第5話 若輩者、恋に溺れる
とは言え、とは言えだ。
「…………」
穴の開くほど部長を見つめている。視線に気づいていないはずはないのに、彼はこちらをちらりとも見ないで仕事に集中している。
わたしはどうしていいのか分からなかった。今までずっと、人生設計図通りに(多少のずれはあれど)生きてきた。今更どうしていいのか、まるで分からないのだ。
「柏原さん、どうしたの?」
「あ、いえ……」
「仕事、手がお留守だよ」
「すみません」
となりに座る先輩に注意され、目を逸らす。パソコンの画面に向き直り、仕事を再開しながらも、悩む。
計画通りに物事が進まないとすぐに混乱して思考停止してしまうのはわたしの悪いところだ。臨機応変さがまるでないのだ。堅物の、どうしようもないレベルの低い勇者。
いや、勇者以下かもしれない。
「……うーん」
昼休みになって、食事を求めてコンビニまで買い出しに行く。そこで、ばったり富永さんと出くわした。わたしは、ふいと視線を外して彼を無視した。彼のほうも、いろいろと察したらしく声をかけてくることはない。
惨めである。すっかりだまされていたことに怒っていたくせに、いざこうして縋られないとなるとさびしくなるのは、惨めである。
適当におにぎりを調達し、仕事場に戻ってくれば、部長も昼食にありつきに行ったのか姿がなかった。席に座り、野菜ジュースをストローで吸い上げる。おにぎりを食べていると、コンビニ袋を提げた部長が戻ってきて、自席に座り食事を始めた。
ひとけのない、閑散とした仕事場で、ふたりきりという空間が、地獄のようだった。
でもきっと、気まずいと思っているのはわたしだけ。
「柏原さん」
「っはい」
慌てて口の中の米粒を飲み込んで返事をする。口元を押さえて部長を見ると、自席からきょとんとした顔でわたしのほうを見つめていた。
「な、なんでしょう」
あったことをなかったことにするのは難しい、ということを、つい先日に学んだばかりだ。わたしは、さりげなさを装えているのかどきどきしながら彼の言葉を促す。
ふと、彼がもの思わしげに眉をひそめた。
「余計なおせっかいかもしれないけど」
「は、はい」
「なぜ富永くんと食事をしないの?」
「……」
心底不思議そうにそう聞く部長に、なぜだか憤りがわいてくる。
富永さんとどういった事情があるのか、彼は知らない。だから怒っても仕方ない。分かっている、それでも、今一番触れられたくないことを、触れられたくない人に、無造作に指紋をつけられている、その事実がわたしの気持ちをひどくざわめかせた。
「……別に」
かろうじて、拒絶の言葉が出てきた。
「別に、部長には関係ないですよね」
「そうだね。だから最初に、余計なおせっかい、と断っただろう」
「余計なおせっかいだと思うなら聞かないでください!」
手の中のおにぎりを床に叩きつけそうになる。怒りに震える手をやりすごし、ぎゅっと下唇を噛んだ。
怒鳴ったわたしをじっと見つめ、部長はしばらく無表情で黙っていた。
「……まあ、そんなことになるだろうとは思っていたけど」
「……?」
睨みつけると、部長の顔が物憂げに歪む。口をへの字に曲げて、彼は言い放った。
「大丈夫、二兎を追う者は一兎をも得ずということわざがあるよ」
それを聞いて、分かってしまった。知ってしまった。
いやでも、声が震える。
「……知ってたんですか」
「まあね。営業部長はけっこうおしゃべりで」
いつから、彼は知っていたのだろう。富永さんの恋人の存在を。
信じられない思いで見つめると、じっと見つめ返されて、言葉を失くす。
これ以上惨めになることなんてないと思った。けれど、部長が事情を知っていたとするならば、彼の目にわたしがどう映っていたのかを想像すると、顔から火が出そうなくらいに情けなくなる。
いつから、なんて馬鹿げた質問はできなかった。ともすれば唇から零れ落ちてしまいそうなその疑問を必死で押し込めて押し込めて、別の言葉を練る。
「……そうですか」
もうこの人とわたしは、ただの上司と部下で、何の関係もないのだから、多くを話すこともない。
この人の顔がいくら頭にちらついたって、声が何度よみがえってきたって、彼とではわたしの望む人生を送れないのだから、意味がないのだ。
「……何を、そんなに我慢しているの?」
「……!」
不思議そうな声色で、彼が問う。それが、ほんとうに察しあぐねているのか、それとも察した上で聞いているのかまではさだかでないが、彼がそう聞いたというのは事実だった。
わたしは何をそんなに我慢しているのだろう。
何を言おうとしたわけでもなく口を開きかけると、仕事場のドアが開いて、同僚数名が戻ってきた。一気に騒がしくなった部屋に、なぜかほっとして、わたしは部長から目を逸らした。
わたしはどうしたいのだろう、何がしたいのだろう。部長にいったい何を求めているというのだろう。
「はああ!」
「か、柏原さん?」
「気合い入れただけです」
「そう……」
となりの席の先輩に不審がられつつも、わたしはぱんっと頬を両手で叩いた。
ぴりぴりと痛い頬、その頬をしっとりと包む細い手指は、少し枯れている。そんなことを思い出してしまった。
「…………はあ」
どうにもならない袋小路に閉じ込められた気分って、きっとこんな感じだ。
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