第4話 部長ってよく見たらカッコイイ?
「あっ」
無事に、生理が訪れた。ストレスからか少し遅れ気味だったのでわたしは内心真っ青だったのだが、ちゃんときた。
それにしても、あの告白のようなものはいったいなんだったのか。そう思うくらい、部長はいつも通りだ。ぎくしゃくしてしまうわたしを嘲笑うかのように、いつも通り。
書類を眺めるふりをしながら、その紙の向こう側にいる板倉部長を観察する。
丁寧に撫でつけられた髪の毛、細い身体に似合うスーツ、シャツから覗く首筋にぽっこりと浮き出た喉仏、どこか愁いを帯びた濡れたような鮮やかな黒い瞳がパソコンの画面をじっと見つめている。
「……」
こうして見れば、たしかに格好いいんだよな。同期の子の心が揺れる理由もなんとなく、分からないでもないのだ。仕事もできるし、男前だし、気遣いはこまやかだし。
でもどうしても年齢と離婚歴がネックだ。……ん?
いや、ネックとかそういう問題でもないはずだ。そもそも論外なのだから、そういう次元の話ではないはずだ。
「柏原さん」
「はっはい!」
ぼうっと考え事をしていると、背後から話しかけられて我に返る。振り返れば、部長がファイルを片手に凛とした立ち姿を披露していた。
「何度か呼んだんだけど」
「す、すみませんわたしぼうっとしていて……!」
「これの入力、お願いできる?」
「はい!」
ファイルを受け取ってパソコンに向き直り、はたと気付く。この量を今からはじめたら確実に残業コースじゃないだろうか。
ちらっと周りを見るが、誰もわたしに気を配ってはいない。それどころか隣の席の先輩は、着々と定時ダッシュができるように身辺を整え始めている。
「……」
パソコンの画面を見る。まあ誰かに手伝ってもらおうなんて甘いことは言っていられないよな、と気持ちを入れ替え直して、それなら早めに終わらせてしまったほうがいいということで作業を始める。
ひとり、またひとりと帰っていく中で、わたしはひたすら画面と書類を目で往復していた。じりじりと目が痛くなってくる。だんだん前傾姿勢になっているのを自覚して、ふっと休憩のつもりで伸びをして何気なく辺りを見回すと。
「……うそでしょ」
オフィスには誰もいなかった。しん、と静まり返ったオフィスに一人きり。いつの間にやら皆いなくなっていた。慌てて腕時計に目をやる。九時。まあそりゃ、残業がなければ皆帰る時間だ。とは言え最後に帰る人はわたしに一言くらいあってもよかったのではないか。
普段広いなんて感じないけれど、ひとりぼっちだとずいぶんと広大な面積に感じるオフィス内をぐるりと回ってみると、少しおそろしくなってきた。
不審者、とか出ないよね。
そんなことはありえない。なぜならこのオフィスが入っているビル自体に警備員さんが常駐しているし、たぶん社内にはまだわたし以外にも残っている人がいるだろうし。
ありえない。……たぶん。
とは言え、ひとりぼっちでこんな広い部屋にいるというのも心細くてそわそわしていると、入口辺りから靴音がした。硬質なその音はだんだん近づいてくる。
「えっ……」
警備員さんだ、見回りに違いない。そう分かっているのに、音が近付けば近付くほど怖くなってくる。辺りを見回して、何か武器になりそうなものを探す。
以前何かで使った突っ張り棒を見つけてそれを思い切り竹刀の要領で構えた。
靴音が入口のドアの前で止まり、ノブが回った。
「来ないで!」
「……何をしてるの?」
「えっ。えっあっぶ、部長……」
きょとんとして、こちらを見ていたのは警備員さんでも不審者でもなく、板倉部長だった。わたしが構えている突っ張り棒に視線をやって、首を傾げる。
慌てて突っ張り棒を後ろ手に隠す。
「そんなものを持ち出して、何をしようとしていたの?」
「あ、いえ、あの、その…………不審者かと思って」
「……まさかそれで応戦しようと?」
びくりと身体を揺らすと、部長の目が眇められた。そしてふうとため息をついてわたしの手からそれを奪う。
「こんなもので細腕の女性が不審者に勝てるわけないだろう」
「な、ないよりはマシかと」
「下手に抵抗して相手を刺激してしまったらどうする」
「でででも」
「そもそも」
そこで、部長は不自然に言葉を切り咳払いをした。
「僕が残業する部下を置いて帰るような薄情な人間に見えるか?」
「……見えません……」
いや、その聞き方はどうなんだ。別に、残業する部下を置いて帰ってもいいと思うんだが。今日の残業はわたしの過失ではないので、部長が残ってくれているのも納得はできるけれど。
どこか何か腑に落ちずに黙っていると、部長が提げていたコンビニ袋を差し出した。それは、押し付けると言うにはあまりにも優しく、そう、差し出したというくらいがちょうどいいような。
「な、んですか?」
「一応作業している君に断って出て行ったつもりだったんだが、まったく聞いていなかったからね。何が好きかよく分からなかったから、嫌いなものが入っていたなら謝るよ」
「……」
中には、ツナマヨと鮭のおにぎりと野菜ジュースが入っていた。そっと部長の顔を見上げると、穏やかに口元にだけ笑みを浮かべてわたしをじっと見ている。ばっと目を逸らして、野菜ジュースを取り上げる。
「君はそれを休憩中によく飲んでいたと思うんだけど、おにぎりのほうは好みは分からなくて」
「あ、いえ、……大好きです」
「そう、よかった」
部長相手に、おにぎりが対象だろうと大好きだと言うのが少し気恥ずかしくて、小声になる。それでも部長は、それを気にしていないふうに笑ってわたしの隣に所在なさげに立つ。それを見てハッとする。
「ぶ、部長」
「ん?」
「何もないのに、残ってくださってたんですか……?」
「僕があんな中途半端な時間に指示を出してしまったせいで君が残業する羽目になっているんだから、当然だろう」
「そんな」
「それに、明日の会議の資料のチェックもしておきたかったから」
「……あの、ありがとうございます……」
お礼を言えば、部長がふわりと笑う。それは、成長したこどもを慈しむようなものに見えたけれど、まあ部長という役職の人間からすればわたしみたいな社会人一年生はお子様かもしれないな、と思う。それを思うと、少しだけ胸が痛んだ。触れられたくない心の奥のほうを無遠慮に掴まれているような痛みだった。
「それ、食べて残り片付けてしまいなさい。もう少しなんだろう?」
「あ、は、はい」
「周りの声が聞こえないくらい集中していたね。君のすごいところだ」
感心したようにそう呟いた部長が、ん、とわたしの背後に目をやった。
「虫が」
「え!?」
そろそろと後ろを振り返る。すると、けっこう大きななんだかよく分からない甲虫が壁を這っているのが目に入って、声を失くした。
「……!」
「おっと」
よろよろと部長のほうに倒れてもたれかかる。それを支えられて、わたしは見るのも嫌なはずのその虫から目が逸らせない。見たくはないけれど、もし目を逸らしているうちに飛んでこちらにやってきたりしたらどうしようもないからだ。
「……」
「虫は嫌いかい?」
「……」
黙って数度首を小刻みに縦に振る。部長の手がすっとデスクの上にあったティッシュ箱に伸びる。二枚ほど取って、わたしの肩を軽く叩いて虫をそれで柔らかく包んだ。
「……」
「どこから逃がそうか……」
「……」
「窓かな」
ぶつぶつとぼやきながら、部長が窓を開けた。そわりと真冬の冷たい空気が忍び込んで首を竦める。
デスクのそばにへたり込んでいたわたしに、彼が近づいてきてそっと肩を抱く。
「もういないよ」
「あ、あ、あり、ありが」
「……そんなに苦手なの?」
「わたし、昔、蜂に追いかけられてから、駄目なんです……」
「ああ、なるほど」
苦笑した部長がわたしを立たせて椅子に座らせる。その一連の所作があまりにも慣れていて自然で、なんかやっぱり年上の男の人って違うな、と思う。それが憧憬のようで憎らしさのようで、戸惑う。
頭を撫でられてようやく平常心が戻ってきて、燃えてなくなりたくなった。あんな醜態をさらすなど、愚の骨頂である。
「あの」
「ん?」
「忘れてください……」
「何を?」
「い、いろいろです! な、なんかいろいろ……!」
「……じゃあ、忘れよう」
笑いをこらえているような顔で、部長が呟いた。絶対忘れる気、ないな、と感じ取るのと同時に、頭の奥がむずむずする。
こうして軽い冗談のような会話ができる。あの日のことなんかなかったみたいに、部下と上司でいられる。それは、安堵と一緒にどこか釈然としないものを運んできた。
「さあ、残りの仕事を片付けてしまおう」
「……はい」
「終わったら声をかけて」
「はい」
この間ぐいぐいと迫ってきたことなんかまるでなかったみたいに、わたしの人生設計図を嘲笑った鋭い視線なんかなかったみたいな態度に、少し傷ついた。
もっと押されると思っていたのだ。仕事と同じように情熱的に来られると思っていたのだ。こちらが、困るくらいに。
そうされると面倒くさいと思うはずなのに、今の状況をわたしが満足していないようなのが、一番戸惑って困っている。わたしはどうして部長があれ以来何も言ってこないのを切なく思っているのだろう。
「はああ!」
「柏原さん?」
「気合い入れただけです」
「……そう? がんばって?」
私の深いため息に、目を見開いた部長が首を傾げる。曖昧にごまかして、でもわたしにもよく分からないのです、と心の中で付け加えた。
◆
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