昼に月は見えずとも

遠野朝里

水蛭子の帰省

 十年ぶりに、実家へ帰ることになった。昼子の実家は北関東の片田舎で、ここ駒込からは車で三時間ほどだ。十八のときに進学のため上京してから、一度も帰ったことがない。

 地元が大嫌いだ。はじめに誰が言ったのかは知りたくもないが、『ひるこ』という名前は奇形児の意味だと言われて、クラスメイトからいわれなき中傷を受けたことがあった。国産み神話に登場する水蛭子ヒルコは、手足がカエルのような奇形だったために親である伊弉諾イザナギ伊弉冉イザナミに捨てられたのだと伝えられている。父親がいないことも相まって、〝捨て子のヒルコ〟は格好のからかいの的になった。

 母に相談はしなかった。昼子と名付けたのは他でもない母だ。作家である母が水蛭子の神話を知らなかったとはとても思えないし、わかってこの名前をつけたのだろう。

 母が大嫌いだ。東京へ進学したのは、とにかく母から離れたかったからだ。幸いにも、人気ミステリ作家の母には人徳も人望もないが財産だけはあったので、学生時代の仕送りは多かった。邪魔な娘への手切れ金のつもりで送ってきていたのだろう。


「昼ちゃん、久しぶり。俺のこと覚えてるかな。立木翼」

「え、翼くん?」


 覚えている。学童保育でよく面倒を見てくれていた、近所に住む二歳年上のお兄さん。親しくしていたのは小学生のときだけだが、昼子のことを『昼ちゃん』と呼んでくれていたのをよく覚えている。勉強ができたので東京の大学の文系学部に進学したと聞いていた。

 三十になった翼は、黒いスーツがよく似合う格好いい大人に見えたが、あの閉鎖的な田舎で暮らしていけるくらいには鈍いのだろう。独り暮らしの女の自宅に、いきなり押しかけてくるのだから。


「迎えに行ってくれって、おばさんに頼まれてさ。こっちの人と違って毎日運転してるから安心してな」


 翼の車は、大きめのSUVだった。メタリックブルーの車体は砂ぼこりで汚れていて、地元から長距離を走ってきたことが窺えた。


「後ろに乗ってね」


 翼は恭しくドアを開けると、昼子を乗せた。後部座席の背もたれを倒せば、広々としたスペースが作れるタイプの車種だった。もう結婚して家族があるのかもしれない。地元で結婚なんて、死んでもごめんだ。

 車のエンジンが勢いよく動き出し、大きな車体がぶるりと震えた。


「じゃあ、帰ろうか」


 ◆◆◆


 一時間ほど走ると、日が傾いてきた。昼子は翼に話しかけることはなく、翼も無言だった。ただ、車中で流れる音楽がどれも映像化された母の作品の主題歌なのが気に障る。言葉をメロディに乗せて語られると、それが真実なのだと押しつけられているようで不愉快だ。昼子の好きなバンドが母の作品に曲を提供してからは特に、自分の生き方が間違っているのだと言われた気がして、ファンクラブは辞めたし、全曲サブスクから削除した。まさにそのきっかけとなった主題歌が今、車内で流れている。


「この曲いいよなあ。おばさんの本めっちゃしっかり読んでくれたのわかる歌詞」


 翼の言葉は、いかにもファンの発言だった。きっと、昼子と母が不仲であることを知らないのだろう。学生にとって二学年の隔たりは、天地ほどにも相当する。昼子は何も答えなかった。


「昼ちゃんはこの映画見たかな?」

「見てません」

「あのバンドに主題歌お願いすれば昼ちゃんも見てくれるかなって言ってたんだよな」

「えっ」


 翼の言葉には主語がなかったが、おそらく母がそう言った、ということなのだろう。だが、聞き返す気にはなれなかった。


「少なくとも、歌は聴くだろうって。歌詞もよく見たらネタバレだし、歌だけ聴けば話のテーマが伝わるようになってる」

「……どんな歌詞でしたっけ」

「私の夜に輝いたあなたは~、今は真昼の月~」


 そうだ。そんなサビだった――流れる男性ヴォーカルに合わせ、翼は上手くも下手でもない歌を披露した。無理やりファンをやめたとはいえ、番宣やCMで何度も聞こえてきて、否応にでも頭に刷り込まれていた。


「昼、って入れてくれたのすごいよな。俺、CD全部買っちゃった。昼ちゃんがどんな歌手好きだったのか気になって……」


 翼はそこで言葉を切った。

 あのバンドは、ヴォーカルが作詞も作曲も担当している。だから歌詞を書いたのは、母ではない。


 ◆◆◆


 走りながら、車が忙しなく揺れた。峠に入ったのだろう。蛇行する道に合わせて、車体が左右に振れた。


「着いたら化粧しないとな」

「母に会うだけだし、ノーメイクでいいです。コスメ全部置いてきちゃったし」

「決まりだから俺がするよ。ごめんな」

「えっ、翼くんがするの?」

「昼ちゃんの青い目に映える化粧のこと考えてたんだけど……目、閉じてたか」

「だから、いいですってば」

「……昼ちゃん」

「なんですか?」

「昼ちゃん、なんで」


 車が急に減速した。


「翼くん、どうしたの」

「なんで昼ちゃんがこんな目に」


 声を震わせた翼は、山道に設けられた休憩所に車を停めた。




 死んでも帰りたくないと思っていたが、死んだら体が自由にならない。

 真昼の往来で通り魔に刺された昼子は、あっけなく死んだ。死因は明らかに刺し傷からの失血死だったが、事件性があるので、法律に従い司法解剖に回され、今日ようやく家に帰ることとになった。だが、駒込の自宅には他に誰もいないため、帰宅先を北関東の実家にされてしまったのだ。

 翼に自分の声が聞こえているはずはない。だが、不思議と会話はかみ合った。地元の葬儀社に勤める翼が昼子の葬儀を担当することになり、彼は勝手に給料分以上の働きをしているらしい。幼馴染みだから。どうしているのか気になっていたから。


「結婚しようと思った男が国際結婚詐欺師で、さんざん金を取られた挙げ句、子供ができたってわかったらどっかの国に逃げちゃったんだって。昼ちゃんは知ってたのかな」


 翼が昼子の棺に語ったのは、母がそのまま翼に話したことなのだろう。

 父親のことは、知らなかった。自分に異国の血が流れていることは目を見ればわかることだったが、父親がどんな人間だったのか、なぜ片親なのかは、聞いたことがなかった。物心つく頃には、何も聞きたくなくなっていた。こんな名前をつけた母に聞くことなんて何もないと。


「お先真っ暗になって、捨てたいくらい困ったから、ひるこ。でも生まれてきてくれて、真っ暗闇を照らしてくれたから、昼子。おばさん、『昼ちゃん』って呼んでたろ。それなら、明るいお昼の意味しかないもんな」

「……そんなの、言われなきゃわかんないよ」


 ベストセラー作家のくせに、他人の言葉を通してしか昼子に何も伝えられない。やはり母はろくでもない人間だ。


「翼くん、早く帰ろう」

「……じゃあ、そろそろ行こうか」


 車は夕暮れの峠をゆく。

 もう母と何も話せないことが、ただ悲しかった。

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昼に月は見えずとも 遠野朝里 @tohno_asari

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