後編


(あっけないものね。まあ、わたしが薄情なのかもしれないけれど)


 彼が、他の女性に気移りしたとは、微塵も疑わなかった。いつだってわたしを立ててくれて、記念日の類は、わたしが忘れてしまっても、彼は絶対に覚えていた。欲しい言葉は求めなくてもかけてくれるうえ、わたしを困らせるようなことなんて、一度もしていない。そんな彼と一緒にいると、心がとても穏やかになった。


(わたしは、彼の心が好きだった)


 正直に言うと、一度でいいから、どうしようもないほどに困らせて欲しかった。むき出しの感情をぶつけ合って、心の深いところでつながりたかった。だが、彼は衝突をよしとしない性格である。底のしれない優しさで、どこまでもわたしを包み込んでくれるのだ。そこに確かな愛情が感じられ、わたしは「これでいいのだわ」と、いつしか彼に、本音の吐露を求めなくなっていった。


(やっぱり、体のつながりって、重要なのかしら)


 ひとりになって、ふとそんなふうに思った。三年も付き合う間柄にあって、わたしたちは体の相性を確かめていない。けれども、すぐに頭を振って考えを取り消す。


(彼は、そんな人じゃないわ。たぶん……)


 男女の別れは、案外こんなものなのかもしれない。わたしは、そう自分を納得させることにした。


 別れてから数ヶ月──わたしが新生活に慣れたころ、ふいに彼から連絡が届く。少し驚いたが、連絡先は残しておいたのだ、と思い出した。


(あら? メールだわ……)


 そのときわたしは、彼のちょっとした変化に気がついた。連絡方法が変わったのだ。「ちゃんと読んでくれたかどうか、伝わるほうがいいでしょう」と、付き合っていたころは、主にメッセージアプリを使っていた。既読のマークがあるかないかは、大きな利点である。まどろこしくなれば無料で通話もできたので、勝手がよい。しかし、彼は突然メールを使うようになったのだ。


(メールなら、いつ読んでもいいものね。別れた彼女に、いったいどんな用なのかしら。わたしがひとり寂しくしているとでも思ったら、失礼な話だわ)


 メールの内容は、季節の話や最近見た映画の話、美味しい料理を振る舞うお店を見つけた、といった他愛のないものばかりだった。そして、一週間に一度、決まった時間にメールを送ってくるのだ。わたしが読み疲れないよう配慮してか、文章の量は多すぎず少なすぎない。三分もあれば読み切れるほどで思いがつづられていた。そこに『会いたい』の言葉が登場することは、一度もなかった。メールの結びには、いつもこうある。『君が嫌でないのなら、またメールを送ります』と。

 嫌ではなかった。嫌いになって別れたのではない。想いが距離には勝てないと、そう思ったから別れたのだ。実際、新しい職場で働くうちに、彼のことを忘れる時間が増えた。ふと思い出しても、わたしでない女性に出会い、幸せになって欲しいと、そう願うようになっていた。だからこそ、彼からのメールにはあえて「そうなんだ」「よかったわね」と、素っ気ない返事を繰り返した。なるべくなら、わたしのことを早く忘れてくれますように、と。けれど、彼からのメールは途切れなかった。わたしは、いけないと感じつつ、彼から届くメールを、しだいに心待ちにするようになっていた。

 最初にメールが届いた日から、さらに数ヶ月が過ぎた。


(まるで、会って話しているようなメールね。メッセージアプリのときより、心なしか表現が豊かで、柔らかいわ)


 彼は、感情表現が乏しい。言葉は足りているのだが、表情と体の動きが小さいのだ。いつだったか、お弁当を作って持っていった日も、実に品良くたいらげ、丁寧にお礼をされた。もっとオーバーにアクションをしてくれないと、気持ちが伝わらないわよ、と言うと、薄く微笑んでうなずくのだ。デートを重ね、思い切って手のつなぎかたを変えたときも、まったく動じていなかった。キスをするときだって、顔を赤らめたことなど一度もない。


(まったく。本当に愛してくれていたのかしら)


 彼の愛情に、今さらながら疑問が浮かんだが、それもいい思い出である。スマートフォンに残る彼を撮った画像を見て、頬がゆるんだ。


(未練たらたらじゃないの。明日、画像は消しましょうね)


 そう自分に言い聞かせる。ダイエットのように、今すぐできないところが、我ながら情けない。


(でも、彼はそんなわたしを認めてくれたわね。本当に、嫌になるくらい、わたしを理解してくれたもの)


 そうしてひたっているうちに、いつしか「会いたい」という気持ちが、ふっと湧いてきた。部屋の静けさが不安を呼び、ひとりでいる寂しさに襲われたのも手伝ったのだろう。女友達に電話でもすればよいところ、まっさきに浮かんだのは、彼の顔だった。今日は、彼からメールが届く日である。それまでに、あと数分もない。

 気を紛らわせたかったのか、この日は初めて、わたしからメールを送った。ただひと言、「会いたい」と。いつもすまし顔の彼を驚かせてやろうと、軽い冗談のつもりだった。だが、送信ボタンを押したあと、言葉ではあらわせない恐怖がやってきて、心が押しつぶされそうになった。画面がヘンにぼやけて見える。

 彼からの返信を目にする勇気がなく、慌ててスマートフォンの電源をオフにした。気持ちを落ち着かせようと、浴槽にぬるめのお湯をはり、ラベンダーの香りのする入浴剤を入れて、肩までつかった。人はみな、生まれる前は母の胎内で、液体に包まれている。そこには何の違和感もない。お風呂の中にいるのにそうとは感じられず、わたしはいつの間にか寝入ってしまった。

 湯の底が冷たくなったころ、わたしは目を覚ました。顔だけでなく、髪も乾き始めている。長時間の入浴ですっかりふやけた指を見て、苦笑してしまう。季節は秋にうつろい始め、湯船から出るとひやりとした。バスタオルで体を拭くと、体の芯からほのかな熱を感じる。のそのそと寝巻きに着替え、ドライヤーの風を受ける。短い髪は、いつもよりはやくに乾いた。

 部屋に戻り、コップに注いだ水で喉を潤す。お風呂に長いことつかっていたせいか、体は水分を欲し、喉を通る音はコップが空になるまで止まなかった。深く息を吐き、倒れるようにベッドへ体を投げ出した。柔らかな感触が、わたしを心地よく受け止めてくれる。そのとき、コトンと軽い音を立て、何かがフローリングに落ちた。


(明日の朝に、拾えばいいわ)


 視界がまどろみにふさぎかかる中、そんなふうに考えた。ベッドにある物が落ちたところで、今この瞬間に困ることなど何もない。明日は休日で、たとえそれが目覚まし時計だったとしても、仕事を気にする必要のない日だ。好きに鳴らしておけばいい。

 しかし、眠りに落ちる間際、わたしはその正体に気づいてしまう。嘘のように睡魔が去り、かわりにやってきたのは怖気だった。依存してはいないが、スマートフォンというものは、ずいぶん生活に根差している。手元にないと、不安になるものだ。このときのわたしには、むしろないほうが安心できたはずなのだが、習慣とは侮れず、わたしはそれを目で追い、手に取ってしまった。電源がついていない、真っ暗な画面。奥歯が音を立てて震え、端末がやけに重く感じた。


(あんなメールをしたのが、間違いだったのよ)


 たったの四文字。「会いたい」と、たったそれだけの感情から、後悔が激しい波となって押し寄せた。彼から返信が来ていたらどうしよう。別に読まなければいいだけの話だ。メッセージアプリではないのだから、わたしが読んだかどうかは、彼には伝わらない。覚悟を決め、端末の電源をオンにした。


(よかった……)


 画面にメール着信の通知はなかった。心の底から安堵し、その一方で、どこか寂しくも思った。彼からメールが届く時間は、とうにすぎている。呆れられたのかもしれない。遠距離恋愛は続かないだろうから、という理由で別れを考え、メールへの返信も素っ気ないわたしを、どうして彼が好きでいてくれるというのか。考えてみれば、新着メールがないのは、なんら不思議ではなかった。本当に、今度こそ、わたしたちの関係は終わったのだ。あのときと同じように、終わらせようとしたのは、わたしだ。

 涙は出なかった。泣く資格なんて、わたしにはあるはずもない。空虚のそのあとに、ようやく彼を忘れられる、と、清々しさが胸に広がる。湯上がりの体から熱が引き、夜気を感じた。


(今度こそ眠ろう)


 そうしてベッドにもぐりこんだそのとき、スマートフォンが短く振動した。枕もとに置いたそれを手に取ると、新しい一通のメールが届いていた。女友達にメールを使う者はいない。送り主は、ただひとり。彼である。


(大丈夫。気持ちの整理は、ついているから)


 彼はいつだって優しかった。別れるときだって、口角の少し上がった、不器用な笑顔で送り出してくれたのだ。今回もきっと、わたしを傷つけるような真似はしないだろう。メールアプリを起動すると、受信箱に「1」のバッジがついている。ためらわずに、わたしはそれを開いた。


(どうして──)


 そこには短く、ひと言だけ、こうあった。『はい』と。たった二文字、わたしが送った文字数の半分しかない。彼からのメールが、これほど少ない言葉で届いたのは、初めてである。けれど、わたしにはそれで十分だった。頭まで毛布にくるまり、胎児のような格好で端末を胸に抱く。堰を切ったように涙が流れ、わたしは声をあげて泣いた。


(会いたい。あなたに、会いたい)


 会いたい。その感情だけが、とめどなく溢れてくる。一緒に住んで体を許していれば、あのとき「別れたくない」と追いすがっていれば、最後のときに涙を流していれば、今すぐにでも抱きしめてもらえたのかもしれない。会いたいときに会えないことが、こんなにもつらいとは、思いもしなかった。それだけ、彼とわたしの距離は、はなれてしまっているのだ。

 

「会いたいよ、士郎くん……」 

 

 彼の名前を口にしたのは、いつ以来だろうか。名前を呼んだところで、会えるわけもないというのに。わたしは、消え入りそうな声で、何度も何度も彼の名前を繰り返した。

 そんなわたしの様子をまるで見ているかのように、遅れてもう一通、メールが届いた。視界が歪んで、画面の操作がおぼつかない。なんとかメールを開くと、そこにはこうあった。


『いのりさんの自宅から最寄りの駅名を教えてください。明日、会いに行くのに、移動時間と電車代を調べないといけませんので』


 ふふっと、鼻から息がもれた。涙はとめどなく流れていたが、心がふわりと軽くなる。


(泣いている女に、もっと気のきいたセリフを言えないものかしら。それに、どさくさに紛れて下の名前を呼ぶなんて、ずるいわ)


 下の名前で呼ばれたのは、これが初めてだ。あまりのうれしさに、体が宙に浮かび上がりそうだった。


(もう苗字でなんか、絶対に呼ばせてあげないわよ)


「そういえば」と、わたしがどこに住んでいるのか、彼に伝えていないのを思い出した。

 わたしはその夜、たくさんの思いを込めて、メールを送った。長い長い文章にして、彼を疲れさせてやりたい、と、そんないたずら心が湧きあがった。わたしからのメールを読むのはさぞ大変で、返事をするにも苦心するだろう。だが、彼ならきっと応えてくれる。そして、わたしが「待つ」のを楽しむだろうと予測して、電話はしてこないはずだ。


(ほらね。わたしだってあなたのこと、少しは読めるんだから)


 彼からの返信を待つ時間は、心が高鳴りっぱなしだった。「またあとでね」とわたしが送ったメールを最後に、やりとりは終わる。気づけば、カーテンの隙間から朝陽が射し込んでいた。

 想いが募り、今夜わたしたちは、もしかしたら肌を重ねるかもしれない。しかし、お互いに夜を徹してメールを送りあったあとだ。


(どこまで起きていられるかしら)


 ふたりそろって寝息を立てている姿が思い浮かぶ。


(今日のわたしは、流されやすいかもしれないわよ。しっかりリードしてよね、士郎くん)


 あと数時間もしたら会える彼に、そんな淡い期待を寄せる。わたしたちの恋は、距離になど負けてはいなかったのだ。



 おしまい

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

別れたあとの、その先に。 このはりと @konoharito

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ