第5話 部長がえっちすぎて卒倒する
おかしい。絶対おかしい。百パーセント、おかしい。
会社のトイレでわたしは便器と向き合いながら、当然用を足すでもなく突っ立っていた。誤解のないよう言っておくが、排泄物の様子がおかしいわけではない。
営業の
これは喜ぶべき事態だ。彼氏にすれば安泰だ。イケメンで仕事も順調で、富永さんは営業上手ということもあって女の子を喜ばせるすべに長けている。
ただ、これを喜ぶべき事態だと考えている自分がおかしいのだ。べき、ってなんだ。
あんまり長々トイレに立っているのも不自然なので、わたしは個室を出て手を洗う。ハンカチで手を拭きながら通路を歩いていると、前方から富永さんがやってきた。
「柏原さん!」
「こんにちは」
「今夜って暇? よかったらご飯……」
「すみません、今日は実家の母が来るので……」
「あ、そうなんだ……」
しょんぼりした犬みたいな顔をした富永さんは、じゃあまた今度、と笑って営業課のほうへ去っていく。
お母さんが今日田舎からうちに泊まりにくるのは事実だ。でも、即座に断るなんてわたしらしくもない。せっかく、イケメン好条件の彼氏ができるチャンスなのに、どうしてこんなに煮え切らないのだろう。
「……」
自分のデスクに座って、指を組み両肘を立てる。悶々と考えるのは、どうしても、あの日わたしに迫ってきた部長の真剣なまなざしだった。
じっと、どこに焦点を合わせるでもなくぼんやりとさせていた目の前で、ふらふらと手が揺れた。
「ハッ」
「柏原さん、大丈夫?」
「……大丈夫です」
隣の席の先輩に心配そうに見られ、わたしはようやく我に返る。わたしは何を考えているのだ。
富永さんのことを考えるのならまだ分かる。なのにどうしてわたしは、部長のことなんて考えているのだ。
それでも考えるのをやめる、というのは難しく、と言うより考えないようにしようと思えば思うほど考えてしまうので、わたしはとりあえず諦める。
作業をしながら部長のデスクをちらりと盗み見る。涼しい顔でパソコンに向かっている。
と言うか、わたしの人生設計図を鼻で笑ったくせにそれ以後それらしいアクションがないというのはどういうことなんだ。ぶち壊してもいいよね、とか言ったくせに。
ぶち壊せよ。
……ん? わたしは今何を……。
「はああ!」
「か、柏原さん?」
「気合い入れただけです」
「そう……」
どうも、調子が狂う。
それもこれも全部部長のせいなのだ。部長が全部悪いのだ。ラブホで最悪の目覚めを迎えてから起こったことは全部、部長が悪いのだ。
だから、わたしが部長のことばかり考えてしまうのもきっと、部長が何かしたのに違いないのだ。
その魔法を部長が解いてくれれば、きっとわたしは富永さんと真正面から向き合えるのだ。
しかしどうやって部長にその旨を伝えればよいのだろう。下手に近づくのは、周囲の目もあるしよくない。ここは、仕事を盾にするべきか。
作業途中の資料で顔を隠しながら部長のデスクの前に立つ。
「あの、部長」
「ん、どうしたの。どこか問題点が?」
「ここなんですけど」
「……?」
我ながら完璧な作戦すぎる。部長に見せるページにあらかじめ、メッセージを書いた付せんを貼りつけておいたのだ。「部長のせいで生活が狂っています。どうにかしてください」。
部長は、目を細めてその付せんを剥がし、まじまじと見た。舐めるように一文字一文字丁寧に目を通してから、彼は顔を上げてわたしに言う。
「これは少し複雑だから、あとで僕が教えよう。難しいけど覚えておいて損はないから。今日少し残れるかな」
「はい……ありがとうございます」
あっさりと、自然に残業を言い渡した部長は、仕事に戻ってしまう。わたしはそのデスクの前に立ち尽くす。
「どうしたの、柏原さん。ほかに分からないところあった?」
「……いえ」
どうしてそんなに平然とした顔をしていられるのだろう。わたしはこんなにいっぱいいっぱいなのに。
そういえばうっかり残業宣言を承ってしまったが、今日は母が家に来るのだ。夕方の新幹線で到着すると言っていたけれど……。
どうしよう、今更やっぱり残業できませんなんて言えない。昼休み、コンビニで調達したご飯を袋から提げながらふらふらと廊下を歩いていると、前方から部長が歩いてきた。これはチャンス。
「あのっ」
「ん、何?」
「今日、田舎の母が来るので残業厳しくて……今お時間ありますか?」
部長が腕時計を見た。その何気ないしぐさがさまになっているのがなんだか悔しくて唇を尖らせていると、うん、と彼が頷く。
「そうだね。じゃあ……ここではまずいし……」
「柏原さん!」
場所を変えようとした矢先、名前が呼ばれる。振り向くと、富永さんが駆け足でこちらに向かって来ていた。
「お昼食べた? まだなら、一緒に……」
「富永くん、だったかな」
「え。あっ、はい!」
びしっと姿勢を正した彼に、部長は涼やかで品の良い笑顔を浮かべて言い放つ。
「今、柏原さんと大事な話をしているんだ。今度でいいかな」
「あ、はい……すみません」
部長が富永さんの名前を知っていたというのが意外だった。営業のホープと言えどまだ新人の域を出ない社員、しかも所属が違うのに。
すみません、と富永さんに頭を下げて、歩き出している部長のことを追いかける。誘導された場所は、彼がわたしの設計図をぶち壊すと宣言した倉庫の入口だった。
「それで」
ふっと部長が歩みを止めわたしのほうを振り返る。びくりと肩が引きつってしまう。
「さっきの付せんのことだけど」
「あ、……あの」
いざ聞かれると、自分の中で考えがまとまっていなくて、もっとしっかり考えてからにすればよかったなあ、なんていう後悔がわいてくる。
うつむいて、ぽつりと告げる。
「部長は……わたしの人生設計図を馬鹿にしましたよね」
「馬鹿にしたわけじゃない。ちょっと見積りが甘いと思っただけだ」
「しました! それで、そんなものぶち壊すとか言いました!」
「言ったね」
「ぶ、ぶち壊さないじゃないですか……」
「……」
ぶち壊されたら困る。けれど、ぶち壊すと宣言しておいてそのまま放置しておかれるのも困るのだ。わたしはどこへも行けなくなってしまう。まるで、波がいつ来るいつ来ると怯えながら浜辺に砂の城をつくったこどものように。
「困るんです……富永さんがああして誘ってくれているのに、ちゃんと向き合えなくて、困っているんです……」
壊すなら、さっさと壊せばいいのに。ぐしゃぐしゃに引き裂いてお前の計画なんかくそくらえだって鼻で笑って、そしてわたしが泣きわめいたって何をしたってそれを足で踏みつけて、あの日見せた真剣な瞳でわたしを見つめていればいいのに。
「はは」
言いながら泣きそうになって口元を手で覆うと、部長がかすかに、笑った。
それはまるで予定調和のような笑い方だった。
「もうとっくにぶち壊されているだろう?」
顔を上げると、部長はにたり、そんな表現の似合う笑みを顔に乗せていた。部下の前で、彼は絶対にこんな意地の悪そうな顔をしない。こんなに品のない口元を見せない。
それはわたしが部下じゃないと言っているも同然だった。
部長が見下すような流し目をわたしに送る。品定めされているような、何かを計算するような。
「君がその人生設計図通りに生きたいなら、僕との問題なんか気にしないで富永くんのもとへ行くべきだ」
「……」
「今ならまだ彼も昼食をとっている途中じゃないかな? 行けばいい」
「……そんな」
柔らかく突き放されて、わたしはどうしていいのか分からずに、地面に根っこを張ったように動けなくなってしまう。そんなわたしを笑い、彼は一歩、近付いてくる。避けようと後ずさることも、できない。
「なぜ君が今動けないか分かるかい?」
「……」
「富永くんと昼食をとることが君の望みじゃないからだ」
「……え……?」
「君が今望んでいるのは、僕に人生設計図をずたぼろにぶち壊されること。そうだろ?」
丁寧に撫でつけた髪の毛。賢そうな額。いろいろなものを見てきたのだろう瞳。高いけれど狭い鼻。唇が緩やかにUの字を描いているのは、笑っているからだ。
一歩一歩近づかれて、あまりに距離が近くなってわたしはようやく後ずさる。それでも部長はひるまずにわたしに向かって歩いてくるので、いつの間にか壁と部長に挟まれてしまった。
スーツのスラックスのポケットに手を入れるなんて、あまりに彼らしくもない動作を取って、わたしがいつでも壁と部長の隙間から逃げられるようにしている。
けれど最初から逃げ場など、なかったのかもしれなかった。
部長が耳元で、わたしに聞こえるかどうかも怪しいくらいのボリュームで囁く。
「君は僕に惚れてる」
「…………」
この人は何を言っているのだろう。言うに事欠いて、わたしが、部長に、惚れている?
そう思うのにとっさの否定もできなくて、わたしは戸惑いを隠せずに耳元に唇を寄せている部長の横顔をじっと見る。丁寧に手入れの行き届いた清潔な、けれどきちんと年齢の分かる皺の寄った目元で、黒目が動いてわたしを捉えた。
「まだ分からないか? 君が今望んでいるのは、僕に設計図をびりびりに破り捨てられて、新しい設計図を書いてもらうことなんだよ」
「そ、んなこと……」
「ありません? じゃあ、僕を押しのけて富永くんのところに行けるね?」
「……!」
部長を押しのけて富永さんのところへ行く。それがわたしの、人生設計図では不可欠だ。そうしないとわたしの望む未来なんて来ない。エリートの恋人をつくって結婚して、それから育休をとって社会復帰して……。
間違ってもこんな親子ほど年の離れた上司に惚れている場合なんかじゃないのだ。
だから今、わたしは腕を動かし足を動かし、ここを離れなければいけないのに。
「……できません……」
「それはなぜ?」
「だって……」
わたしの人生設計図はすでに、部長の手によってぶち壊されてしまっているからだ。
存在しない設計図の中の登場人物を、わたしの人生に招き入れることはできない。だから、わたしは富永さんのもとへ行けない。
諦めて目を閉じると、そこから一筋涙が伝った。
「部長、わたしどうしたらいいんですか」
「黙って僕のものになればいいと思うけど」
見上げるとやはり、部長は人を小馬鹿にしたような、けれどどこか艶めいた、穏やかな表情を浮かべて、わたしの頬に触れた。
◆
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