第23話 おとぎばなしの結末


 ──むかし、むかし、あるところに。

 人魚に恋をした、一人の若者がいました。


 彼は吟遊詩人で、銀の竪琴を持ち、湖にいる美しい人魚のもとへ毎日通います。髪も、瞳も、鱗の色も、エメラルドに輝く人魚でした。


 吟遊詩人は少しでも彼女の気を引こうと、銀の竪琴を使って『魔法の歌』を教わり、湖や街で歌うようになります。ところが、その歌は呪いの歌だったのです。


 聴く者の寿命を少しずつ奪っていき、最後には相手を殺してしまう歌。

 吟遊詩人は知らず知らずのうちに人々の寿命を食いつくし、最後には人魚の寿命まで奪って、彼女を殺してしまいました。


 美しい人魚が彼に最期に遺したものは、エメラルド色に輝く泡の宝玉。吟遊詩人は深く悲しみ、彼女の遺したエメラルド色の宝玉を、大事に小瓶に詰めました。


 人々の寿命を吸うことで永遠とも言える命を得た彼は、千年の時を生きる化け物となり、瓶詰めのエメラルドと共に、森の奥に消えていくのでした──。



 遠い昔。寝る前にウェインが語り聞かせていた、そんなおとぎ話の結末が大嫌いだった。


 〝千年詩人と魔法の歌〟のお話。誰も幸せにならないお話。『不幸な化け物の悲しいお話だ』とウェインは言っていたが、その言葉にも納得がいかなかった。



『そんなの分かんないよ。千年詩人は、きっと幸せになったんだ』



 幼いジゼは主張する。まだ髪が黒く、若々しかったウェインの腕に抱かれて。



『どうしてそう思うんだ、ジゼ』


『知らないけど、でも、俺が千年詩人に幸せになってほしいの。だから、きっと幸せになったと思うんだ』


『はは、そうか』


『だって、千年詩人は千年生きるんでしょ。ずっと死なないんだから、いつか幸せになれるはずだよ。きっとね、長生きしてる間に、また大事な人を見つけるんだ。それで一緒に幸せになるの。毎日お歌を歌って、ずーっとずーっと』



 理想の結末を語るジゼに、ウェインはどこか切なげな微笑みを返した。『……そうだね』と頭を撫でて、彼は問いかける。



『……ジゼは、歌に興味はあるか?』


『お歌? うーん、歌ったことないけど、楽しいなら歌ってみたい』


『そうか。じゃあ、明日からジゼに、特別なお歌を教えてあげよう』


『本当? やったー!』



 無垢に綻ぶ、幼い笑顔。ウェインは柔く目を細め、そっとジゼを抱きしめた。



『すまない、ジゼ。許してくれ……』


『……? なんで謝るの?』


『すまない……すまない……』


『変なの、謝らなくていいのに。俺ね、ウェインがくれるものは、みんな大好きなんだよ。だからね、』



 ──きっと、ウェインがくれる歌も、ぜったい大好きになるよ。



 己が〝人間〟として生きた、最後の日。

 謝り続ける養父に自らが告げた言葉を思い出して──ジゼは、嫌な熱を帯びる自身の喉元に手を添えた。


 荒らぐ呼吸。汗ばむ手のひら。無意識に目が泳いで、先ほど投げかけられたサリの指示が脳内を飛び交う。


 ──歌えよ。


 見えない過去の亡霊が、また背後から手を伸ばす。



「……お前……自分が、どうなるのか……分かってんのか……?」



 震える声で問えば、サリは涼しげに「もちろん」と頷いた。



「言ったろ? 俺は自分の命よりエマの方が大事。だから遠慮なく歌ってどーぞ、ご主人サマ」


「……っ、お前……そんな……」


「俺が貴族に直接手を下せば、故郷に残してきた家族が断頭台に登ることになる。つまり、俺じゃ手を出せない──だったら誰がやる? おや、こんなところに使えるものがあるじゃないか! 便利なあんたの歌が!」



 大袈裟な演技を混じえ、自らの命をなげうつことを暗に宣言するサリ。ジゼはわななく唇を噛んで俯く。青ざめて言葉すら出てこない彼に、サリは続けた。



「そう怯えんなよ。人魚は寿命長いんだから、ちょっとぐらいあんたの歌を聴いちまっても平気だろ? エマさんはさっき蹴っ飛ばして避難させたし、ほら、何の問題もない。のど自慢大会の特等席は俺らが独占してやるよ」


「……っバカ、何言ってんだ……! お前も逃げろよ! お前まで俺の歌を聴く必要ねえだろ!」


「バカはそっちだ、俺が逃げたら誰がコイツ捕まえとくわけ? あんた手負いだしィ、途中でこの貴族様に歌の邪魔されたら元も子もない」



 会話の内容から身の危険を感じたのか、ドビーは焦ったように目を血走らせた。彼は青ざめる唇を震わせる。



「き、貴様ら、何をする気だ……!? 僕を傷付けたらタダじゃおかないぞ!!」


「くくっ、だーいじょーぶだって、傷なんてひとつも残らねえよ。……なあ? そうだろ、ご主人」



 にたりと挑戦的に微笑み、サリは胸ぐらを掴みあげているドビーにわざとらしく頬擦りをした。鳥肌を浮き立たせた彼は逃げようとするが、サリはドビーを捕まえて離さない。



「は、離せ!! やめろ、僕に近寄るな!!」


「ツレねえこと言うなよ、こっちは今から薄汚ねえオッサンとのランデブーに付き合ってやるっつってんだからさぁ。特別待遇だ、そういうの好きだろ?」


「貴様、僕を誰だと思っているんだ!? 何かしたら絶対に許さないぞ!!」


「くくっ、そう暴れんなって貴族サマ。焦らなくても、すーぐ天国見れっから。……だからさぁ、ご主人──」



 抵抗するドビーを捕まえたまま、サリの視線がジゼを捉える。その眼光は底冷えするほどの恐ろしさすら秘め、彼を射抜いた。



「──早く歌えよ」



 ただならぬ覚悟をくゆらせて、サリは低音でジゼを急かす。

 どくり、どくり。心臓が重く音を立てて跳ね回っていた。恐怖からか、躊躇からか、もはや自分では認識がおぼつかない。


 ウェインに貰った魔法の歌。

 それは、人魚に貰った呪いの歌。


 大切な父との繋がり。

 大好きだった歌。

 けれど脆い繋がりは簡単に途切れて、いつしか大嫌いな歌に変わった。


 もう二度と歌わないと誓ったんだ。

 あの日、トーガを殺してから。


 ここで歌うのは、正解か?

 それとも間違いか?



(俺は……)



 自身の肌に爪を立て、ジゼは奥歯を強く噛み締める。サリの瞳は真剣そのもの。その目を見据え、ジゼはひとつ大きな決断をして、腹部の激痛に耐えながら立ち上がった。


 どく、どく、どく。呼吸が乱れ、心臓が早鐘を打ち鳴らす。


 迷いと葛藤を繰り返し、彼はついに、口を開いた。



「……歌う……」


「!」


「よく、聴け……俺の歌は、これが、最後だ……」



 掠れた声でか細く投げかければ、サリの表情が緩やかに綻ぶ。ジゼは苦しげに顔を歪めたが、込み上げる罪悪感を飲み込み、すっと大きく息を吸い込んだ。


 そして、ついにその歌を披露する──という、瞬間。


 不意に口元を強く押さえつけた冷たい手のひらが、ジゼの歌声を遮った。



「……ッ!?」



 ジュウッ──たちまち焦げるような異臭が鼻を突き抜け、ジゼは息を呑んで目を見開く。


 彼の口に強く両手を押し付けたのは、なんと鏡から強引に飛び出してきたエメリナだった。彼女は両手に火傷を負うことも厭わずジゼに触れ、彼が歌うことを阻止する。



「エメっ……!」



 彼女の名を言いさした直後、一瞬で焼けただれた人魚の皮膚がめくれ上がったのが分かった。背筋を冷やしたジゼは咄嗟に距離を取ろうとかぶりを振ったが、動揺して引き剥がした拍子に彼女が鏡の中から飛び出してしまう。


 ぐらり、鏡を離れて遠のく人魚。この場所は、深く陥没した湖跡地へ続く崖のきわ

 落ちれば急斜面の下に真っ逆さま、おそらく無傷では済まないだろう。



(まずい!!)



 焦燥に駆られて咄嗟に手を伸ばすが、あと一歩届かず、触れられない。さらには派手に体を動かしたことで先ほど撃たれた傷が鈍く痛んだ。



「う……!」



 苦鳴が漏れ、魔水鏡ホロウメロウが手から離れて、無意識に視界を狭めた時。


 霞む世界の中で不意に目が合ったエメリナは、あまりに優しい、静かな微笑みを描いていて。



(エメ、リナ)



 掴み損ねた手が、髪が。


 何らかの言葉を告げたのちに、ジゼの元から離れていく。



(おい、待て、どこに行くんだ)



 焼けただれた手のひらが、綺麗な髪が、耳に届かない声が。

 少しずつ遠のいて。



(俺を置いて行くなよ)



 きらきら、鏡から飛び出した水の飛沫が、踊りながら宙を舞う。


 絹のカーテンのような淡い色の尾ヒレが揺らいで、不意に、ウェインがいなくなったあの日の光景が蘇った。



(嫌だ)



 空っぽの小瓶に、他人の寿命ばかりを詰められて生きてきた。

 けれど、その中にぷかりと浮かんでいた翠色の小さなあぶくが、いつしかジゼの孤独を包み込んでいた。


 泡はいずれ水面にのぼって、ぷつりと弾けて消えてしまうものなのに。



 ──お前は人魚を必要とする。



 優しい目をして告げたウェインの言葉が脳裏をよぎり、ジゼは思わず喉を震わせた。



「行くな、エメリナぁッ!!」



 ──ガシャン!!


 声を張り上げたその時、魔水鏡ホロウメロウは手を離れ、ジゼの足元で地面に叩きつけられる。途端に鏡面にはひびが入り、ひとつ瞬いた一瞬のうちに、砕け散った鏡の内部から大量の水が放出された。



「な……っ!?」


「うわあっ!?」



 怒涛のごとく溢れ出した水。瞬く間に津波のような勢いで放出されたそれは、ジゼやサリ、ドビーをも巻き込んで彼らの体を押し流す。



「うわあああっ!!」



 各々が散り散りになり、あっという間に水に飲まれた。ドビーは泳ぐことができないのか、勢いを増す水に流されながら「助けてくれ!!」としばらく叫んでいたものの、無情な大波に攫われて見えなくなる。


 一方のジゼも撃たれた傷の痛みのせいで泳ぐことができず、水流の激しさに抗えぬまま波に覆われて沈んでしまっていた。


 ごぼり、ごぼり。全ての音の感度が鈍くなり、世界がぼやけて、上下、左右、何もかもが混濁し、自分がどの方向を向いているのかわからない。

 激しい水の流れに翻弄された彼は大量の水を飲み込み、浮き上がることすら出来なくなった。


 痛い。苦しい。息ができない。

 不老不死が水底に沈んだら、いったいどうなるのだろう。


 試したことなどない。そもそも自分が本当に〝不死〟なのかすら、ハッキリとした根拠がない。


 ジゼは他人の〝寿命〟を奪っただけだ。不老長寿であることは事実だが、不死かどうかは分からない。致命傷を受けたり、窒息させられてしまっては、いったいどうなるか──。



(ああ……じゃあ、俺……このまま、死ぬのか……)



 遠くなる水面を見つめ、ジゼは回らなくなってきた頭で思案する。

 死にたいと願ったことがないわけではない。けれど、こんなに唐突に死はやってくるのかと、どこか失望にも似た感情が渦巻いていた。


 長い人生の最期を迎え、つい無意識に口走ったのは彼女の名前。発した声は泡になり、届くことなく消えていく。


 ああ、実に滑稽だ。

 今になってようやく、エメリナの気持ちがわかった。


 人の声など、水中では届かない。

 呼びかけたくとも叫べない。


 彼女が地上でそうだったように。


 こんな最期じゃ、何の言葉も伝えられない。

 


 ──ジゼ。



 するとその時、不意に彼の耳は水中に響く己の名前を拾い上げた。そして、美しい歌声も。


 ぴくり、まぶたが震えて、虚ろな眼球が力なく動く。



(この、歌……知ってる……)



 透き通った水の中。吐いては泡になるジゼの声。

 どこからともなく響く歌に合わせて、その口元が懐かしい旋律をなぞって動く。


 この歌を、彼はよく知っていた。恐ろしい呪いを秘めた歌だ。……だが、自分の知る歌とは少し違う。


 水の中で聴いているせいだろうか。呪いの歌だと知っているのに、なぜだか心地よく耳に残って、冷たい水の中なのに、体の芯があたたかい。


 まるで、体の内側に宿る生命の灯火が、燃え盛ろうと躍動しているかのような。



(昔、俺の歌を聴いたトーガは、苦しそうだったのに……)



 溢れ出した涙すら、澄んだ水の中に溶けていく。歌が少しずつこちらに近付いてくる中、水底へと行き着いたジゼの体の周りでは、不思議なことが起こり始めた。


 何もなかったはずの地面には水草が茂り、水中だというのに見たこともない花が咲く。今まで存在していなかった色鮮やかな小魚や、宝石さながらに輝く淡い泡沫までも、楽しげに彼の周りを泳ぎ回っていた。


 自分は夢でも見ているのだろうか。

 それともあの世に来てしまったのだろうか。


 ひとつだけハッキリと分かるのは、耳に届くこの歌が、この場所に魔法をかけているということ。


 新たな生命を、生み出しているということ。



「──ジゼ」



 たちまち夢景色となった、そんな幻想的な視界の中で。

 彼の視線を奪うのは、一等輝くエメラルド。


 水面から差し込む光の粒をまとい、揺らぐ泡沫に囲まれて、幾度も見てきた綺麗な鱗がきらきら光る。



「ねえ、あのね、ジゼ」



 エメリナは歌うのをやめ、ジゼに端正な顔を近付ける。その呼びかけに答えたくとも、水中で紡いだ声などやはり彼女には届かない。


 ただ、儚く泡になるばかりで。



「エメリナ、ジゼに、言いたいこと、あったの」



 ぷかり、ぷくり。泡沫とともに言葉を編んで、エメリナはジゼを抱きしめる。水中で触れ合った肌は冷たいのに、なぜだかとてもあたたかい。薄れゆく意識の中、ジゼは彼女に寄り添い、柔らかなその腕に抱かれた。


 もう、目も開けていられない。



「ジゼ」



 ぷかり、ぷくり。

 あぶくを吐いて、柔く笑って。



「エメリナね」



 ああ、こんなの、まるでおとぎ話みたいだ。



「せかいで、いちばん、しあわせな人魚になれたよ」



 君に触れられて、君に寄り添って。


 君の声が、聞こえるなんて。



「──あいしてる」



 耳心地のいい声が紡いだのは、何百年も恋焦がれ、喉から手が出るほどに欲していた愛の言葉。


 無知なエメリナが、その言葉の意味を真に理解していたのかどうかはわからない。


 けれど、彼女は確かにジゼの望んだ言葉を告げて、二人の唇は、優しい歌と共に水中で重なった。


 エメラルドのあぶくが口内に注ぎ込まれ、ジゼは朦朧とする意識の中、あたたかな魔法うたを嚥下する。


 視界の中の彼女の姿。もはや全く認識できない。

 まぶたも徐々に重くなり、こぽりと力なく泡を吐きこぼした後、ジゼの意識は、冷たい水の中に溶けた。




 *




「──げほっ、ごほっ、ごほ! ……はあ、酷い目にあった……」



 数十分後、水の勢いがおさまった湖の岸辺にて。

 短い赤髪からぽたぽたと水滴を落とすサリは、濡れて肌に張り付く衣服の不快感に辟易しながら顔をもたげた。


 腕の中には、くたりと彼の胸にもたれかかるエマの姿。両肩を負傷したまま水流に攫われてしまった彼女を、サリは真っ先に回収して岸に引き上げたのだった。


 額に張り付く前髪を掻き分け、彼はエマに語りかける。



「ごほっ……はあ、エマさん、大丈夫? 俺の声、聞こえてる?」


「……けほっ……。サリ、くん……」


「あらら大変、意識がないみたいだ。こいつは一大事、誠実な部下である俺が責任持って人工呼吸を──」



 ──ゴツッ!


 白々しくのたまってエマに唇を近付けたサリだが、彼女の強烈な頭突きに顔面を打ち抜かれたことで彼は「いっだァ!!」と叫んで弾き返された。エマは明らかな怒気をまとって眉間に深いシワを刻み、じとりとサリを睨んでいる。



「ふざけないで、このケダモノ。怒るわよ」


「いやもう怒ってんじゃん、超痛い」


「むしろそれだけで済んで感謝しなさい。あなた、さっき私を崖下に蹴り飛ばしたんだからね? 腕が動いていれば百回ぶん殴ってるわ」


「い、いやー、あの時はああするしかなかったって言うかぁ……。ほら、緊急事態じゃん? お願いだから許して? ね?」


「嫌よ、絶対許さない。──だって、あなた……さっき、死ぬつもりだったでしょう……」



 ぐらり、声が少しずつ小さくなり、エマの瞳がわずかに揺らぐ。今にも泣き出しそうなその表情にサリが息を呑んだ頃、彼女は彼の濡れた胸元に弱々しく額を押し付けた。



「……上司の命令も無視して、勝手に死のうとして……始末書じゃ済まないんだから……ばか……」


「……あー、えーと……うん。すみません」


「何がすみませんなのよ、全然反省してないじゃない……どうせ笑ってるんでしょ……」


「いやあ、こんなん笑わない方が無理じゃない? 俺のコワーイ鬼上司が、そんな可愛いこと言うなんてさ〜」



 くつくつと、楽しげにサリの喉が鳴る。エマは赤くなった目尻で恨めしげに彼を睨み、不貞腐れるように再び粗雑な頭突きを放ってその胸に顔を埋めた。


 そんな彼女を愛おしげに抱き寄せた直後、二人の耳は誰かの足音を拾い上げる。



「……おや、すまない。邪魔をしたかな?」


「──!」



 はっ、と二人は顔を上げて振り向いた。視線の先に佇んでいたのは、黒い仮面を被ったローブ姿の男。「騎士長!」とエマは声を張る。



「なぜここに……! 王都にいるはずでは?」


「ああ、少し野暮用でね。人魚の報告を受けたから早めに仕事を片付けてきた。それよりエマ、肩は大丈夫かい? 大変だったみたいだね」


「あ……い、いえ。大したことでは」



 両肩の怪我を指摘され、エマはおずおずと答える。続いて「トレイシー卿は?」と問う声に、二人はじわりと焦燥を覚えた。


 ドビーの姿は、どこにもない。おそらく魔水鏡ホロウメロウの内部から放出された水流に押し流され、すっかり本来の姿を取り戻した広い湖の彼方まで、抗うことも出来ず流されてしまったのだろう。きっと今頃、水の底に沈んでいる。


 ドビー・トレイシーが死んだとなれば、誰かが責任を負わねばならない。暫く沈黙する二人だったが、ややあってエマが重い口を開いた。



「……私の責任です」



 ぽつり、彼女が呟いた瞬間、サリは「おい!!」と声を荒らげる。



「何言ってんだ! 全部俺が──」


「いいえ、私です。部下のサリは古代人の魔法に操られて暴走していただけ。投獄した罪人の監視を怠った私に全ての責任があります」


「エマ!!」


「黙りなさい、サリくん。……大丈夫よ、私に家族や身寄りはいないわ。あなたと違って」



 やんわりと微笑み、エマはサリの反論を制す。到底納得などしていないサリから顔を逸らしたエマは、騎士長をまっすぐと見つめて「責任は全て、私一人で背負います」と断言した。


 強い意志を秘めた瞳。騎士長はしばらく彼女と向かい合っていたが──やがて、かくりと小首を傾げた。



「……はて? 何のことかな、エマ」


「……え?」


「だって、これは不慮の事故だろう? どう見たって」



 騎士長はさも当然のように言葉を紡ぎ、岸に流れ着いていた魔水鏡ホロウメロウの残骸を手に取る。宿っていた魔力が完全に消えているそれを見つめ、彼は続けた。



「トレイシー卿は、自身の人魚を盗んだ罪人と戦い、からくも人魚を取り戻した──が、不運なことにその鏡を取り落とし、誤って割ってしまった」


「……」


「鏡の魔法が解けたことで、貯水されていた水が逆流し、洪水が起こった。トレイシー卿は流されて死亡。人魚と罪人は行方不明。魔法で操られていた・・・・・・・・・サリも元に戻った。……そうだろう? サリ」


「え? ……あ、あ〜、その……はい」



 ためらいつつも、サリは騎士長の唇に載せられたシナリオに同意する。騎士長は満足気に頷き、またも口を開いた。



「となれば、責任は〝魔法〟の対策を怠った騎士団の上層部にあるな。今の時代、魔法の類と対峙する訓練は行っていないだろう? 上の対策不足さ」


「……騎士長……」


「安心しなさい。少なくとも、君たちの首が刎ねられることはないよ。まあ、始末書ぐらいはたっぷり書いてもらうと思うけどね? サリ」


「うげえ……! よ、喜んで書きますとも……」



 げんなりと肩を落としつつ、サリは騎士長の強引な厚意を汲み取って素直に受け入れる。一区切りついたところで「さて」と踵を返した騎士長は、どこかに向かって歩き始めた。



「き、騎士長……どこへ?」


「少しあの子たちと話をしてくる。君たちは療養しなさい、医療部隊に話はつけてある」


「……? あの子たち、って……」



 訝しんだ直後、エマとサリの視線は湖の岩場に座り込むふたつの人影を捉えた。しかし、その目に飛び込んできた光景に二人は言葉を失い、息を呑む。


 硬直した彼らに仮面の下で微笑んだあと、騎士長はまっすぐと、岩場に打ち上げられている彼ら・・の元へ向かった。


 ゆっくりと歩み寄り、やがてその場に辿り着いた時、俯いていた人魚の翠色の瞳が弱々しくもたげられる。視線が交わり、騎士長は言葉を紡いだ。



「……人魚が主題となるおとぎ話の結末は、いつの時代も悲惨なものだね」


「……」


「君は、〝彼女〟によく似ている」



 騎士長は呟き、仮面の下で薄く微笑む。


 意識のないジゼ。そんな彼を守るように岩場に腰掛けるエメリナ。美しかった肌はジゼに触れたことであちこちが焼けただれ、膿んで化膿している。


 膝枕でもするような形で彼を温めようとしていたらしい彼女の尾ひれは、ジゼの体温に触れ過ぎた結果、黒く焼け焦げて崩れ落ち──ほとんど消し炭と変わらない、悲惨な有り様に成り果ててしまっていた。


 ひれも、鱗も、焦げた状態で地面に散らばって塵と化す。もはや、半身の一切が使い物にならなくなっている。


 それでも彼女は、ジゼの傍から離れない。



「懐かしい歌が聴こえたよ」



 尾を失った人魚に近付き、騎士長は告げる。もう自力で泳ぐことも叶わないエメリナは、ただ黙って彼を見上げていた。



「あれは、人魚の魔法の歌だ。遠い昔に私が憧れた、おとぎ話みたいな奇跡の歌。生命の息吹を紡ぐ、美しい魔法さ」


「……」


「あの歌は、人魚が歌うからこそ意味があった。水の中でしか正しく響かない歌なんだ。だから人には歌えない。陸で歌えば、消えることのない永遠の呪いにかけられてしまう──私は、そのことに気付くのが遅すぎた」



 騎士長はゆっくりと屈み、目を閉じて眠るジゼの頭を優しく撫でる。

 撃たれた腹部の傷は癒え、呼吸も穏やかだった。水中で飲み込んだエメリナの魔法うたが、彼の傷を塞いだのだ。



「お前には、人魚が必要だった。私が与えてしまった孤独に長く寄り添えるのは、長寿の人魚だけだからだ」



 慈しむように撫ぜる指先。過去に〝贖罪〟として己が残した片側の長い髪をすくい、頬や手のひらに触れて、昔懐かしい温度のひとつひとつを確かめる。



「すまない、ジゼ。許してくれ」



 顔を隠した仮面の下、長い人生で何度も紡いだ口癖をこぼして、騎士長は立ち上がった。

 ふとエメリナを一瞥すれば、彼女は傷付いた自身の体を労る様子もなく、ただじっとジゼを見つめている。


 その表情を盗み見て──彼は、無意識に口角を上げていた。



「……どうやら、私はひとつ、先ほどの発言を訂正しなければならないようだね」


「……?」


「さっき、人魚の物語の結末は悲惨だと言ったが──君自身の物語の結末は、どんなおとぎ話よりも、幸せなものだったらしい」



 穏やかに語る騎士長。その視線の先には、尾や鱗を失ってしまっても尚、どこか満足げに微笑んでいるエメリナの姿があった。「どうにもうまく締まらないな」と自嘲した騎士長は、身をひるがえしてその場から立ち去っていく。


 戻ってきた静寂。緩やかに流れていく時間。

 エメリナはゆっくりと瞬きを繰り返し、眠るジゼを見下ろした。



「──」



 地上では形にならない声で、そっと彼に呼びかける。返事はなかったが、エメリナは愛おしげに目を細め、また何らかの言葉を発した。


 くすんだ金色の長い髪をすくい上げ、柔いそれに口付けて。彼女は重力に導かれるまま、湖の中へと落ちていく。


 水のしぶきが大きく上がり、散りゆく花弁さながらに、水中ではたくさんの泡沫が舞い踊っていた。


 ぷかり、ぷくり。浮かぶあぶくはエメラルド。

 愛した人の熱により、尾ひれを失くした優しい人魚は、深い水の底に沈んでいく。


 徐々に遠くなる水面を見つめたエメリナは微笑み、泡の花弁に包まれて、その目をゆっくりと閉じるのだった。

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