第6話 かましたれ渾身の頭突き

 倉庫の前でわたしは再びの危機を迎えている。この光景をなんと呼ぶのだったか、そうデジャヴ。


「柏原さん」

「……」


 すぐに逃げられるように配慮されているのか、それともわたしが逃げられないことを分かっていての余裕のつもりなのか、壁際に追い詰められ伸びてきた手に退路を断たれつつも、右側は空いている。けれど、そう、わたしは蛇に睨まれた蛙よろしく、硬直してしまっている。

 じっとりと吸い込まれそうな暗い海の底のような黒い瞳が、じっとわたしを見つめてくる。


「何のつもり?」


 何のつもり、その言葉には、思い当たる節が多すぎて、彼がいったいどれのことを言っているのか分からないくらいだ。

 不自然に避けたり、名前を呼ばれても聞こえないふりをして無視したり、それなのにじっと見ていたり、不意に目を逸らしたり。

 わたしだって、何のつもり、と聞かれて、こうこうこういうつもりです、と答えられたらどれだけいいだろう。


「……そんなふうに泣きそうな顔をされても、僕にはどうしようもないのだけど」


 自分の顔色すら分かっていないけれど、部長は少し困っているようだ。泣くまいと目元に力を込めて、数度まばたきする。

 どうしようもない、って。


「……簡単だと思っていたんです」

「何が?」

「人生設計通りに生きることが」

「あの甘すぎる設計図でちゃんと人生が成り立つと思っていた君に驚くよ」


 相変わらず、ぐさぐさと容赦ない。

 簡単だと思っていた、というと語弊があるものの、実際頑張れば可能だと思っていたのだ。設計図に、一番大事なものを書き込むことを忘れていたことに気づかないままで。


「努力すればちゃんと思い描いた未来が来るって思ってたんです」

「……」

「自分の気持ちとか、相手の気持ちは考えずに」

「……」


 部長のことを好きになってしまったから、すべて狂ってしまった。

 彼が父親よりも年上であることや、きっともう完成しない理想の将来像の影、そしてその理想を描くまでに費やした歳月が邪魔をするけれど、一番強いのは、いつだって感情だ。

 今まで自分がいかに感情に向き合ってこなかったのか、向き合うほど突き動かされたことがなかったのか、思い知らされる。

 理性は違うと叫ぶ。違う、この人と一緒にいたらお前の人生めちゃくちゃだ。

 一緒にいない理由なんか、いくらでもわいてくる。けれど。


「……わたし、部長が好きなんです……」


 もう、これまで歩んできた道に引き返せない。踏み出してしまったあとから、階段が崩れるように、消えていく今までの人生。

 部長のまったくの無感情な表情に不安になって、けれどこれがわたしの正直な気持ちであって、わたしはじっと彼の反応を待った。

 やがて、彼がおもむろに口を開いた。


「君は勝手だな」

「っ」

「富永くんが駄目だったから、僕と元のさやに納まろうと言うの?」

「ちがっ……」

「おじさんをもてあそぶのもいい加減にしろ」


 富永さんと、ちゃんと手順を踏んでうまくいったとしても、きっとわたしは同じ選択をした。とは言えないかもしれない。なんとなく富永さんと、違和感を残したまま付き合って、結婚していたかもしれない。

 たしかに勝手だ、ひどくわがままで、自己中心的で、相手の気持ちなんか考えちゃいない。

 そんな自分の身勝手さは痛いほど分かっていて、だから部長の言うことももっともで、わたしはこの現実を受け入れなければならないのである。

 いつか部長のことを時間が忘れさせてくれて、それで新しい恋をして、そうしてわたしは初めて幸せになれるのかもしれない。

 我慢していた涙がぽとりと床に落ちて、それを追いかけて目が動いたので、部長の手が伸びてきたことに気づくのが遅れた。

 気がついたときには、右側も塞がれていた。


「……」

「……君はほんとうに、不思議だね」

「……え?」

「もてあそばれてもいいと思っちゃう僕が年を食ったのかな」


 ぱちり、とまばたきを繰り返して、部長を見上げる。丁寧に撫でつけてある髪の毛に、理知的な額。少し下がり気味の眉の下の瞳は黒々と意志を訴える。唇が弧を描く。きちんと剃られたひげの名残を連れた肌が持ち上がる。


「まあ、富永くんのことは、いい社会勉強になったんじゃないのか?」

「どういう……」

「君はけっこう分かりやすいと言われない?」

「……?」


 言われる。


「富永くんに恋人がいるのは知っていた。その上で君にアプローチをかけていることも。なので、遅かれ早かれ君は真実に気づいて彼を突き放すだろう。そうしてきっと自分の手のうちに戻ってくるに違いないのだから、少しくらい泳がせても問題ない」

「…………」

「やっぱり、君は悪いおじさんに引っかかったよ」


 片頬だけを持ち上げてにたりと笑う彼に、わたしはもう何も言えずにそのきちんと着こなされたスーツの胸元に額を思い切り叩きつけた。

 よろけて、痛い、と言う彼は、けれど口調が笑っていた。


 ◆

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