第7話 善処するは「やりません」の意

「駄目です」

「なぜ?」


 部長はきょとんとした顔でわたしをじろじろと眺め回す。彼の部屋はわたしの予想通り、静謐で物の少ない、穏やかなものだった。よくも悪くも、生活感がない。

 ソファに沈みクッションを抱き、コーヒーを持って来た彼を睨みつける。


「み、みんなの前で呼び間違えると怖いからです」


 慎一さんと呼んで。彼はそうわたしに要求した。当然、前述の理由からはねのけた。

 プライベートでそう呼んでいて、もしも会社で慎一さん、なんて呼んでしまった日には目も当てられない。

 しかし部長はまったくもって解せないというふうに目を細めた。


「別に、恋人だからと言って差別や贔屓はしないよ」

「そこじゃないです!」

「どこ?」

「秘密にしたいんです!」

「なぜ?」


 叫びだしたい気持ちになる。この人は何もかもを分かったような顔をして、何ひとつ分かっちゃいないのだ。

 テーブルにコーヒーのカップをふたつ、ことんと置いて彼はわたしのとなりに座る。三人掛けのソファが加重でわずかに揺れる。そしてわたしはふと思い出した。


「部長」

「慎一さん」

「奥様と離婚なさった理由って?」

「今その話関係あるかい?」


 眉をひそめ唇をへの字に曲げて、言いたくない、という意思表示をする彼に、とりあえず提案してみる。


「教えてくれたら……お名前の件は前向きに検討します」

「…………。そもそも離婚したのはもう二十年近く前でね」


 そんなに名前で呼ばれたいのか、と、手強い相手と思っていたものが案外簡単に陥落してしまい、拍子抜けする。


「今でこそ経理部長なんていう肩書きを持っているが、当時はふらふらしていた。娘が生まれても職を転々とする僕に、たぶん妻は嫌気が差したんだろうな。ほかに男をつくって出て行った。そうして僕は初めて、まともにひとつところに留まることを覚えて、今の職についているというわけだ」

「……なぜ職を転々と?」

「いろんなことを経験したかった。事務職から力仕事まで、やれることは全部やりたかった。経験を積むことが大人だと思っていたんだ」


 経験を積むことは大人ではないのだろうか。


「半分は正しいね。ちゃんと分かっていてやるなら問題はない。でも、若い頃の僕はわりと無鉄砲だったから。それも、妻が嫌がった理由だと思う」

「……そうなんですか……」


 若い頃の部長は、部長でなかった頃の部長は、どんな人間だったのか。そんなふうに、奥さんに愛想を尽かされるような人間だったとはとても思えないけれど。

 悶々としていると、彼がにこりと笑って言う。


「名前」

「……前向きに検討しますね」

「あ、こら」


 わたしは、呼ぶと約束したわけではない。そう言い捨ててそっぽを向くと、彼が呆れたように、こら、と言う。

 でもわたしには分かっている。彼が最初から、こうなることを分かっていたことを。

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108 宮崎笑子 @castone

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