チルドに捧ぐ

木古おうみ

殺伐感情戦線 第六回:お題『冷蔵庫』

 冷蔵庫を開けると、完璧な笑顔があった。


 ジルスチュアートを塗った桜色の唇が動く。

「おかえり、摩耶ちゃん」

 私は扉を閉める。

 蝿の羽音に似た駆動音が小さく鳴って、明かりもつけていないキッチンに消える。



 もう一度、冷蔵庫を開ける。


 三五十ミリリットルのビール缶と、半分だけ使って腐らせたシソの葉の入ったビニールの間に、小暮チカのやはり顔がある。

 もちろん生首なんかじゃない。


 駅の裏手の暇そうな大学生がレジを打つスーパーで買った、三割引の豚バラ肉のパック。

 赤い汁が染み出したラップの上に、引き伸ばした一枚の写真を貼りつけただけ。


 加工も修正もできない社用のデジタルカメラで撮ったのに、恐ろしいほど写りがいい。

 白い光の差す会社のエントランスで、自分が開発に携わったクリスマス限定商品を手に、白いスーツで微笑んでいる。

 社用の会報の一面に載った写真を拡大して、二十枚コピーした。普段からキーボードとコピー機の往復をしているから、白昼堂々とやっても不審がる人間は誰もいなかった。


 小暮チカ。

 下の名前の漢字は知らない。二十五歳。経済学部卒。事務で眼痛をこらえながら毎日パソコンに向かう私とは違う、花形の企画開発部のエース。

 社員食堂では同僚に囲まれているか、ひとりのときは桜貝のような爪でスマートフォンをいじり、たまに文庫本を読んでいる。先月見たときに読んでいたのは、小川洋子の『ミーナの行進』。




「摩耶ちゃん、お昼は何食べたの」

 背後で顔の印象で想像するよりわずかに低い声がする。社内でこんなに親しげに話しかけられたことはない。私の下の名前も知らないはずだ。


「パスタサラダ。駅のコンビニで売ってるやつ」

 幻聴に応える私の声は暗い。結局何もとらずに冷蔵庫を閉め、百均で買った灰皿の上に乗せた煙草とライターを取って、ソファに座った。


「それで、また吐いたんだ?」

 声の方を見る。小暮チカが私を見ている。

 煙草に火をつけると、誰もいないリビングを警報ランプのような赤が一瞬照らした。


「まぁね……」

 長い睫毛を伏せると全てが真っ黒に染まったように見える眼で、小暮チカは笑う。

 耐えきれないと逃げるように煙草の煙だけが細く伸びた。



 食事の習慣に吐くことが組み込まれたのはいつからだっただろうか。


 二年前に新卒で入社して、その年の九月にはもう社内のトイレで吐いていた覚えがある。

 白い床に跪いて、便器を抱える。吐きだこができないよう、手の甲まで喉に突っ込まず、口腔の奥を指で押して吐くのがやり方だ。


 そのときはちょうどタンクの上に貼られた女性用相談窓口のステッカーに見下ろされる形になる。

「何でも聞いてくださいね」とバスガイドのように片手を曲げた、簡素なイラストと目が合うのがどうしようもなく苛ついて、眼球の部分を爪で掻いた。

 私にしか知らないその傷はまだ残っている。


 小暮チカに遭ったのは、入社一年目の四月だった。



 身体中の水分を絞り出して、ミイラのような気分で個室を開くと、完璧な顔があった。

「大丈夫ですか」


 陶器の肌と、冷たい柑橘系の香り。

 心配と、聞き耳を立てていたわけではないという弁解を並べる小暮チカの背後の洗面台に、雑誌の付録の化粧ポーチとロクシタンのハンドクリームが散らばっているのが見えた。


「私も飲み会とかで、気分が悪くなったとき用に持ち歩いてるんです」

 小暮チカはそう言って、小分けにパッキングされた錠剤を私に手渡す。受け取るときに触れた冷たい指先は、自分と同じ素材でできているとは思えなかった。

 空になった胃の底に、何年振りかの空腹を感じた。



「あのときの薬、まだ飲んでないでしょ」

 白い蛇のような腕が背もたれから伸びてくる。幻覚は、生々しい夏蜜柑の香りをはらんでいた。

「胃が悪いわけじゃないの」


「じゃあ、何で吐くの」

 次の日、小暮チカを見ながら同僚ときつねうどんを社員食堂で昼食をとった。白い咽喉の動きが、草食獣の引き締まった肢に似ていた。

 昼休みが終わっても、吐き気はしなかった。


「食べたことへの罪悪感で、戻さなきゃと思うの……」

 心療内科で言われたことを反芻する。

 会えなかった日は、空腹感もなく、嘔吐も元通りに催した。小暮チカはこの世で唯一私がまだ食べられるものだ。

 スーパーで食肉のパックに生前の和牛が牧場に佇む写真が貼られているのを見て、帰って食べづらいだろうと思うのと同時に別の考えが浮かび、翌日私は社報に載った彼女の顔面を二十枚擦った。



 罪悪感、と頭の中の小暮チカが嘲るように繰り返す。

「もっと悪いことしてるのに……」

 彼女の悪意の吐き出し方を私は知らない。

 そこまでの興味を向けられるほどの仲ではなかった。

 幻覚に幻聴だ、何もかも。


「薬だって、本当はわざと飲まなかったんでしょ。たったひとつの私との繋がりだから」

 白い手が机の上をなぞり、心療内科の処方箋をつまんだ。

「本当に気持ち悪い……」

 包みの中から錠剤が溢れた。鼓膜をねぶるような声が耳元で囁く。

「ねえ、写真じゃ我慢しきれなかったんでしょ」

 耳鳴りが鋭く尖る。シンクに水滴がひとつ、垂れる音がした。

 煙草を灰皿でもみ消した。


 もう二週間も小暮チカを会社で見ていない。

「当たり前でしょ、摩耶ちゃんが殺したんだから」

 写真と同じ白いスーツの尻をソファの背もたれに乗せた幻想が笑う。


「そんなわけない」

 ただ、古いユニットバスのシャワーカーテンについた汚れが血の跡のように見えただけ。それを見た精神の弱った私が、妄想に歯止めをかけられなくなっただけ。

「じゃあ、お風呂場見に行ける?」


 頭ではわかっているのに、カーテンを開けることができず、もう二週間も最寄駅のネットカフェのシャワーで済ませている。


「ねえ、冷蔵庫の中の肉はどこで買ったの?」

 最近スーパーに行った覚えがない。部屋全体に冷たいすえた匂いが広がっている気がする。


「チルドの中は見た?」

 現実の音が空間を切り裂いた。

 心臓が止まるかと思う。

 インターホンは続けて二度押された。



 スコープから外を覗くと、廊下の射抜くような眩しさに目が痛む。非常灯の逆光になって、作業服の男が立っていた。


「すみません、ここのマンションの警備の。夜勤の者ですけれど」

 返事をしなくても気配を感じ取ったのか、男が話し出す。声は想像より老いている。


「こんな時間にすみません。最近田淵さんのね、この階で異臭がするって言うんで、何か知りませんか」

 廊下に満ちる光の中で細かい埃が雪のように舞っていた。

「知りません」

 男が一歩脇にそれると、光の焦点が外れ、片方まぶたの垂れ下がった中年らしい顔が見えた。


「ちょっと開けてもらえます」

 振り返ったキッチンは迷宮のように暗く、当たり前に誰もいない。

「開けません、もう夜だから」

 男は表情を変えずに一度鼻に手をやった。

 単に鼻炎か何かなのか。それとも苦情の原因になった異臭を感じ取ったのか。


「まぁ、ゴミ出しはちゃんとしてくださいね。田淵さんが原因じゃないとはわかってますけれど」

 男は数歩進んで一度振り返ってから、他の部屋には寄らずに階段を降りていった。



「よかったね、開けなくて」

 リビングに戻ると、小暮チカが何も映らないテレビを眺めながら頬杖をついている。

「別に不審者じゃない。管理人だから……」

 裸足の爪先でフローリングに円を描きながら小暮チカが言う。

「被害者じゃなく、加害者だもんね」


 彼女が、座り直した私の背後に立つ。煙草に火をつける。口に何かを入れたという免罪符には都合がいい。


「明日になったら、風呂場のカーテンを開ける。そうしたらこんなことは全部終わり」

 煙と一緒に吐き出すと、小暮チカが笑う。

「摩耶ちゃんにはできないよ」

「そうしたら、小暮さん、あなたも全部消える」

「無理だよ」

「幻聴だもの」

「違うよ」

 私は振り返って、暗がりに溶けるような小暮チカの瞳を見る。


「じゃあ、下の名前。どういう字なのか教えてよ」

 彼女は窓から差し込む夜光を吸って水銀灯のように揺れる瞳孔を歪めて笑った。

「私を殺して食べるような娘には……絶対に教えない」


 遠くでサイレンの音がする。

「摩耶ちゃんを捕まえに来たんじゃない」

「捕まらない。誰も殺してないもの」

「じゃあ、チルド開けてみなよ」

 私は答えずに、机に灰を落とした。蛆虫のような形だ。


「死刑になるかもね」

「ならない。仮に殺しててもひとりじゃ死刑は無理よ」

「わからないよ」

 小暮チカが好きで集めているというウェッジウッドの食器に似た、白く繊細な腕が私の首元に回る。

「残虐な事件だったらひとりでもなるもん。同僚を殺して、食べたなんて……」

 笑うたびに震える皮膚の冷たさと重さが心地いい。タンパク質の密度だ。


 サイレンが近くなる。

「アメリカじゃ死刑になる前に最後の晩餐を選べるんだって。摩耶ちゃんなら何食べたい?」

 私は灰皿に煙草を置いて立ち上がる。


 降り出した雨がガラスのような粒をつける窓のところまで歩いて、階下を見下ろした。

 闇の中、街灯で転々と浮き上がる車道のアスファルトにパトカーの影は見えない。


「教えない、絶対に」

 呟いてカーテンを引く瞬間、一条の赤い光が部屋の中に飛び込んできて、指し示すかのように冷蔵庫を赤く染めた。

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