エピローグ
最終話 しあわせなばけもの
──五十年後、大陸東部。
とある山奥に存在する湖のほとりにて。
麓に出来た比較的新しい
今にも泣き出しそうな、どこか怯えているような表情──心もとない松明を両手で握り締めた少年は、震える声で呟いた。
「ぼ、僕が……化け物を、退治しなくちゃ……」
頼りなく言葉を紡ぎ、下唇を噛み締める。彼は、〝化け物退治〟のためにこの山を登ってきたのだ。
化け物とは、この湖で五十年ほど前から度々目撃されている不気味な生物のことで、そいつは夜になると釣り人の元に現れ、水面から顔を出し、じっと見つめては何もせず去っていく、
体には複数の火傷跡があり、言葉を話すこともないという。
あくまでその存在は噂に過ぎないのだが、少年にはどうしても、この化け物を退治しなくてはならない理由があった。だから彼は、小さな手足で時間をかけて、誰も立ち入らないこの場所までやってきたのだ。
化け物の住処と噂される、このエスメラルダ湖に。
「うっ、うぅっ……怖い……帰りたい……」
不安げに呟き、少年は俯く。気味の悪い森。夜烏が鳴く声。一歩、また一歩と前に進むたび、足取りは重たくなっていく。
やがて、少年はようやく湖へと辿り着いた。昼間はエメラルド色に輝く水面が幻想的で美しいとのことだが、月も出ていない夜の湖は酷く静かで気味が悪い。
ごくり、生唾を飲んで、少年は一歩前へと足を踏み出す。──その瞬間、バシャアッ! と大きな波音が静寂を裂いて響き渡り、水の中に飛び込む大きな影を少年は視界に捉えてしまった。
「うっうわあああッ!?」
心臓が跳ね、絶叫と共に尻もちをつく。
おばけ! 怪物! 食べられる!! と様々な思考が飛び交う中、冷静さを取り戻すことも出来ないまま腰を抜かしていると、ぱきり、小枝を踏み鳴らすような音が耳に届いてまたも大きく胸が震えた。
「ひっ……!?」
息をのみ、涙目で振り返る。だが、少年の耳が拾い上げたのは獣や化け物の唸り声ではなかった。
「……ん? 何だ、子どもか?」
耳に届いた誰かの声。茂みの奥からは少しずつ足音が近付いてくる。
やがて木々の隙間から姿を現したのは、くすんだ金色の髪を片側だけ伸ばして結んだ、一人の若い青年だった。
「え……」
「何だよ、こんなとこに人が来るなんて珍しいな。久しぶりにサリが酒でも持ってきたのかと思ったのに……まあ、アイツももう年寄りだしな」
ため息混じりに呟き、「ガキ、夜にこんなとこで何してるんだ?」と問う青年。ひとまず化け物ではなさそうだと安堵した少年は、緊張しつつ震える声で言葉を返す。
「み、湖に、化け物がいるって、聞いて……」
「はあ? 化け物ぉ?」
「う、うん。僕、その化け物を退治しにきたの。お兄ちゃんこそ、こんなところで一人で何してるの? 絶対危ないよ、この湖には脚のない化け物が出るんだって!」
必死に訴えかける少年に、金髪の青年は嘆息して顎を引いた。
「ああ、脚のない化け物ねえ……なるほど。今の時代ではそんな風に言われてんのか。人魚の存在自体、もう忘れられつつあるんだろうな」
「……にんぎょ?」
「いや、こっちの話だ。気にするな」
やれやれと肩を竦め、青年は身をひるがえした。立ち去ろうとする彼の背中を少年は慌てて追いかける。
深い茂みを抜けた先には、岩場に立てかけてある釣竿と銀の竪琴があった。どうやらこの青年は釣りをしていたらしいが、釣り糸の先にくくり付けてあったのは、針ではなく空っぽの小瓶。
何でこんなものが、と首を捻る少年を差し置いて、地面に座った青年は湖に小瓶を投げ落とす。
「──で? なんでお前は、そんなビビりのくせに化け物退治なんかしにきたんだよ」
とぷり、音を立て、瓶が水底に沈んでいった頃。何気なく尋ねられ、少年は近くの岩場に腰を下ろして答えた。
「……お、お父さんが、ここに住んでる化け物の尻尾を持って帰ってこいって……」
「尻尾?」
「うん。僕ね、養子なんだけど、よくお父さんを怒らせちゃって……化け物の尻尾を持って帰ってくるまで一緒には暮らせないって、家を追い出されちゃったんだ」
続いた小さな声に、ぴくりと青年の瞳が揺らぐ。
松明の灯りに照らされた肌。傷痕が目立ち、十分な栄養を蓄えきれていない痩躯は酷く小さい。おそらく養父からまともな扱いを受けていないのだろう。
──化け物の尻尾を持って帰ってくるまで、一緒には暮らせない。
その言葉の真意をすぐに把握した青年は、眉根を寄せ、目を逸らしながら口を開いた。
「……悪いが、ここの化け物とやらに尻尾はないぞ」
「……え?」
「〝脚のない化け物〟だってのは知ってんだろ? 脚がないんだから、尻尾もない。ついでにヒレも、鱗も、全部ない。……随分と昔になくしっちまったんだよ、アイツのは」
さもよく知っているかのような口振りで呟いて、青年は静かに瞳を伏せる。少年はしばらく黙っていたが、ややあって意味を理解し始めたのか、小さな声を紡ぎ始めた。
「……じゃあ、お父さん、なんで僕に『化け物の尻尾を持ってこい』なんて言ったの……?」
「まだその意味が分からないのか?」
「……僕、捨てられちゃったってこと……?」
悲哀を帯びる子どもの声が、ぽつりとこぼれて消えていく。膝を抱えて丸くなる背中。養父に捨てられたのだと気付いてもなお、愛情を求める子どもの姿。
まるで過去の自分のよう。青年は居心地悪そうに頭部を掻き、岩場に立てかけていた銀の竪琴へと手を伸ばした。
「なあ、お前、歌に興味はあるか?」
「……歌?」
「そう、魔法が宿る特別な歌があるんだ。せっかくだから聴かせてやるよ。……まあ、歌うのは俺じゃないけど」
ポロロン──おもむろに立ち上がって岩場に腰掛け、竪琴の弦を爪弾けば、澄んだ美しい音色が静かな山中に響き渡る。
その瞬間、湖では再びバシャンッ、と何かが跳ねる音がした。「ひっ!?」と尻込みする少年の反応に笑いつつ、青年は演奏を続ける。
「歌うのは、アイツの担当だ」
ぷかり、水面に波紋が刻まれて、先ほど沈めていた釣り糸にくくられていた小瓶があぶくを含んで浮き上がる。
月明かりもないのに淡い輝きをまとって弾けるのは、奏でる旋律に合わせて歌を紡ぐ瓶詰めの泡。翠玉さながらのそれが水の中で弾けるたび、世にも美しい歌声が夜の静寂を彩り始める。
心地よく耳に届いた歌は、少年の胸を震わせた。耳を撫でた歌声がベールのように彼を包み、肌に残った古傷を癒していく。
足元には小さな白い花が咲き、風は優しく肌を撫ぜ、蝶がひらりと舞い踊り、空の星まで七色に輝いて──魔法など一度もその目で見たことのない少年は、幻想的な目の前の現実に感嘆の声を漏らした。
あれほど怖かった夜の山道も、いつのまにか浮かび上がった泡沫の光で淡く照らされ、明るい小道に変化する。今にも大きなカボチャの馬車や、愉快な小人たちが森の奥から駆けてきそうだ。
今まで一度も目にしたことがない光景。
けれど、誰もがよく知っている、空想上の景色。
ああ、まるで。
「おとぎ話みたいだ……」
「言うと思った」
青年は微笑み、竪琴を奏でながら立ち上がる。「お前、名前は?」と問われた少年は、傷の癒えた顔を上げ、柔らかな微笑みを彼に向けた。
「……トーガ」
「……え?」
「僕の名前、トーガっていうんだ。……あれ? お兄ちゃん、どうかした?」
「……あ、いや……。昔の知り合いと同じ名前だったから、ちょっと、驚いて……」
遠い過去の友人を思い出し、金髪の青年はしどろもどろに言葉を紡ぐ。が、やがて緩やかに目尻を下げた。「そうか……」と呟いた彼は自身の喉元を撫で、再び弦に指を滑らせる。
「じゃあ、トーガ。せっかくここまで来たんだ。特別に俺が、とっておきのおとぎ話を聞かせてやるよ」
「え、ほんと? 今度はお兄ちゃんが歌ってくれるの?」
「いいや、悪いが歌はやめたんだ。だから、演奏と語りでな」
ポロロン。美しい旋律は再び湖に響いて、彼の奏でる音色が水の底まで鮮明に届いた。その音を聴きつけた水中の少女は顔を上げ、垂らされていたロープを伝うと慣れた様子で登ってくる。
ちゃぷり、小さな音を立て、子どもから化け物扱いされていた可憐な少女は水面に顔を出した。
そんな彼女の存在になど気が付かぬまま、トーガは演奏に耳を傾け、待ち遠しそうに膝を抱える。
青年はこちらを覗き見ているもう一人の観客を一瞥しながら微笑み、二人に向けて優しいメロディーを奏でると、浅く息を吸い込んだ。
そう、これは、お決まりの冒頭で始まる物語。
「むかし、むかし、あるところに──」
歌をうたって化け物になった、幸せな二人の、まるで魔法みたいなおとぎ話だ。
〈瓶詰めのエメラルド …… 完〉
瓶詰めのエメラルド umekob.(梅野小吹) @po_n_zuuu
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