2-④.


  ***


 それから数日が経った。河川敷の桜の葉は今も青々としているが、徐々じよじよに気温は下がり始めている。数日のことだが、過ごしやすい気候になり、教室にいてもあせばむことは減ってきた。

 栞は、毎日めげずに葉桜に話しかけた。隣の席だから話しかけるチャンスはいくらでもある。おはよう、また明日。朝と帰りは必ず声をかけた。休み時間もすきあらば声をかけた。なんの本を読んでいるの。好きな科目は何。生物部ってどんなことをするの。質問はきなかったけれど、葉桜は「別に」だとか「ふーん」だとか、まもとに取り合ってはくれなかった。

 意気込いきごんで突撃とつげきし、撃沈げきちんして落ち込む。そしてまた突撃する。そんなことをかえしているうちに栞はいつの間にかクラスに馴染んでいた。葉桜に話しかけて撃沈する一連の流れはクラス内ではすでにコントあつかいされていた。

「吉野くん、お昼ご飯一緒に食べない!? デザートにプリンもあるよ!」

 四限目の終了しゆうりようを告げるチャイムが鳴り終わって栞はすぐに弁当箱を取り出した。葉桜は栞に目もくれず、「いそがしいから」と席を立ってしまった。さっさと教室を去る葉桜を止める手立てなどなかった。

「今日もだめだった……プリンじゃだめなんだ」

 栞は栗色くりいろの長い髪をだらんと垂らして机にせった。

「敗因はプリンじゃないと思うぞ。昔、給食で横取りした時は泣かれたけどな!」

 空いた葉桜の席に座ったのは大将だった。傍若無人ぼうじやくぶじんな子ども時代を思い出して、苦笑いしている。大将は大きな惣菜そうざいパンのふくろを開けて食べ始める。

「あの吉野相手にめげずにアタックし続けているのは雪間さんが初めてだよ。毎回、絶対に撃沈する流れになってんのはもう笑うしかないけど。吉野も少しくらい相手してくれたっていいのにな? 頼めば宿題見せてくれるし、本当に悪い奴でもなさそうなのに」

 栞の斜め前の席に座る男子、杉田すぎたが大将に宿題のノートを見せながら言う。大将はパンをくわえ、葉桜のノートを写したノートをさらに自分のノートに写している。

「でも雪間さんが転校してきてから吉野くん、前よりは話すようになった気がするよね。一年の時から無口だけど、困ってるとだまって助けてくれることもあるし本当は良い奴なんだろうなって思ってた」

 そう言いながら、前の席に座る佐々岡ささおかが振り返った。佐々岡は弁当箱を栞の机に持ってきたので、栞は起き上がって彼らと一緒に昼食を食べ始めた。

「葉桜は昔からいい奴だよ。最近は俺の学力を心配して宿題を見せてくれなくなるほど、世話焼きだからな」

 そう言いながら大将はノートを書き写している。栞は呆れて物も言えないと冷たい視線を送った。

「あー、確かに。口では冷たいこと言って人のことを遠ざけるわりに困ってると助けてくれるよな、吉野って。筆箱忘れた時に何も言わずにシャーペン貸してくれたりとか」

「なんで吉野くんって私たちと話してくれないんだろうね、雪間さん」

「それ、私が聞きたいよ。子どもの頃はああじゃなかったもん……」

 栞はおかずを口に入れた。一緒にお弁当を食べられたら、と葉桜が好きだったあまい卵焼きやポテトサラダを弁当に入れていた。栞は弁当のおかずを眺めてしょんぼりした。

「でも、雪間さんもよくめげないよね。私が雪間さんだったら、あんな冷たい反応されたらすぐ心折れちゃうよ」

「栞は昔から楽観的だからな。多少のことは気にしないようにできてんだよ」

「そんなことないよ! 私のことなんだと思ってるの!」

 栞は栞だろ、とすっとぼける赤点王の大将に栞は反論する気もせた。

「とにかくお前がたよりなんだよ! 赤点の俺より頭いいんだし、なんとかして葉桜の心を開いてくれよ」

「それ、学校のテストより難問だよ……」

 栞は項垂うなだれて答えた。

 大将はもちろん、杉田も佐々岡も、他人事ひとごとなのでケラケラと笑っていた。栞はますます項垂れた。


 午後の授業も終わり、栞はいそいそと図書館へ向かった。今日は図書当番の日だった。図書館の利用者は少なく仕事はそう多くない。この学校は部活動が活発なので、運動部も文化部も放課後は忙しそうだ。図書館に来る生徒など、一部の帰宅部と受験生くらいだ。

 そのため、図書当番と言っても受付に座ってたまに貸出の処理を行うだけ。誰も来ない間は、読みたい本を読んでいられる。

「ああ、今日の当番は雪間さんね。ちょうど良かった。ちょっとお願いがあるのだけれど」

 司書室からひょっこり顔を出した司書教諭が栞を手招きしている。

「なんですか、先生?」

 司書室に入ると、栞の前に一冊の絵本が置かれた。それは栞もよく知っている物語だった。

「今度、さくら町の図書館で読み聞かせボランティアをしてほしいって依頼いらいがあってね。雪間さん、さくら町に住んでいるでしょう? ぜひお願いしたいのだけれど、どうかしら?」

「さくら町の図書館で? やりたいです! さくら町の図書館なら何回も行ったことがあります」

 栞が二つ返事で快諾かいだくすると、司書の先生はほっとして目を細めた。

「そう、良かった。さくら町にちなんで、その絵本を子どもたちに読んでほしいのですって。雪間さんもそのお話は知っているわよね?」

「もちろんです、この絵本大好きです! さくら町に住んでいてこの話を知らない人はいませんよ」

 栞は胸を張って答えた。司書教諭は、それなら安心だと栞に絵本を手渡した。読み聞かせの練習は後日、司書教諭が見てくれるのだと言う。

 絵本を手に図書館の入り口近くのカウンターへ戻った栞は、すぐにページを開いた。子どもの頃に何度も読んだ絵本だ。内容も覚えている。それでも懐かしくてページを捲る手は止まらなかった。

 絵本に夢中になっていると、ぎい、と木のきしむ音がして、図書館の立て付けが悪いとびらが開かれる。栞が本から顔を上げて扉に目を向けると、制服に白衣を羽織った葉桜の姿があった。栞は思わず「葉桜くんだ」と声に出していた。

「今日の図書当番、雪間さんだったのか……」

 葉桜はついてない、とでも言いたげな顔で、不機嫌そうに理系の本が多い奥の棚へと消えていった。

 程なくして、葉桜は何冊かの図鑑ずかんと専門書をかかえてカウンターにやってきた。

 植物に関連した本ばかりだった。本の題名を見ても内容がさっぱり分からないので、かなり専門的なものなのだろう。栞は素直すなおにすごいな、と感心した。

「あ、この図鑑は貸出禁止だよ」

「……部の顧問こもん経由で司書の先生に許可はもらってるはずなんだけど」

「あ、そうなの? じゃあ、いいか。それにしてもこんなにたくさん、すごいね。生物部だったよね!」

 貸出の処理をしながら、栞はここぞとばかりに話しかける。処理が終わらなければ、葉桜は本を持って帰れない。栞はわざと時間をかけて作業した。

「はざ……吉野くん、昔からお花とか好きだったよね」

「別に、普通だよ」

「そっか、普通かあ。生物部ってどんなことするの?」

「……実験とか、いろいろ」

 栞は処理が終わった本を重ねて葉桜に手渡した。転校してからやっとまともな会話ができたことで、栞は嬉しくてたまらなかった。

「ねえねえ、せっかくだから今日、一緒に帰らない?」

 葉桜は受け取った本を抱えて、栞をじっと見る。

「図書館ではもうちょっと静かにしたほうがいいよ、仮にも図書委員でしょ」

 返事代わりに嫌味いやみを言われて、さっきまでにこにこしていた栞は笑顔にヒビが入った。

「いつもはもっと静かにしてるよ! 今日は特別なの!」

 そんな栞の声を背に葉桜はやれやれと図書館を出て行った。

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