第3話 こんなに俺様なんて聞いてない!
いつも通り接すればいいのだ。何もなかったとかあったとかを意識せず、いつも通り。
しかしこれがなかなか難しい。ふつう、とはなんだったのか。
どうしても部長相手にぎくしゃくしてしまうわたしに、周囲の人たちがおかしいという疑念を確信に変えるのも、遅くはなかった。
「ねえ、やっぱり部長と何かあったんだ?」
「な、何かって?」
同期入社の子が話しかけてくるのに、しどろもどろに対応する。精一杯、なんのことだか、なふうを装ってみるものの、そんな態度は意味がないようだった。
「たとえば、告白されたとか?」
「されたわけないじゃん!」
「そんな否定のしかた、怪しい」
責任を取る云々の流れは、あれは告白ではないのでわたしは間違ったことは言っていない。けれど、否定したって怪しい、否定しないとクロ、なんてこれはじゃあどうすればいいのだ。
同期の女の子は、ふうんと訳知り顔で頷きながら相好を崩した。
「でも、板倉部長だったら、私ならオッケーしちゃうかも」
「え!?」
この子はわたしと同い年である。自分の父親よりも下手したら年上になってしまうかもしれない板倉部長が、アリだっていうのが信じられなくて聞き返すと、彼女はどこか夢見がちな目をして囁いた。
「たしかに、年はかなり上だけど、その分若い男にはない余裕って言うかさ。包容力とか、経済力とか、そういう条件をすべて満たしてるじゃない?」
「……で、でもさあ」
「まあバツイチで私たちと同じくらいの年の子がいるっていうのが、ちょっと気になるところだけど。……そう考えるとやっぱないかな?」
そうなのだ。部長は離婚歴があって、親権は元妻側にあるが一応こどももいるのである。そこもわたしがあの日のことを一生懸命なかったことにしたい理由の一つだ。
お子さんの年齢や性別など詳しくは知らないが、離婚するくらいなのだから、きっと何かあるに違いない。浮気性だとか、子育てに理解がないだとか、そういう何かが。
とにかく、同期の子の尋問はどうにかこうにかくぐり抜け、わたしはようやくお昼ご飯にありつくのである。
社員食堂で今日の定食をいただいて食器を戻しに向かう途中、前方不注意で誰かにぶつかる。
「失礼」
「……すみません」
噂をすれば影である。同じく空のトレーを持った板倉部長がわたしを見下ろしている。
ぺこっと頭を下げて、早々にその場を離れようとするが、それもむなしく呼び止められた。
「少しいいかな」
「……」
わたしには何もお話することなどありません、と言いたかったが、多くの人が行き交うこの場所でそんな意識しているのが見え見えなことは口にできなかった。
部長のあとをついていくと、彼は倉庫のほうに歩いていく。倉庫なんかで何を……と思ったところで、思考回路が急速回転しだす。
まさかひとけのないところに連れ出して、何か狼藉をはたらくつもりなんでは。一度も二度も一緒だろうとか言って。
「……」
わたしが密かに呼吸を詰めたことに気付いたのか、部長が振り返る。少し距離を取ると、不思議そうに首を傾げて倉庫の扉の前に立った。
「君がなんでもないようにふるまっているから、言おうかどうか相当迷ったのだけれど」
何を言われるのだろう、と身構えると、彼は眉を寄せて苦虫を噛み潰したような顔をした。言おうか言うまいか悩んでいるようだ。
「……あの夜」
ひゅっと息を飲む。蒸し返される、と分かっていても、言葉にされると表情が凍りついてしまう。
「実は、避妊をしていなかった」
「……。……え!?」
青天の霹靂とはまさにこのことである。わたしの驚いた声に、部長が何を思ったかは分からない。
「と、思う。僕は避妊具なんて持ち歩いていないし、ベッドに置いてあったそれらはどれも未開封だった。だから、やはり君がなかったことにしてほしいと言っても、責任は取るべきだと思う」
「……」
「聞きにくいんだけど、その後、どう?」
その、どう、が月のもののことを示していることに、すぐには気付けなかった。
そういうことをしたらこどもができる可能性があることくらい分かっていたけれど、それを突きつけられて頭の中は濁流のさなかにあるように渦巻いている。
「……わ、わたしの」
「……?」
「わたしの人生設計図に、こんな道の踏み外し方、書いてないんです……」
「人生、設計図?」
どうすればいいのだ。好きでもない人のこどもなんか、生みたくない。生まれてくる子に罪がないのは分かっている。でもそんなふうに割り切れない。
それに何より、わたしの人生設計図がこんなところで破綻してしまうなんて、じゃあわたしは今まで何のために勉強ばかりして頑張って来たって言うのだ。
震える声をどうにかこうにか操っているわたしとは対照的に、部長はひどく穏やかな顔をしていて、それが余計に惨めさを煽る。
「人生設計図を、書いてるの?」
「二十二歳で彼氏をつくって、二十五歳で結婚して妊娠し、一年間の休憩をとったのち職場復帰して、ばりばりのキャリアを積む予定なんです! こどもは二人欲しくて、一人目は男の子がいいんです!」
「……なかなか堅実な設計図だね」
「それがなんで!」
「でもそれにはまず大きな穴がある」
「は!?」
「君は今月誕生日だろう。なのにまだ彼氏がいない」
ものすごく痛いところを突かれる。
確かにその通りである。わたしの予定ではもうすでに彼氏がいるはずなのに、もうすぐ二十三歳になろうとしている。男の影などない。
彼は、ため息をついて更に言い募る。
「それにこんなことは言いたくないが、社会はまだまだ女性に優しくない。一年の育休を取って復帰する気なら、そうなる前にすでにそれなりのキャリアを積んで有能な人間になっておかないと厳しい」
「ぐ……」
「堅実なようで、実に夢物語だ」
かっと目尻に熱が溜まる。そこまで言わなくたっていいじゃないか。確かにわたしはまだまだお子様かもしれないけれど、それでもちゃんと自分の人生を考えている。こんなところでそれが奪われていいはずがない。
恥辱で身体を震わせる。部長は、そんなわたしの目を正面から見据えて言い放つ。
「そんな叶いもしない夢物語なら、僕がぶち壊しても問題ないはずだ」
「……は?」
「君が何と言おうと責任は取るし、そうするためにそれなりの手段は取らせてもらう」
まっすぐに、それこそまともにとりあえばすぱりと切れてしまいそうな真剣な目つきで見つめられ、たじろいだ。何を言っているのかいまいち理解ができなくて、すぐには言葉を紡げない。
「今妊娠していようがしていまいが、君を僕のものにする、いいね?」
いやよくないです。
と、頭ではそう返事ができるのに、声にならない。
ぱくぱくと口を開けたり閉じたりしているうちに、部長の手が伸びてきて、さらりとわたしの髪を撫でた。そして靴音を響かせて去っていく。
完全にその音が聞こえなくなって、わたしはようやく動き出す。ぺしゃっとその場に座り込んで、えっ、と声を出す。
「何、今の」
自分の父親よりも年上の男性に、あろうことか、たぶん、求婚された。
髪を触る。少し荒れていたが爪先はきちんと手入れされたてのひらだった。
◆
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