とりかえる
第三十二王女の部屋には、夜になると星を飲み干した虫たちが現れた。中空を飛ぶ蜻蛉の羽には千を超える翠の星が瞬いていて、王女は彼を自由に泳がせたがったが、彼はいつも気がつくと王女の髪の上に戻ってきていた。
私はある冬のことを思った。
レピの靴の中には寒くなるといつもサソリが死んでいた。それを見つけると、すっかり燃やしきってしまうまで、私はサソリのそばを離れることを許されなかった。
サソリは一晩をかけて燃え、爆ぜる炎が肌を斑に焼いた。
「スカーニャ王女。もうお休みになられてはいかがですか?」
「どうして?」
「お体に障ります」
「まだお話をしていたいわ」
王女はパレードの話を続けた。記憶は宝石のように次々取り出されていった。その中に、時折異国の汗の匂いが混じることがあった。第二王女との冒険の記憶を振り返るときの匂いだ。
レピは第二王女に呪いをかけ続けていた。第二王女は第三十二王女を寵愛していたのだ。第二王女は褐色の肌と、逞しい四肢と、どのような獣も眠るように殺してしまう弓の腕を持っていた。第三十二王女の姿をそっくり真似ていたレピは、どちらかといえばこの第二王女に似ていた。
第三十二王女は、私の肩にそっくり自分の体重を乗せ、中空の記憶を眺めた。
「シーラ王女もよくこうして私のお話を聞いてくださいました」
それが第二王女の名前だった。私がその名を口にしてしまったとき、レピはお気に入りの磁器を床に叩き付け、割れた破片で私の背中に絵を描いた。お前がお前のことを忘れないようにと、熱心に肌を切りつけた。
私の背中には首だけになった鳥が住んでいる。
第三十二王女は再び蜻蛉を外に泳がせようと、彼を天井へ放った。彼の羽の内にある星々は輝きを増し、今や一つの瞬きとなっている。
「あなたの名前を呼ぶことができるとよいのだけれど」
第三十二王女はそう呟き、私の斑に焼かれた腕の肌を触った。
「名前はありません」
「では、あなたのお話を聞かせて」
「なぜですか」
「なにかよい名前が産まれるかもしれない」
名の産まれる場所を私は知らない。レピが産まれた日には、空から鱗が降ったという。それは肌に触れるとすぐに溶け、地上に長く留まらない。レピの小さな爪はその鱗にそっくりだと、彼女の両親は薪を燃やし始める時分になると、きまってその話をした。
この世からなくならない鱗。
レピのその爪を、樹木の流した血で塗りたくるのが、私の朝一番の仕事だった。
「話すことがありません」
第三十二王女は取り合わず、私の指先を弄んだ。
「朝は何を見るの? 起きたときに目の前にあるものはなに?」
それは冷えた壁だ。レピの足下で、私は座って眠る。窓のない壁に向かわなくてはならない。窓を見上げることは決して許されなかった。窓は、レピの頭上にある。レピは朝目覚めると必ず、窓から外を見た。
「窓の外を見ます」
私が答えると、第三十二王女は余計に体重をかけた。甘い髪が腕にかかった。
「窓の外には何がある?」
「空から鱗が降っています」
私の記憶を、第三十二王女は中空に浮かべてうっとりと眺めた。
王女は私をレピと名付けた。
第三十二王女の肌を撫でさすると、その下に流れる色水の体液がさっと発光する。大抵は天色で、時々は鴇色だった。内腿だけは、いつも紅色に灯った。王女の肌はいよいよ水を多く含んで指先に吸い付き、産まれたばかりの赤子のように清く純粋であった。
王族の死は生の絶頂と等しい。
皆、美しさの中で死ぬのだ。
レピの肌は生きれば生きるほど醜く汚れた。左の足の付け根にある禍根のような赤い淀みを、レピは毎晩私に舐めさせた。それが一日の最後の仕事であった。
「ねえ、レピ、お話をして」
王女は淀む所の一つもない体でつぶやいた。
私は話し始めた。
「王族のパレードを見たのは五つの時でした。私は父の肩の上にいて、黒々とした頭たちが波のように蠢くのを見ていました。あまり面白くありませんでした。けれど、あるとき遙か遠くに瞬きが見えた。あなたの乗る輿です。あなたは、微笑まれた。私に向かって」
その瞬間からレピの生命が変わった。頭上の大存在の加護を得て、すべてが輝くために動き始めた。と、レピはいつでも私に語って聞かせた。その日のことを、何度でも。
「その夜、私の元に鳥が降り立ちました」
「鳥? それは空を飛ぶ獣ね」
「はい。しかしそれは翼のない鳥です。私の町では、翼のない鳥を家に留め置く習慣があります。私はその鳥を傍に置いた」
「嬉しかったのね」
「そうなのでしょうか」
首輪は息を少しずつ止めていく器具だった。レピはよく私の胸を引っ掻いて遊んだ。腫れ上がった皮膚を指でなぞるのが好きだったのだ。小さな手のひらでは、叩かれても抓られても、少しも痛くなかった。
第三十二王女はレピの人生を夢想しながら、瑠璃色の蜘蛛の糸が天井から降るのをそっと眺めていた。
「その鳥は元気にしているの?」
「さあ。もう逃げてしまいました」
王女の体温が急激に冷えた。色水が引いていき、色のない白い指先が私の肌に触れた。背中を探り当てられないよう、私はその手を握った。
第三十王女の瞳からは、色が零れていた。
「きっと元気でいるわ。あなたの鳥は」
私は王女の肌を頬から万遍なく舐めた。
王女の体温は触れた場所から上がってゆき、やがて全身が花弁のように色づいた。王族の死には色があり、音があるのだ。
「鈴を」
私の口から零れた言葉を、第三十二王女はこっくり飲み干して、また吐いた。
「すず?」
「はい。あなたの鈴をいただいてもよろしいでしょうか」
王女は短く震えた。微かに開かれた唇と唇の間に、濡れた内腑色の空洞ができた。
「レピ。あなたが欲するのなら、私はなんでも与えます」
王族が死ぬときに吐く鈴は、手にした者を必ず幸福にさせる。
あの町に住む人間たちは、簡単な神話を作るのが得意だ。必ずという言葉のついた幸福を、私は想像できたことがない。
「レピ」
第三十二王女は、色を零しながら私の名を呼んだ。
私はレピに乞われて時々したように、王女の空洞に触れ、体の中に熱を探した。徐々に熱の広がる体は、私を重たく包み、同じ場所へ沈み込ませようとした。彼女の微笑みには、ひとつの生命を輝くものへ取り変える力がある。
「スカーニャ。私の王女」
「ああ!」
短い痙攣のあと、第三十二王女は色と音の鈴を吐き、私の腕の中で事切れた。王女が最後に呼んだのは第二王女の名であった。瑠璃色の蜘蛛たちも王女の傍で事切れていた。零れた鈴を拾うと、私の背には翼が生えた。
城を崩して飛び上がったとき、私は、かつて翼を亡くした時のことを思い出した。
地上にひとつの鱗を見つけたのだ。光が私を呼び寄せ、生命を変えてしまった。
レピ。
私の女王。
私だけの名前。
その夜、ひとりの鳥が川に墜落し、水底に鈴の音が響いた。
君沈み鳥帰る 犬怪寅日子 @mememorimori
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