『朱山祭』の日


 * * *


 翌日。『朱山祭』。

 『朱の山』の禁足地への門が開かれ、付き人と共にネリは祭壇前へとやってきた。禁足地の空気は冷え込んでいて、霧が蛇のようにうねっている。

 長く急な階段の上に祭壇はある。この階段を上れるのは巫女だけ。付き人と、その後ろの村人達は、これ以上は進めない。後は高い祭壇の上で行われているであろう、山の神と巫女のやりとりに目を凝らし、耳を澄ませることしかできない。

 長い階段の始まり。ネリははじめの一歩に足をかけた。階段は急で、苔が所々に生えている。気をつけて上らなければいけない。それだけではなく、今日は慣れない『朱山祭』の巫女装束を来ているのだ、歩きにくいことこの上ない。もし足を滑らせて背後に落ちてしまえば、大怪我で済んだ方がまだいい方だ。

 一歩、また一歩しずしずと――上っている本人はこれでも必死なのだが――祭壇を目指す。近づくにつれ、より空気が冷えていくような気がした。そして、どこか甘い香りもするのだ。まるで別世界へ向かって歩いているような心地になる。振り返ってうつつがそこにあることを確認したいが、きっと高いものだから見るのが怖いし、巫女はまっすぐに階段を目指さなくてはいけない。

 祭壇にたどり着けば――山の神が、そこにいた。

 狐の耳と尾は、昨晩のように露わになっている。しかしその服装はネリと同じく祭礼のために厳かでけれども美しい、まさに神のものになっていて、顔は垂らした布で隠れしまっていた。

 だがうっすらと見える。緊張にこわばったコガネの表情が。

 それを見てネリは一瞬安心したが、昨晩とは違う本番の装いが互いにより際だってしまって――。

 まるで昨日会ったコガネではないみたいだ。それは、彼も思っているのだろう。互いに、全く別の者に出会ったかのような。

 しばらく、ネリと山の神は見つめ合ってしまった。だがネリは我に返った。

 今の自分は、巫女だ。練習の通りに。何回もやったではないか。

「――あ、あけのっ」

 深呼吸をすると神聖な冷気が肺を満たす。

「――『朱の山の神』。恵みもたらす者、我らが御主よ。我……巫女ネリが、貴方様の朱をお返しし、新たな朱を賜りに参りました」

 両膝をつき、頭を垂れて、ネリは昨年の『朱の恵みの花』からとれた種いくつもが入った木の葉の巾着を、両手で差し出す。

 そこまでやって――頭が真っ白になった。

 次は……なんて言えばいいんだっけ?

 まだ自分の口上は続くのだ。それが――吹っ飛んでしまった。

 息が詰まる、と。

「……我らの心は」

 コガネの、小さな声。はっとしてネリは。

「――我らの心は貴方様のもの。どうか、恵みを授けたまえ……」

 言えた。ちゃんとできた。垂れたままの頭。長い息をネリは吐き出した。

 次はコガネの番だ。

「我こそ朱の山の主なり。その祈り、心、確かに受け取った」

 コガネが淡々とした様子を装って声を響かせれば、ネリの手にあった巾着が宙に浮いて、中からいくつもの種が飛び出した。一つは山の神の椀にした両手の平で浮いて、それ以外は星のようになって禁足地のどこかへ散っていった。彼は続ける。

「そなたらの願いを聞き入れ、新たなる恵みを授けることを、約束しよう」

 いよいよ芽吹きの時だ。コガネが深呼吸するのを、ネリは耳にした。そして種が裂けて芽吹き、生長し始めた音も。

 しかし、やがてコガネの乱れた呼吸が、かすかに聞こえてきて。

「……頑張って。大丈夫」

 思わずネリは顔を上げた。

 コガネは、やはり蕾を膨らませて咲かせるのに苦労しているようだった。何とか膨らませた、朱い蕾。練習用の黄色や白ではない、その色。だがそれ以上膨らまないし、花も咲かない。布の仮面越しに、焦った顔が見えた。だからネリは、微笑んで。

「できるよ。私、信じてるもん」

 コガネは頷いてくれた。

 そうして、朱色の花が、咲いた。清々しくも甘い香りが、辺りに漂い始める。

 山の神はその花を巫女の手のひらに乗せた。むき出しの根が冷たかった。

「ありがたき幸せ。我らは、貴方様への信仰の証に、この朱を守り育てましょう」

 先程と違って、口上はすらすらと出た。立ち上がって改めて山の神を見据えれば――コガネは少し、涙ぐんでいるように見えた。

 ネリは続ける。上擦りそうになった声を抑えて。

「そして新たなる命を授かりし時、貴方様にお返ししましょう」

「……その言葉、その心、決して忘れるな。花散るように信仰が散れば、我が祝福も消えよう」

 コガネも上擦りそうな声を抑えているかのようだった。

 少し視界が歪んでいることに、ネリも気がついた。

 ――互いに、やり遂げたのだ。

 と、コガネの姿が、霧に包まれていく。ネリは慌てかけたものの、まだ互いに神として、そして巫女として、ここにいるのだ。

 ……山の神が姿を消して、ネリは背後へ、村人達へ向いた。遙か下にいる人々に、山の神の姿ははっきり見えなかっただろう。けれども、声は聞こえたはずだ。

 両手にした『朱の恵みの花』を、巫女が掲げる。その鮮やかな大輪は、遠くても、霧が漂っていても、光を放っているかのように人々の瞳に映った。

 そうして人々が感謝と祈りの言葉を口にしながら、頭を垂れる。

 『朱山祭』の儀式は、無事に成功したのだった。


 * * *


 ネリがコガネと再会したのは、その日の夜のことだった。

 儀式が終わり、村に戻れば宴が始まった。巫女であるネリは、なかなか抜け出せなかったものの、隙を見て、山の入り口までやって来たのだった。

 夜。闇が沈み込んでいるものの、今日は満月である上に、山には入っていないので、辺りは決して真っ暗ではなかった。しかし山の方を見れば、鬱蒼として暗く、それでもコガネを探しにネリは歩き出した――皆に心配をかけてしまうから、すぐに村に戻らなければいけなかったが、それでも、一瞬だけでも、コガネに会いたかったのだ。

 会えなかったのなら、また今度にしようと思っていた。しかし。

「――ネリ!」

「コガネ!」

 山に一歩足を踏み入れた、その瞬間だった。

 向こうから、コガネが走ってきたのだ。その格好は、祭りの儀式の時とは違って、出会ったときのような軽いもの。ふわふわの尾が、よく揺れていた。

「私、コガネに会いたくて……」

 ネリが顔を輝かせれば、コガネも笑っていた。

「僕も! ネリが来てくれたらいいなって待ってたんだけど……本当に来てくれてよかった!」

 そうして二人で笑いあって、やがて。

「……ネリ、今日は本当にありがとう。精霊達も、ほっとしてるみたい」

 先に礼を言ったのは、コガネだった。

「人間達も……がっかりさせずに済んだみたい」

「お礼を言うのは私よ、コガネ」

 ネリも言う。

「コガネ……ちゃんと神様してたよ! すごかった! かっこよかった!」

「ネリだって、頑張ったよ。それに……綺麗だった」

 そう話していると、村の方が少し騒がしくなって、二人は視線を向けた。何か、騒いでいる。

 コガネが狐の耳を震わせた。

「……君を探してるみたい。呼んでるよ」

 祭りの主役である巫女がいなくなったとわかれば、村では大騒ぎが起きてしまうだろう。行かないと、と、そっとネリはコガネから離れた。けれども。

「ねえ……今度また、ゆっくり話したい」

 昨晩は『朱山祭』の練習。そして今日も一瞬と言っていい時間。

 もっとゆっくり、話がしたかった。

 ――神と人間。もし大人にばれたら、怒られてしまうかもしれないけれども。

 ――精霊達も、何を思っているのかわからないけれども。

 コガネは、頷いてくれた。

「また来て、ネリ。僕ももっと君とお話がしたいから……待ってる」

 満月の下。未熟な神と、幼い人間。祭りの主役であった二人は別れた。

 しかしそれは、一時のこと。


 * * *


 ――これは、後の世に『朱の山』の異類婚姻譚として伝わることになる、二人の出会いの物語。

 けれども、二人が結ばれるまでのお話は、また別のお話。


【ネリとコガネ 終】

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ネリとコガネ ひゐ(宵々屋) @yoiyoiya

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