2.

2-①.


 しおり葉桜はざくらが初めて出会ったのは、やっと物心ついたころのことだった。

 もともと、二人の家は近所にあったので出会うのは必然だった。雪間ゆきま家の裏手にあるおかの上、そこにぽつんと一軒家いつけんやが建っている。それが吉野よしの家だった。丘には一本道しかなく、栞と葉桜の家は一本の道でつながっていた。距離きよりはなれているが、栞と葉桜はおとなりさんだった。

 幼い栞はる桜の花びらを拾って遊んでいた。ぽつ、ぽつ、と地面に落ちている桜の花びらはまるで小さな足跡あしあと。栞は花びらを拾って歩くうちに、町一番の立派な桜に辿たどいた。

 しかし、どうしてか、桜の木からしくしくと泣き声が聞こえてきた。桜も泣くのかしら、と栞が裏へ回ると、太い幹の後ろに男の子が一人かくれて泣いていた。

「こんなところで、どうしてないているの?」

 うずくまっている男の子の隣に、栞はしゃがみむ。

「みんな、ぼくをへんだっていうの」

「どこが?」

 男の子がおずおずと顔を上げると、栞はびっくりして手の中にあった桜の花びらを落としてしまう。空になった両手で男の子のほおを包んで、そのひとみのぞき込んだ。

「すごい! さくらとおなじいろ!」

 興奮した栞は桜の花と瞳を何度も見比べた。すると、見る見るうちに桜色の瞳はうるんでいった。

「そんなにへんなの? みんながぼくをへんだっていうの。それで、なかまにいれてくれないんだ」

 仲間外れはいやだ、と男の子は泣きじゃくった。栞はそんなことない、と立ち上がる。

「へんじゃないよ、とってもきれい! わたしは、なかまはずれになんかしないよ」

「ほんとう?」

 栞は大きくうなずいた。

「わたし、しおりっていうの! あなたは?」

「ぼくは……はざくら」

 よろしくね、と栞が笑いかけると、それにつられて泣いていた葉桜も笑った。ぽろぽろなみだこぼしながら笑った。泣き黒子ぼくろの上を涙がすっと流れていった。

 桜吹雪ふぶきの中で泣きながら笑う葉桜があんまりに綺麗きれいで、幼い栞はずっと見惚みとれていた。

 二人が友達になったきっかけはそんな些細ささいなことだった。それからはひまさえあればいつでも一緒いつしよに遊ぶほど仲良くなった。栞がすまでの間、二人は幼馴染おさななじみとして長い時間を共に過ごした。


  ***


「……雪間、聞いてるか?」

 さわがしい職員室の中で名前を呼ばれて、栞は記憶きおく彼方かなたへ遠のいていた意識を現実へもどした。

 職員室の片隅かたすみで向かい合ってすわる担任が心配そうに栞の顔を覗き込んでいる。

「あ、すみません、ぼんやりしてました」

 栞は誤魔化ごまかすように笑った。初恋はつこいの人の、あまりの変貌へんぼうぶりにショックを受けて、過去の記憶に逃避とうひしてしまっていたらしい。

「転校して緊張きんちようしているのか? それともひざが痛むのか?」

「保健室で消毒してもらったし、膝は大丈夫だいじようぶです。緊張はしてますけど」

「二年の、しかも秋に転校だもんな、仕方ないよ。でも、そんなに緊張しなくても大丈夫だ! うちのクラスは気のいいやつらばかりだよ」

 担任は栞の背中をポンポンと叩く。栞は担任の話に相槌あいづちを打っていたが、心ここにあらずだった。

 初恋の人、吉野葉桜は幼少時、気が弱くて泣き虫だった。小学校の高学年になってもそれは変わらなかった。けれど、かれの涙にはいつも理由があった。だれよりも人の痛みに敏感びんかんで、感情豊かで、心やさしい彼はいつも誰かのために泣いていた。栞が転校する時には栞以上に泣いて別れをしんでくれた。

 それなのに、どうしてだろう。あんな冷たい物言いで、しかも六年ぶりとはいえ幼馴染みの栞に気づきもしないなんて。

 栞は自分でもおどろくほど落ち込んでいた。ふくらんでいた楽しい気持ちは、空気がけていく風船のようにしぼんでいた。

「さあ、そろそろクラスに移動しようか。自己紹介しようかい頑張がんばれよ!」

 担任に連れられて栞は憂鬱ゆううつな気持ちのまま、教室へ向かった。廊下ろうかはしんとしていたが教室の前まで来るとにぎやかな声がれ聞こえてくる。栞が担任に続いて教室に入ると、急に静まり返って、たくさんの生徒の視線を一気に浴びた。緊張で今までの憂鬱な気持ちさえも飛んでいく。

「みんな、お待ちかねの転校生を紹介するぞ。雪間栞さんだ。小学生の頃までこの辺りに住んでいたそうだ。助け合って仲良くするように。はい、じゃあ、一言どうぞ」

 担任にうながされ、栞は気持ちをえて、教壇きようだんに立った。

「雪間栞です! 小学五年生までさくら町に住んでいました。家の都合でこんな時期ですけど、地元に戻ってきました。本を読むのが大好きです! みなさん、よろしくお願いします!」

 栞はぺこり、と頭を下げればパチパチと大きな拍手はくしゆが起こる。顔を上げるとクラスメイトは笑顔えがおむかえてくれた。担任の言ったとおり気の良いクラスのようだった。

「雪間の席は窓際まどぎわの一番後ろだ。おっ、しかも隣は吉野だったか。転校生をよろしくたのむな、吉野」

 栞があわてて担任が指さした方向を見ると、葉桜がやや驚いた表情で固まっていた。

 栞は自分の席に着き、横目で隣の葉桜を見つめる。癖毛くせげ黒髪くろかみ、白いはだ、右目の泣き黒子。中性的で整った顔立ちには幼い頃の面影おもかげが残る。それに何より、前髪の隙間すきまから覗く桜色の瞳。

 何度見ても間違まちがいない。彼だ。

 険しい顔つきはまるで別人のようだが、きっとぶつかったことで機嫌きげんを悪くしたのだろう。栞はもう一度あやまるチャンスだと、葉桜に声をかけた。

「さっきはぶつかってごめんね。これからよろしく、葉桜くん!」

 栞は努めて明るく葉桜に話しかけたが、葉桜はいっそう不機嫌そうな顔をした。

れしく下の名前で呼ばないでくれる?」

「え……」

 栞はびっくりしてすぐに言葉が出てこなかった。

「いや、でも、子どもの頃は」

「授業始まるよ、雪間さん。早く準備したほうが良い」

 始業のベルが鳴り、葉桜との会話は途切とぎれた。

 ――雪間さん。

 自分の名前なのに、葉桜に呼ばれると言いようのない違和感いわかんがあった。他人行儀たにんぎようぎに名前を呼ばれたことに、栞はチクチクと胸が痛むのを感じていた。

 昔のように下の名前で呼び合うこともできないのか。私のことなど忘れているのだろうか。栞の心の中でそんな不安が大きく膨らんでいた。


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