最期の特約保障

遙夏しま

最期の特約保障

 俺、死んだらしい。


 たぶん。


 死んだわりにはなんか行列に並んでいる。


 どこまでも果ての見えない真っ白い空間にいる。

 長い長い行列。

 みんな、スマホも見ずに真顔で並んでいる。


 なんでこんなことをしてるんだろうと思いながら俺もずっと整列している。スマホ、どこにやったっけな。暇だな。俺なにしてるんだっけ。


 館内放送が流れる。


「宮野圭太さまー。繰り返します。宮野圭太さまー。臨死時特別保障特約にご加入されていらっしゃいます宮野圭太さまー。先頭にございます受付事務所までおこしください」


 宮野圭太……。


「俺だ」


 そう言った瞬間、行列の人々がいっせいにこちらを見た。

 微妙に恥ずかしい気持ちになる。照れながら列を抜けていそいそと先頭へ向かう。行列は長い。なかなか先頭に辿りつかない。早く先頭に行きたい……。


 いや、待て待て。

 俺、なにやってんだろう。

 なんだっけ。


 脳みそに真綿でもつめこまれているみたいだ。考えがはっきりしない。俺はいわれるがまま行列のわきを小走りしつづける。小走りでも10分はかかっただろうか。列の先頭までくると「死去受付事務所」と書かれた窓口があった。そこには赤い肌のスーツを着た男がいて、「宮野圭太さんですか?」と、こちらへ向かってきた。


「あ、はい。宮野です」

「はい、えぇと死因は……うん、交通事故ですね。合ってますかね」


 赤い男はカルテのようなものをペラペラとめくってそう言った。俺は思わず「あぁはい、そうです」と答え、その瞬間、自分が交通事故にあったことを思い出した。


 高速を流れる景色、ふわりと浮かぶ車体、右斜め前方にめり込んでくる大型トラック。激音と弾けるフロントガラス。くしゃりと潰れる一瞬。


 視界と記憶がその瞬間で途切れた。


「俺、死んだんですね」


 冷静だった。

 そうか即死か。

 むしろ痛みや苦しみがなかったことに胸をなでおろした。


 赤い男はかけている眼鏡をくいとそろえながら「そうですね。死んだというべきか。正確には死ぬ過程にいます」と説明した。「臨死状態とでもいいましょうか」と補足する。


「臨死?」俺は自分が死んだことよりも臨死体験がこの世にあることに驚いた。テレビで放映しててもヤラセとしか思っていなかった。こんな真っ白な空間でみんなして行列になるのが死ぬってことなのか。というかこの大行列、みんな死ぬやつらなのか。でも臨死体験って頭のなかでのことって話もあるよな。


 ん、今の俺はどういう状況なんだ。


 いったいこれはどういう……。


 そこまで考えた時点で赤い男が「ストップ」と言って俺の顔の前に手をかざす。


「どうやら特約付きのかたなのでまだ思考できるようですが、あの、本来はですね。ここであんまり、こまかいことを考えていただくと困るんですよね」

「どういうことですか?」

「ほら。そういうの。死ぬ途中のかたが質問されては困ります」


 そんなこと言われてもな。


 赤い男はふざけているわけではなく、真剣に俺が思考することを拒んでいるようだった。そうは言われても、いきなり考えるなとなったところで、考えないことこそ、どうやっていいのかわからない。だって人間、常に何かしらは考えているわけで、そもそも思考は勝手に浮かんでは流れていくシロモノで、俺がコントロールできるものでもなくて。


「宮野さん、についてはご存知ですね」

「はい?」

「臨死時特別保障特約です。ご加入されていますよね」

「なんですか? それ」

「ご存知ないですか。生命保険に特約でつけていらっしゃるようですけど」

「保険の特約?」


 たしかに俺は生命保険に入っていた。あんまり興味もなかったが、ある日、けっこう強引な営業をうけて入った。営業のお姉ちゃんがべらぼうにかわいいし、一生懸命説明してくれてるのもわかったし、たしかにいざというとき妻や子供たちも助かるし、けっこう値引きもしてくれるしで根負けして加入した。


 こまかいことは別になんだっていいから月の支払い額だけ決めて、言われるがままの内容で契約したんだけど、そのなかに入ってたやつなのかもしれない。


「あのう、その臨死なんちゃら特約ってよく知らないで入っちゃったんですけど」

「なるほど。きっとそうなんでしょうね。おおかた、かわいらしい保険営業がきてそれに骨抜きにされて言われるがままに加入したんでしょう」

「まぁ……おおすじは合ってますね」

「だってこの特約、人間界ではつけられませんからね。そもそも普通の人間を対象としていない。たぶん、死神がうまいことあなたの名義を使って加入したんでしょう」

「死神?」

「はい。まぁでもこまかいことは考えないでください。あなたが考える必要のないことです。とりあえず特約内容について説明しますから待っててください」


 赤い男はすたすたと歩いて、一度、事務所に戻ると、すぐにパンフレットを抱えて戻ってきた。パンフレットには「ニコニコ命の死神保険本舗」のタイトルとウインクする死神のイラストが描かれている。


「はいこちらのページをごらんください」赤い男は事務的に話を進める。


 臨死時特別保障特約とは簡単にいえば「生き返ってもいい」というものらしい。


「まぁ保障条件など詳細はあるんですが、はしょって言えば、生き返れます」

「生き返れる」

「正確にいえば今、死のうとしている最中ですから、お手続きをせず回れ右でお帰りいただくってことになりますね」

「手続き……もしかしてこの行列、死ぬ手続きの行列なんですか」

「そのとおりです」

「死ぬのに受付が必要なんですか?」

「こまかいことは考えないでと先ほどから……」

「あ、すみません」


 赤い男は神経質そうに眼鏡をくいくいといじっている。ストレスの多い仕事なのだろうか。「それで、どうなさいます? 生きる場合は手続き不要です。死ぬ場合は特約特典でこのまますぐ受付して死ぬことが可能です」こともなげに説明する。


「急に言われても」

「一応、時間制限のようなものはありませんから、こちらでゆっくりお考えになってください」


 赤い男は対応が面倒くさいのか「決まったら申し出てください」と俺に言い捨てるとさっさと事務所へ戻ってしまった。


 行列は今もゆっくりと進んでいる。並んでいない人間が珍しいのか、さっきからみんなが俺をチラチラと見てくる。それにしても誰ひとりとして列を崩さない。通勤、通学する人たちと同じように、まるで当然の目的をもったかのように、静かに冷静に人々は死に向かっていく。


 死ぬ途中の人間は余計なことを考えないって話は、どうやら本当みたいだ。


 受付を見る。到着した人が案内を受けている。無表情にみんな何かを記入をしている。文字が書けない人は係員が代わりに記入している。受付がひととおり終わると全員、右手首に輪っかのようなものを付けられている。そして……。


 あれ?

 うまく見えないな。

 受付をするだろ。

 受付が終わる。

 手首に輪っかをつけて。


 あれ?


 どうやら死ぬ瞬間はうまく認識できなくなっているようだ。見ててもわからない。受付をした人が移動なりなんなりしているはずなのだろうが、俺には気づくとさっきまでいた人が消滅しているようにしか見えない。変な感覚だ。


「死ぬこと、か」


 特約付きの俺はどうすべきだろうか。生きたいと願うのが一般的なのだろうか。そうだとしたら不思議なことだ。俺は今、生きることと死ぬこと、どちらを選ぶのもやぶさかではない気分である。


 なんというか、ここまで来てしまった感がある。


 生き返れるのが嬉しくないかと言われればそうでもない。しかし俺はずっと死ぬことを予感して今、ここまで歩んできたような気もする。こんな言いかたは変かもしれないが、死ぬことは生きている俺の中である種の目的地だった。到着したと考えればわざわざ戻るっていうのもなんかなぁと思ってしまう。


 せっかく着いたのになぁ。


 赤い男は余計なことを考えるなと言っていたけれど、言われなくても思考は十分よどんでいる気がする。いろいろなことが思い出せない。そもそも俺はなんで事故にあったのか、どういう人間だったのか、何を喜び、何に生きて、どう日々を過ごしていたのか。


 なんだっけ。

 なんだったっけ。

 目の前のことしかわからない。

 そんな気がする。


「決まりましたか」新しいスーツに着替えた赤い男がやってきた。どうやらかなり長い時間、その場で考え込んでいたらしい。なのに俺の答えは決まっていなかった。考えだって一歩も進んだ気がしなかった。

 そうだろうな、という顔をして赤い男は小さくため息をついた。


「特約なんてつけても、ここまできて決断できる人間などいないんですよ。人はみな死ぬために生きているんですから。肉体のある現世では生きたいと盲信しているでしょうけど、


 しばらく赤い男はくいくいと眼鏡をいじる。

 パンフレットをパラパラめくる。

 考え込んでいるようだ。


「わかった。こうしましょう。この特約の権利は譲渡できるんです。ひとつ私に譲渡相手を決めさせていただけませんか?」

「権利譲渡……?」


 うん、まぁいいかもしれない。


「二歳の男の子がいます。その子はまだ生きているんですが一歳の頃からずっと眠っている。難病です。高熱がつづき長いひきつけを何度も起こした。でも医者は子供の重い病に気が付けなかった。ただの風邪だと誤解し、何日も点滴ひとつで放っておいてしまった。そのあいだに子供の脳には、ダメージが蓄積され、ついに限界を超え、昏睡してしまった。彼は両親の呼びかけにも応じられず、ただずっと眠っている」


 二歳か。

 未来もあるだろうに。

 親御さんは心配だろう。


「その子供は今、行列に入らず最後尾で待機しています。なにもわからぬまま、ただ静かに列を見つめて立ちつづけています。私も見ていて忍びない。彼に権利を譲りませんか。未成年の場合、臨死時特別保障特約は無条件で生きる方へと選択されます」


 なるほど。


「彼は生きるべきだと思う。彼が生きれば両親は泣いて喜ぶ。あなたの命も彼につながるし、そしてあなたは穏便に死ぬ決断ができる。三方両得。悪くないでしょう?」


 悪くない。


「良かった。それではさっそく死ぬ手続きをしましょう。すぐに受付できます。用紙に必要事項を記入して……」


 思考が薄れる。

 俺はほとんど無意識で、最後に浮かんだ疑問を彼に投げかける。


「ところで、あなた誰なんですか?」


 赤い男は眼鏡をいじる。


「私ですか? 私は閻魔大王です」


 俺は少しふふと笑ってもうなにも思わない。

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