わらず、刺々とげとげしい物言いだったが、葉桜が自分から話しかけてくるのは珍しく、栞はそれだけで笑顔になってしまう。

「子どもの頃のくせで、なんとなく足がここに向かうの。葉桜くんだってそうでしょう? この桜に寄り道するとおうちに帰るには少しだけ遠回りだし」

「別に。この木が気に入っているだけだよ、ぼくは。それより、下の名前で呼ぶのやめてって言っただろ。子どもじゃないんだから」

 栞はけち、と愚痴ぐちり、くちびるとがらせる。

「それじゃ」

「あ、待って!」

「何?」

「今ね、朗読の練習をしていたの。今度、さくら町の図書館で朗読のボランティアをするんだよ! 吉野くん、近所だし良かったら見に来」

「やだ」

即答そくとう!? 最後まで聞いてよ。あのね、この絵本を読むんだよ」

 栞は司書教諭から借りた絵本を両手に持って葉桜に見せた。

「さくら町だから、朗読はこの絵本がいいんだって、司書の先生が貸してくれたの。私も大賛成! このお話、大好きだから!」

 絵本を見せた途端とたん、葉桜の表情が一気に冷たく、険しいものになった。栞はわけが分からずあせをかく。

「絶対行かない。それと本選びのセンス悪すぎ」

 葉桜はきっと温度にしたら氷点下のような声ではっきり言い切った。そして、いつも以上に不機嫌そうに眉間みけんしわを寄せて、栞に背を向けて歩き出した。

「幼馴染みの晴れ舞台ぶたいなんだから見に来てよ! 葉桜くんのけち!」

 栞が子どものように駄々をこねると、歩き出していた葉桜は立ち止まり、振り向く。

「読み聞かせくらいで晴れ舞台だなんて大袈裟おおげさなんだよ……それに、僕には僕の事情があるんだ」

 葉桜は厳しい口調で言い放って、それっきり振り返ることはなかった。

「……何がそんなに嫌なの?」

 取り残された栞は、絵本の美しい表紙に視線を落として呟いた。


  ***


 小学五年生の終わりに、栞の転校が決まった。

 あと一年で一緒に卒業できるのに、と別れを惜しむ声は多かった。実際、栞も同じ気持ちだったが、どうしようもなかった。

 学校ではホームルームを使ってお別れ会が開かれた。レクリエーションをしたり、お別れの歌を歌ったり、最後は寄せ書きの色紙が贈呈ぞうていされた。いたれりくせりだと子ども心に思ったが、自分より泣いている幼馴染みが気になって正直、お別れ会どころではなかった。

 栞の転校が決まったと担任が話した時も、お別れ会の時も葉桜は泣いた。

 私がいなくなった後、葉桜は大丈夫だろうか。栞はそんな心配ばかりしていた。

 引っ越し当日の朝。その年の春は暖かく、例年より一週間ほど早く桜は開花した。雪間家の目の前、河川敷の桜並木は満開していた。その日は晴れていたが朝から風がいていた。

 その風は、栞と葉桜の別れの時が近づくにつれ、強まり、まだ開いたばかりの桜の花が散りそうになっていた。はらはら、と花びらが少しずつ飛ばされていくのを栞は家の窓から眺めていた。

 引っ越しの荷物をトラックに運び込み、午後になっていよいよ旅立とうという時、葉桜が栞の家にやってきた。葉桜はそれまで見てきた泣き方とは比べ物にならないほど大号泣だいごうきゆうした。あまりの泣きっぷりに葉桜の右目の泣き黒子が涙で流されやしないかと思ったほどだ。

 葉桜が大泣きし始めると、風はびゅうびゅうといっそう激しくなった。栞のふわふわした栗色の髪は風になびいて、身体ごと飛んでいきそうなほどの強い風だった。

 春休みに入っていたので学校は休みだったけれど、栞は友人たちの見送りを葉桜以外、全て断った。きっと他の人がいると、葉桜は思う存分に泣けないだろうと思ったからだ。

 それに何より、栞は大好きな葉桜と二人きりで別れの時を惜しみたかった。

「葉桜くん、そんなに泣かないで」

 自分のことを想ってこんなにも泣いてくれる。そんな葉桜が栞は大好きだった。

「栞ちゃん……僕、きっと会いに行くよ。手紙を書くよ。だから、僕のことを忘れないで」

 泣きじゃくりながら葉桜は栞の手をぎゅっと強くにぎる。

 栞は困ったようにまゆを下げて、首を横に振った。

「会いに来なくていい、お手紙もいらないよ」

「えっ……」

 なんで、と言う代わりに真っ赤になった目をさらに潤ませ、葉桜は栞を不安そうに見上げる。

「大丈夫だよ、私は忘れないよ。忘れるわけないよ。だから、お手紙も何もいらない。葉桜くんが私のこと覚えていてくれるだけでいいの」

 栞はそう言ってから、目尻めじりまった涙を隠すように目をこすった。

「本当のこと言うとね、お手紙とかもらったりしたら、私がさびしくなっちゃうからだめなの」

 涙をこらえて悪戯いたずらっぽく笑うと、栞は言葉を続ける。

「きっと、すぐに帰ってくるよ。今よりもっと元気になって、大人になって、この町に帰ってくるよ! どんなに怖いいじめっ子からだって葉桜くんを守れるくらい強くなるよ! きっとすぐだから……だから、待っててね」

 ほろほろ、とあふれた涙は栞の頬を流れ落ちた。

 葉桜は自分のほうがたくさん泣いているのに、栞をなぐさめるように彼女かのじよの頬に指先でそっとれ、温かな涙をぬぐった。

「待ってる。僕も今よりもっと強くなるよ。今度は僕が栞ちゃんを守れるように」

 葉桜は深く息を吸って、ふるえる唇で笑顔の形を作った。

「だから、栞ちゃん。絶対にこの町へ帰ってきてね」

 葉桜が泣きべそのまま笑うと、葉桜と栞の間を優しい風がける。風に乗った桜の花びらは葉桜をつつむようにっていた。


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