第3話 部長のことばっかり考えてる

 では、また明日。

 その言葉はほんとうに、額面通りだった。部長は、なんてことない顔をしてわたしやほかの部下に指示を出して自分も仕事をこなしている。ばりばり働く、とてもできる上司。

 ふと考える。板倉部長が、前の奥さんと離婚した原因って何なんだろうと。ほんのわずかな時間しか一緒にいなかったけれど、あまり悪い面が見つからない。上司と部下という関係から見れば、頼もしいし優しい。恋人だった関係では、強引すぎず消極的すぎず、力加減をちゃんと分かっている感じだ。

 誕生日の発言から、奥さんに引き取られたこどもは女の子だと知ったけれど、わたしのような小娘からしても、こんな人がパパならいいなあって思うくらいだ。どこが悪くて、離婚してしまったのだろう。


「柏原さん!」


 通路を歩いていると、富永さんが前方からやってきた。


「お疲れさまです、こんにちは」

「あのさ、俺、今日このあと得意先回ったら直帰なんだけど」

「はい」

「よかったら、合流してご飯でも行かない?」


 富永さんは営業のホープなだけあって、断られ慣れしていると言うか、わたしのつれない(というふうに、富永さんには見えていると思う)態度にもまったくくじける気配がない。もちろん、つれなくしていたのは部長とのことがあったせいなので、今日は。


「じゃあ、定時で上がれるように努力します」

「……! ほんとう!? じゃあ、××駅の前で待ち合わせとかどうかな?」


 断る理由なんてないのだ。

 にっこり笑って頷くと、それにつられたように富永さんも満面の笑みになる。そのままぺこっとお辞儀をして通り過ぎる。少し歩いて振り返ると、富永さんもわたしから離れるように歩いて行っているのだけれど、背中がどこかうきうきしているようにも見える。

 これでよかったのだ。

 わずかに視線を落として通路の汚れを見つめる。そう、汚れ。部長とのことは、すべて過去の汚点と成り下がる、それでいいのである。

 定時で上がれるように努力しようと、仕事場に戻ってパソコンに向き直る。いつもなら勉強しよう、何か吸収しようと貪欲な精神で食らいついているはずの仕事内容が、なぜだか頭に入ってこない。数字や文字列が、脳を素通りしていく。

 それでも、わたしはなんとかして定時少し過ぎに自分に与えられた仕事をこなし、待ち合わせ場所に向かうためにヒールで地面を叩くようにして歩いていた。

 ××駅前のオブジェの前でぼんやりしていると、通りの向こうのほうから富永さんが小走りで駆けてくるのが見えた。わたしを探しているようだ。彼のほうを見て手を振ると、気がついたようにぱっと笑顔になって駆け寄ってくる。


「お待たせ!」

「いいえ、今来たところです」

「寒かったよね」


 白い息を吐きながらわたしの横に並び、歩きだす。わたしもそれに続くと、彼は言う。


「何が食べたい? 一応、美味い店はこの辺のでいくつか知ってるけど」

「……うーん」


 真剣に、今の自分の腹具合と相談する。がっつりかさっぱりか、和食か洋食か。わたしが考えるのを、富永さんがじっと見ている。観察されているようなその視線に少したじろいで首を傾げると、にいと口角を上げた。


「何食べる?」

「……じゃあ、和食系がいいです」

「オッケー。じゃあ、行こうか」


 歩きながらふと考えた。

 富永さんは一生懸命わたしを誘ってくれているけれど、わたしのどこに魅力を感じているのだろうと。

 自分で自分をかえりみても、何か大きなアピールポイントのようなものがあるようには感じられない。せいぜい、生真面目に仕事をこなせるとか、少しタイピングがほかの人より速いとか、そんなふうなものばかりだ。そして、それらの特性を、富永さんが垣間見ることは難しい。


「……富永さんって」

「ん?」

「あ、いえ……」


 落ち着け。彼がわたしに気があるのは見え見えだが、何も言われていない時点で「どこがいいの」なんて聞くのは時期尚早だ。経験値が、最初のダンジョンに挑むレベル一の勇者くらい低いわたしでも分かる。


「何?」

「いえ……えっと……あ、いろいろお店知ってるんですね」

「うん。まあいろいろ」


 にこりと笑い、とあるビルを指差す。七階建てらしいその雑居ビルの五階に、お目当ての店があるらしい。エレベーターでふと、喧騒から離れてふたりきりの空間になる。短い、数十秒のその沈黙に、わたしはすでに耐えられそうになかった。

 よく、沈黙が心地いいと感じるならその人とは相性がいいとか、そういう話を聞く。

 まだわたしと富永さんは相性云々のスタート地点に立っていないだけだ。これからきっと、黙っていても大丈夫な空気になっていく、だから心配することはない。

 そんな、密室での気まずい沈黙を抜け、創作和風料亭みたいなところに入る。社会人になりたてのわたしにはお高そうな気品に満ちた店構えに見えたが、入口に立ててあったメニュー表をちらりと見れば、意外とリーズナブルでどうにかなりそうな値段だった。それでも、高いものは高いが。

 そんな店構えなので、内装も和一色だ。そして、客層も社会人が多いのか、ちんまりと静かである。和やかなご歓談をお上品に楽しんでいる人たちがほとんどだ。混み具合は、そこそこ。


「……」


 たらりと背中を冷や汗が流れる。

 もっと、大衆食堂みたいなところでよかった。よくあるチェーン店みたいなものでもよかった。初デートでこんな場所、気まずすぎる。

 とは言え、もう入ってしまったものを変更することもできない。席に着いてコートを脱ぎ、じりじりと焼けそうな視線を、もちろんきっと自意識過剰なのだけれどあちこちから感じる気がして俯いた。

 メニューを見ながら、ちらりと富永さんのほうを見る。真剣な顔をして何を食べようか悩んでいる様子だ。顎を撫でながらメニューに目を落としているその表情が、いつもの人懐こい犬のような可愛らしい顔より少し大人に見えて、不意に部長の顔を思い出した。

 パソコンに向かって真剣な表情をしている。熱心に画面を見つめるその黒々とした瞳が、ふたりになると甘ったるくなる。ふんだんに砂糖を使用したジャムのように、とろけるようになる。


「…………」

「柏原さん、何食べるか決めた?」

「あ……えっと……じゃあ、この鳥雑炊を……」

「俺も同じの頼もうと思ってた」


 にっこりと、人好きのする笑みを浮かべた富永さんが店員さんを呼びつける。

 注文をしている彼をじいと見る。どこにも部長の面影などないのに、なぜ思い出してしまうのだろう。そしてわたしの脳裏に、彼が放った言葉が不意によみがえる。「君は僕に惚れてる」。

 惚れてるから、何だって言うんだ。好きなだけでやっていけるほど、世間は甘くない。

 富永さんは何か一生懸命わたしの気を引こうと話をしてくれる。そこに、込み入った仕事の話は一切出てこず、同僚と行った店が美味かったんだ、くらいのものだった。今度柏原さんを連れて行ってあげる、きっと気に入るよ。

 わあ、うれしいです。なんて、思ってもいない言葉が零れ出でる。思ってもいない、なんていうのは自分でも分かりすぎるほどに分かっていた。人ってこんなに簡単に嘘をつけるものなのかと思う。

 富永さんと表面上は楽しく話をしながらも、わたしはずっと部長のことを考えて気がふさいでいた。

 こんなのよくない。わたしは富永さんと、楽しくおしゃべりをして、いい雰囲気になって、人生設計通りの道を歩まなければいけないのだ。

 なんだか、少し前にも覚えたような違和感を持て余す。しなければいけない、という強迫観念に囚われている。べき、とか、いけない、とか、富永さんと幸せになる未来は当然きらめいているに違いないのに、なぜそんな思考に陥ってしまうのか。

 答えは、どう先送りしたってついてくる。

 美味しい鳥雑炊を食べて、富永さんは、俺が誘ったから、と少し強引にわたしの分まで支払いを済ませ、外に出た。雑炊であたたまった身体に、冷たい風が巻きつく。


「うう、寒いね」

「ですね……」

「このあとどうする?」


 飲みに行く? 今度は割り勘で。

 そう言った彼のことを、断る理由なんてない。ないのだ。わたしはにっこり笑って頷き、居酒屋へ向かうことにする。

 わたしは、すっかり忘れていた。部長とのあれこれが始まった原因が、酒であるということを。


 ◆

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