冬の一日

宇土為 名

冬の一日

 その猫の名前はテオと言った。

 名前の由来は帝王のようにふてぶてしかったから、だそうだ。

 自分の息子が勝手に付けたのだと、老婦人は言った。

「本当にねえ、もうちょっと普通の名前がよかったんだけど。タマとかミケとか、雄なんだし太郎とかでもよかったのよねえ」

「はあ…」

 まあしかし、その猫はどう見てもタマではないし、太郎でも、ましてやミケでもない。大体三毛猫ではないのだ。

 サバトラだ。しかも白い部分が多い。

 賢そうな顔をしている。実際、こちらをチラリと見る態度は、大層ふてぶてしかった。

「おしゃれな名前ですねえって動物病院でもよく言われるのよ、あの動物病院知ってます?ほら、花屋さんの隣の」

「いえ、あいにくと」

 どうぞと勧められた茶を啜る。濃くてちょうどいい温度、美味しい、と思った。一緒に添えられた菓子には手をつけない。それはいつもの事だった。

「かかりつけなのよ、うちの子の、猫のほうね、勿論ね」

 おかしそうに老婦人が笑うので、大沢もつられて笑い声を零した。朗らかな彼女は、ねえ、と大沢の向かいに座る自分の夫にも笑顔を向ける。夫の方はにこりと微笑むだけで、終始寡黙な人だった。

「それで、今日は?」

 頃合いを見て、大沢は切り出した。今日は、この夫婦──関口夫婦との土地の売買契約が一区切りしてから1週間が経つ。急な呼び出しにひやりとしながらも駆け付けてみれば、通された客間には弁護士も司法書士の姿もなく、夫婦と猫が一匹いるきりで、拍子抜けした。茶を出され、関口婦人が大沢を相手に話し始めてから、かれこれもう──30分になる──話の核心が見えず、尻の座りが悪くなった。大体、猫の話しかしていないではないか?

 なんだか嫌な予感がする。

「いやあ、なにね、つまりだね」

 今まで全く喋らなかった関口氏がおもむろに口を開いた。

 ふっくらとした顔の、細められた目が優し気な色で大沢を見た。

 そして言った。

「大沢君、君、猫は好きかね?」

 サバトラの青い目がこちらを見ていた。

 それが9年前の事だった。


「……──」

 雨の朝、目が合った瞬間に、その時のことを思い出していた。


***


 裏口の扉を開けると、バックヤードはしんと静まり返っていた。店全体が静かに息を潜めるようだ。大沢は中に入って扉を閉めた。

 寒い。人気のないそこはしんしんと冷えていた。壁のスイッチを押してエアコンを入れた。

 こほこほと、奥の方から咳き込む声がする。

 さて、何か適当な箱──と、大沢は辺りを見回して、事務机の後ろの棚の上に段ボール箱を見つけた。幸い中には何も入っていなかった。

 しかし、何が入っていた箱だ?覚えていない。

 放置されていたそれを床に下し、手の中の毛玉をそこに入れた。

「ほら、よしよし…」

 丸まっていた毛玉はもぞもぞと手足を生やし、段ボール箱の底にふらつきながら立った。鼻を段ボールに擦りつけ、その匂いを嗅ぎはじめる。

 その様子を見て、大沢はほっと息をついた。

「ここにいて、いいね」

 そう言って小部屋の扉の前に立った。ノックしてみる。

 返事はない。

 3秒待ってから、そっとノブを回して中に入った。

「……浜さん?」

 声を掛ける。

 入ってすぐの正面の窓の下、ソファの上の布団の膨らみがかすかに動いた。

 その傍のオイルヒーターの電源のランプは赤く光っていた。どうやら昨夜、暖房を入れるだけの余裕はあったらしいと、ひとまず安心する。しかし布団からはみ出した足が随分と寒そうだ。

「……ん」

「あ」

 布団を掛けなおしてやろうとしたところで、くぐもった声がした。もぞもぞと布団の中から、浜村の額が覗いた。

「ごめん、起こしたかな」

 ぼさぼさの頭に話しかける。

「…いま、なんじ…?」

 掠れはてた声で聞かれて大沢は壁の時計を見た。

「8時13分。具合は?」

 ややあって、もぞもぞと布団が動いた。

「…あさ…、よる?」

「朝、今日は雨だ」

 窓の外を霧雨が降っている。冬の雨は寒い。冷たくて、氷のようで、こんな日に外にいたらきっと凍えてしまう。

 死んでいたかもしれなかったなと──大沢は思った。

 早く来て正解だった。

「江藤君の作ってくれたお粥があるけど食べるか?」

「………」

「食べるか?」

 よく聞こえなかったのでもう一度聞くと、もぞもぞと布団が動いて、たべる、と言ったように聞こえた。

「わかった」

 そう言って大沢は部屋を出た。



 アルバイトの江藤匡孝が昨日来た時には、既に浜村の具合は悪かった。江藤にはその時点で明日は休みにしようと告げ──なんにせよ浜村しか調理をする者がいないのだし──それならと江藤は浜村の為にお粥を作って帰った。

『何かあったら呼んでください』

 そう遠くない場所に住んでいる彼は心配そうにそう言ってくれた。

 ありがとう、と大沢は言った。

『大丈夫だよ、いつもの事だしね。もうちょっとすれば君もいるようになるから随分楽になるだろう』

 現在高校3年生の江藤は来年の春から調理師の専門学校に通うことが決まっている。この店のオーナーである大沢の援助で、この店でバイトをしながら勉強をし、卒業後は調理師としてここにいてもらう為だ。

 大沢は彼が気に入っていた。複雑な家庭の事情もあるようだったが、それを他人に見せない彼の芯の強さがとても好きだ。きっと、浜村もそうだ。彼が来れば本当に多くの意味でこの店は助かる。

 厨房で温め直したお粥を適当な皿に入れて、大沢は部屋に戻った。扉が薄く開いていて、中に入ると布団の上に黒と白の毛玉が乗っていた。いつの間にか箱の中から脱出していたらしい。

「こら──駄目だろう?」

 皿をソファの前の小さなテーブルに置いて、大沢は言った。

「どうやって入ったんだ?」

 毛玉を抱き上げようとすると、驚いた毛玉はするりと大沢の手をすり抜けて、布団から出ている浜村の顔に飛び乗った。

 あ。

「うご…っ」

 にゃあとそれは鳴いた。

「そんな顔しても駄目だ。おまえはこっち」

 もがく浜村の顔から毛玉──仔猫を引き剥がすと、浜村が何やら声を上げる。「だっ!」むずかる仔猫が鼻先に爪を立てたようだった。とりあえず仔猫を床に下し、布団に埋もれて顔を両手で押さえている浜村を覗き込んだ。

「平気か」

「ったあ…、それ、なんだ…」

 大沢は足先を嗅ぐ仔猫の頭を指先で撫でた。

 浜村がむくりと起き上がる。一応マスクはしていたようだが、顎の下にずり落ちてしまっていたそれを鬱陶しそうにむしり取った。

「さっき店の入り口に置かれてた」

 けほ、と浜村が咳をひとつした。

 横の窓の外を見る。

「…こんな日に?」雨じゃないかと浜村は言った。

 大沢は段ボール箱を部屋の中に持ってきた。

 仔猫をすくい上げ、箱の中に入れる。

 確かにそう、外は雨だ。店の入り口に置かれていた小さな靴箱は、大沢が見つけた時、雨に濡れて崩れかけていた。

 にゃあと仔猫が鳴いた。

「そんなものだ」

 テーブルの上の皿を浜村に渡した。

 部屋に備え付けの小さな冷蔵庫からミネラルウォーターを出し、グラスに入れ、テーブルに置いた。

 椅子を引き寄せ、ソファの傍に座った。

 浜村がお粥をスプーンで掬って食べる。口に入れた瞬間のその表情だけで、それが美味しいのだと大沢には分かった。

「少しはいいか?」

「まあまあかな」

 おそるおそる食べるようだったそれは次第に早くなり、最後には掻き込むようにして皿の中身を平らげた。ごくりと水を飲み、浜村が息をついたところで大沢は言った。

「おかわりは?」

 いや、と浜村は少し考えてから首を振った。大沢はその手から皿を受け取り立ち上がった。

「僕は仕事をするから、寝てればいい」

 皿と仔猫の入った段ボール箱を抱えて部屋を出て行く大沢に、浜村は声を掛けた。

「おまえは、メシは?」

 戸口で振り向いて大沢は言った。

「食べるよ」

 後でね、と続けて、大沢は扉を閉めた。



 バックヤードの事務机で、溜まっていた経理関連の仕事を片っ端から片付けていると、店の電話が鳴った。大沢の足先にじゃれついていた仔猫がにゃあと鳴く。

「はい、カフェ食堂コンタットです」

 本来なら留守電に対応させるのだが、あいにくと今日は金曜日で通常営業日だった。臨時休業にしたのはこちらの都合なので、ランチの予約など様々な電話にも大沢が対応しなければならない。

 ちらりと腕時計を見る。既に昼を回っていた。

 いつのまに、と大沢は思った。

 もしもし、と電話の向こうの声が遠い。

「すみません、お電話少し遠いようですが」

 やや沈黙があって、がさがさと紙が擦れるような音の後に、聞き慣れた声がした。「もしもし?吉井ですけど…大沢さん?」

 ああ、と大沢は思った。

「やあ、どうした?」

 吉井は江藤の同級生だ。一度江藤がいない時にたまたま江藤に用があって店を訪れた吉井を、切羽詰まっていた浜村が強引に手伝わせたことがきっかけで、それからも手が足りない時に店を手伝ってもらっている。いわば補欠のバイトだ。大柄で手先が不器用だが、何かとよく気がつく彼を浜村は江藤と同じくらい気に入っているようだった。

 時間から察するに、今は昼休みなのだろう。

「何か用か?」

 伝票をめくりながら大沢は言った。

「いや…匡孝から浜村さんが風邪引いたって聞いたからさ」

 吉井の言葉が崩したふうになるが、大沢は特に気にしなかった。

「どうなのかと思って」

「ああ…うん、大丈夫だよ。いつもの事だ。寝てれば治る」

「そうなの?」

 そうなの?

 その言い方が気になってふと大沢が黙り込むと、吉井が続けた。

「ポカリとかちゃんと飲ませた?あのさ、水じゃ駄目だよ、あと病院行かねえならリポとかビタミンとか、買ってあるの?」

「え、…は?」

 なんだかやたらとカタカナやら聞き慣れない言葉を耳にして頭の処理能力が追い付かず、大沢は聞き返した。今なんて言った?

 さすがにまあ、ビタミンは分かるが。

 ぽかり?りぽ?

「…もう一回いいか?」

「だから、ポカリとリポと、あとビタミン…」

 ふむ、と大沢は思案した。どうやらがカタカナらしいと推察する。

 ポカリとリポ、と目の前にあったメモ用紙に書き込む。

「それは?薬局で買うのか?どこでもある?」

「……………」

 なぜそこで黙り込む?

 大沢は待った。

 机の上のパソコンがスリープモードに切り替わる。

 はあ、と吉井のため息が電話から聞こえた。

「…わーかった、オレが後で買って持って行きます。学校終わってから行くよ」

 なるほど、そうしてもらえると有り難い。

 そうか、と大沢は言った。

「ありがとう。じゃあ領収書をもらってきて」

「了解。裏口開けといて」

「ああ」

 かすかに吉井が笑ったように聞こえて、電話は切れた。



 そのすぐあとに今度は江藤からも連絡をもらった。

 大丈夫だよ、と言うと、彼は何かいるものはないかと聞いてきたので、少し考えてから、大沢は後で吉井が来ると言った。

「夏生が?」

 なつき、は吉井の名前だ。

「ああ、何か買ってくるそうだよ。君は?今は休み時間か?」

「そうです。実は今日様子見に行こうと思ってたけど、行けなくなって、いるものあれば夏生に頼もうって思ってたんだけど」

 大沢は笑った。

「吉井君の方が早かったわけだ。こっちは気にしなくていいよ。君が作ってくれたお粥も食べたしね。寝てれば治るよ」

 吉井に言ったことをそのまま繰り返して、また明日、と大沢は言って電話を終えた。

 立ち上がって小部屋へと行く。様子を見ようと中を覗くと、こほこほと浜村は布団のなかで咳をしていた。

「浜さん?」

 傍に行って、大沢は浜村に呼びかけた。返事はなく、顔の半分までも布団の中に埋もれるようにして眠っていた。

 大沢はその額に手のひらを当てた。

 熱はそんなに高くはない。

 起きたらまた何か食べたほうがいいだろうなと思いながら、大沢はテーブルの上のグラスに水を注ぎ足してから、そっと部屋を出た。



 パソコンにデータや数字をひたすらに打ち込んでいると、あっという間に時間は過ぎてゆき、気がつくともう17時近かった。

 ん、と椅子の上で伸びをして、大沢は机の上の書類をざっとまとめた。膝の上で眠る仔猫をそっと抱え上げて、足下の段ボール箱に入れた。そのまま床に下ろしてもよかったが、バックヤードには仔猫が入り込める隙間があちこちにあるので、今はこの中にいてもらったほうがいい。さっき古いタオルを敷いてやったので、居心地はだいぶん良くなっただろう。

 小部屋の扉を開けた。

 薄暗い部屋に、ブラインドの隙間から曇り空の淡い光が差し、浜村の形に膨らんだ布団の上に落ちていた。外はまだ雨が降っているようだ。

 ブラインドを少しだけ引き上げる。

 霧雨だ。随分寒いな。

 もう日も暮れる。

 雪になるだろうか。

「……ン」

 大沢は浜村の上に屈みこんだ。「起きたか?」

 布団から半分だけ出た顔が声のほうを向いた。薄く目が開く。

「?ん……」

「何か食べるか?」

 浜村は顰めた顔で大沢を見上げていた。大沢はまた浜村の額に手を当ててみる。

 ぴく、と浜村が首を竦めた気がした。

 何だ?

 が、構わず押し当てる。

「微熱」

「……ず」

 みず、と聞こえた。テーブルの上のグラスは空になっていた。

 冷蔵庫を開け、水を注いで起き上がった浜村に渡した。

 一気に飲み干したグラスを返された。大沢はもう一度注いで手渡すと、浜村はまた飲み込むようにしてグラスをあおった。

 水を飲み干した浜村がふう、と息を吐いた。

「もういいか?」

 浜村は頷いた。

「…おまえは?何か食べたのか?」

 そう言われて、はた、と大沢は考える。そう言えば何も食べていなかったな、と今さらながらに思い出す。空腹を感じていた。

「後で食べるよ」

「後でって…今何時なんだ…?」

「16時半」

「あのなあ……」

 浜村が呆れかえった声を上げた。大沢はその手からグラスを取り上げた。

「大丈夫、後でちゃんと食べるよ。君は?何か食べないか?」

「いや…もうちょっと寝る」

「それがいいな」

 じゃあ隣にいるから、と大沢は言って、横になった浜村がじっと訴えるように見上げてくる姿に気づき、苦笑した。

 いつまで経っても浜村は──今も、心配ばかりしている。自分の事も辛いだろうに。

「僕のことはいいよ」

 何か言いたそうに浜村が口を開きかけた時、裏口が開く音がした。

 浜村が音の方に顔を向けたので、大沢は教えた。

「吉井君だよ」

 大沢さーん、と呼ぶ声がして、大沢は部屋を出た。

「ポカリとビタミン剤買って来た…うわっ!」

 声を上げた吉井の足下を見てみれば、仔猫がじゃれついている。また箱から脱出したらしい。

「ああ悪い──おいで」

 近づいて吉井の足の間に座る仔猫を抱き上げる。今朝店の入り口に置かれていたと説明しながら、飛び退いた吉井の様子に、大沢は首を傾げた。

「猫が嫌いなのか?」

 とたんに吉井はなぜかムッとしたように押し黙り、手にしていたレジ袋をどさっと事務机の上に置いた。細かな雨の粒がポリ袋の表面にたくさんついている。見れば吉井のコートの肩にも、その下に見える制服の襟元、髪の先にも。

「いーや、びっくりしただけだよ。はいこれ領収書」

「ありがとう」

 受け取るときに指先が触れる。ひどく冷たい指をしていた。

「どうっすか、具合」

 問われて、大沢ははっとして、頷いた。仔猫の頭を撫でる。

「ああ…いいんじゃないか?」

「いいんじゃないかって、あんたねえ…」

 呆れたような顔をして、吉井は部屋を覗きに行った。戸口から中を覗き込んで、ひらりと中に手を振ってみせる。一言二言浜村と何か──小声で話している。…なんで小声だ?

 大沢はレジ袋の中を見た。なるほど、これが…ポカリとリポか。

 扉を閉めて吉井はこちらを振り向いた。

「換気しなきゃ駄目ですよ、飯食いました?」

 浜村の事だろうと、江藤君が作ってくれたのがあるよと答えた。

 随分と浜村は慕われているようだと思った。

「君は?今から予備校か?」

 吉井は大学進学の為、春から予備校に通い出したらしい。彼らの通う高校は随分とのんびりしたところのようで、今の授業だけでは吉井の希望とする大学には少し物足りない──ようだ。彼もまた、今度の春には卒業していくのだ。

「いや今日は休みですよ」

 じゃあ、と大沢は切り出した。何となく別れがたい気がした。買い物をしてきて貰ったお礼もしたかったし。

「何か食べていくか?僕も食べるよ」

 ついでのように言うと、吉井は大沢を見下ろした。

「何かって?なんかあんの?」

 あるに決まっている。

 ここをどこだと思っているのか?

 あるよ、と大沢は言った。


 と言っても自分で何かを作ってやるわけでもないので、大沢はいつものように、厨房の冷凍庫の扉を開けて中を探った。中には浜村が大沢用に作り置いてくれたものが詰まっている。

 とりあえず片っ端から掴んでは出して、吉井が食べそうなもののメニュー名を読み上げていく。

「カレーとかグラタンとか…」赤い塊りを掴んでパスタソースかと思ったが、それはトマトスープだった。

「あ、こっちはトマトスープか…何にする?」

 男子高校生が食べそうなものなんてカレーぐらいしか思いつかなくて、大沢は本人に聞くことにした。

 傍らでじっと冷凍庫の中身を見ていた吉井は、大沢が手に持っているトマトスープを取り、中から同じものをもうひとつ掴み出して、扉を閉めた。

「これにして、オレがパン焼きますよ。パンのストックもあるんだろ?サンドイッチでいい?」

「え?」

 薄暗い厨房、開け放した扉の向こうからの明かりを背に受けて、吉井は大沢を見て事もなげに言った。驚いて大沢はその顔をまじまじと見上げる。

「君作れるんだね」

 くすっと口の端を持ち上げて吉井は笑った。

「うち共働きなんでね」

 吉井の家はクリーニング屋だと浜村が言っていた事を思い出す。なるほど。

 勝手知ったるという感じで、吉井はしゃがみ込んで冷凍庫の下段を開けて中を探り始めた。そこにパンのストックはあるはずだ。多分。

 きっと。

 大沢はあまり自分でそこを開けたことがないなと思った。

「大沢さんさあ…」吉井が冷凍庫に頭を突っ込んだまま言った。なんだか呆れられたような気がしたまま、大沢は吉井を見下ろした。

「添加物が食べられないんだろ?」

 大沢は目を瞠った。

 ふっと吉井が顔を上げて──目が合う。

 驚いたな。

 腕の中の仔猫が鳴いた。

 大沢は自分が微笑んでいるのが分かった。

 吉井も笑みを浮かべていた。

 猫の名前を付けたのかと不意に聞かれ、秘密を解き明かしたご褒美とばかりに、君が付けたらいいよと大沢は言った。


 15分もかからずに出来上がったそれは、いい匂いを漂わせ事務机の上に供された。トマトスープだと思っていたのは、どうやらミネストローネだったらしい。それと、吉井が冷蔵庫のストックで作り上げたチキンハムのサンドイッチ。あたたかな紅茶。

 それを向き合って食べる。

「いただきます」

「どーぞ、オレも」

 サンドイッチはマスタードが効いていて美味しかった。マヨネーズではなくバターで。チーズも入っている。ミネストローネは浜村の味だ。

「おいしい。上手だな」

 そう?と吉井が言った。

「うちはさ、両親ともに忙しい人達だから、メシはオレの担当なんだよ」

 そうか、と大沢は頷いた。「君は愛されてるんだな」

 そう言うと、吉井はえ?と言う顔をして大沢を見た。

「なんで?」

 膝の上の仔猫がぴょんと跳ね、床に降り立った。小さな皿に入れてやった水を飲みに行く。大沢はそれを目で追いながら言った。

「大事にされてると思うから、君の作るものは美味しいんだよ」

 吉井はサンドイッチを咥えたまま、きょとんとしていた。

「オレ適当に作ってるだけですよ」

 大沢はサンドイッチをひと口かじった。

 思えばこれが、今日初めてのまともな食事だった。

 自分でも気がつかないうちに笑みをこぼしていた。

「本当に適当でいいと思う人はこんなふうに丁寧に食事をしようとは思わないよ」

「丁寧…?」

 よく分からないような声で吉井が呟く。自分の作ったサンドイッチをじっと見つめていた。

「どうかな…あの人達フツーに何にも言わないで食べてるけど?…丁寧?」

 どこが?という問いには大沢は答えなかった。

「丁寧で美味しい。こんなに美味しいものを出されたら、幸せに決まってる」

 そう言って吉井を見ると、吉井は目をまん丸にして大沢を見ていた。まるで、初めて見る変な──地球外生命体でも見るみたいに。

「何?」

「は?いや……、なんか──」

 何か言おうとしている。が、ややあってはあ、と吉井はため息をついて、食事を再開した。

 なんか、の先が続くことは結局なかった。

 食事を終え、片付けも吉井がやってしまうというので、大沢は任せる事にした。

「バイト代にケーキでも持って帰るか?」

 皿を洗いながら吉井は笑った。

「何のバイト代?」

「僕の食事の世話」

「ははっ、なにそれ」

 きゅ、と蛇口を止めて吉井は手を拭きながら厨房の椅子に座る大沢を振り返った。

「大沢さん、下の名前なんていうの?」

 大沢はきょとんとする。

「僕?ちゆきだよ。千雪、千の雪って書くんだ」

 確かめるように吉井は言う。ちゆき。

 大沢は顔を顰めた。「女の子みたいで嫌なんだよ、もう呼ぶんじゃない」

「はは」

 吉井は声を上げて笑った。

「雪の日に生まれたとか?」

「そう、2月生まれ」と大沢は素っ気なく返した。



 じゃあ帰るから、と言って帰り支度をした吉井が裏口で振り向いたとき、大沢は呼び止めた。

「これ」

 ケーキの箱の入った袋を手渡した。さっき用意しておいたものだ。「ご家族と食べて」

 驚いたように受け取って、吉井は嬉しそうにはにかんだ。

「ありがとう」

「こちらこそ、今日は助かったよ。買い物もありがとう」

「オレ役に立つだろ」

 姿に似合わず妙に子供っぽいその言い草に大沢が笑うと、吉井は大沢の腕の中で眠る仔猫に手を伸ばした。

「名前、決めたよ」

 大沢は吉井を見上げた。

小雨こさめ

 こさめ?

 吉井が笑って大沢を見ている。目が合って、ああ、と大沢は思った。

「今日が雨だから?」

「そうだよ。雨の日に拾われたから」

 仔猫の頭を撫でて、吉井は帰って行った。


***


 暗い部屋の中、小さな間接照明のほのかな明かり。ソファの傍で本を読んでいた大沢は、布団の中で身じろぐ気配を感じた。

 浜村を覗き込んだ。

「起きたか?」

 布団の中から出ている目が、眩しそうに瞬いた。

「…何時?」

「21時すぎ。具合はどうだ?」

「吉井は?」

「もう帰ったよ」

 両手のひらでごしごしと自分の顔を擦って、浜村はゆっくりと起き上がった。

 ふあ、と大きく伸びをする。

「んん、だいぶん抜けた…」

 確かに、今朝よりも随分と顔色がいい。

「寝てたら治ったな」

「ま、いつものことだからな」

 浜村の体調不良の原因は、一年間の溜まりに溜まった疲れとそれに伴う寝不足だ。いつものことなのだ。

 大沢の足の間から黒と白のハチワレの仔猫が、布団によじ登ろうと飛びかかる。それを浜村は見て、笑った。

「元気だな、名前は?」

「小雨」

「こさめ?」

 不思議そうな浜村に大沢は笑った。「吉井君が付けたんだ。今日が雨だから」

 布団に入り込もうと格闘する小雨を浜村がひょいと抱き上げて、胸元に抱え込んだ。じたばたと暴れることもなく、小雨は居心地が良さそうにその中で丸くなる。

「何か食べるか?」

 浜村が頷いたので、大沢は小雨と浜村を残し部屋を出た。厨房で江藤が作ってくれたお粥を再び温める。小雨には、テオの為に買っておいた猫缶を開け──老猫用だけれど、まあいけるかもと思いつつ──自分用の夜食に鍋に残っていたミネストローネを皿に入れて部屋へと戻った。

 ソファの上で、仔猫と大男が仲良く遊んでいる。テーブルにトレイを置いて、小雨のものは床に下ろした。

「ほら、こっち」

 小雨を持ち上げて皿の前に置く。

 大沢は椅子に座り、浜村にお粥の入った器を渡した。

 小雨がゆっくりと皿の中のものを食べている。どうやら大丈夫そうだと安堵して、大沢もスープを掬った。

「吉井に名前教えたのか?」

 大沢が目を上げると、浜村はおかしそうな顔でこちらを見ていた。

「小雨って、千雪と同じだろ?」

 大沢は肩を竦めた。

 浜村は笑った。

「そういえば…吉井君が僕の秘密に気づいたよ」

 ああ、と浜村は言った。

「結構早かったな。江藤はこないだ気づいたみたいだったけどな」

「そうだね」

 でも江藤は気がついていても、大沢に聞いては来なかった。大沢が自分から言うまで、知っていると知られてはならないと思っているようで、そこが彼らしいと大沢は思い出して苦笑する。

 いい意味で吉井とはまるで違う。

 吉井はまっすぐに向かってくる。

 迷いもせずに。それを少し羨ましいと思う。

「小雨とは引き籠れそうにないな」

 その言葉に、大沢はもういない愛猫を思う。その記憶はいつもこの部屋の中、ふたりきりの世界、人見知りの激しかった愛猫を大沢はこの小さな箱の中で守ってきた。

 けれど、守られていたのは自分の方だと大沢は本当は分かっていた。テオはずっと、人が苦手な大沢の為にその傍を片時も離れずにいてくれたのだ。

「こーら」

 猫缶に興味をなくした小雨が、ソファから下ろした浜村の足先を齧っている。大して痛くもないのか、浜村は好きにさせていて、その姿がとても嬉しかった。懐かしい光景──テオはいつも、なぜか浜村に喧嘩を売っていた。

 帝王というよりは騎士のように、大沢の領域に入るものを排除しようとしていた。

 なのに、最後は大沢を置いて出て行ってしまった。

 賢い猫だ。自分の死期を悟っていたのだろう。

 見つけた時にはもう、小さく冷たい体になっていた。

 ちょうど一年前のことだ。

 大沢は小雨の背を撫でた。

「──彬良あきらさん」

 ぶはっ!

 浜村が目を剥く。

「何⁉︎急にっ」慌てたように言う。

 うん、と大沢は言った。

「お互い名前を呼ばないって決めたのはおまえだろうが」

 大沢は笑った。

 出会った頃からの約束。

 浜村に、千雪、千雪と呼ばれるたびにくすぐったくて、名前で呼び合うことを禁止した。

『ちゆき』

 確かめるように言った吉井の声が蘇る。

 心の中がふと温まる。

「まあ…たまにはいいかと思って」

 と大沢が言うと、浜村がじっと大沢を見て、微笑んだ。

「千雪がねえ…あの千雪が」

「だからって無駄に呼ぶな」

 にこにこと浜村は笑っている。

 なんだか嬉しそうだった。

 その顔を見て、明日はもう大丈夫そうだと大沢は思った。

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