第22話 肉を喰らわば皿まで
兵舎内の様子が慌ただしさを増したのは、サリと別れてすぐのことだ。
「──おい、大変だ、人魚のいる倉庫で暴動が起きてるらしいぞ!」
「直ちに騎士長に報告を……! エマ騎士長補佐の指示は!?」
「それが部屋にいなくて──」
ばたばたと、矢継ぎ早に言葉を交わしながら衛兵が通路を駆け抜けていく。おそらくサリが時間を稼いでくれているのだろう。転移したジゼは気配を殺して物陰に隠れ、警備が手薄になった裏口に回ると、隙を見て外へと脱出した。
鏡を大事に抱え、岩陰に隠れながら湖跡地の崖へと向かう。兵舎の中は相変わらず慌ただしい様子で、外の警備も手薄になっていた。
今ならば逃げられると確信した彼は、祓魔の仮面を脱ぎ捨てると風向きをよく観察し、いにしえの呪文を唱えて魔法を発動する。
「〝
詠唱した直後、吹き抜ける風を捕まえたジゼの体は勢いよく浮き上がった。
慣れない魔法のコントロールに苦戦しながらも、ジゼはなんとか体勢を保ち、高い崖を登りきる。
とん、と無事に着地して、彼は安堵の息を吐いた。
「はあ……良かった、脱出成功だ。転移先が兵舎の中だった時は焦ったけど、サリが時間稼ぎしてくれたみたいで助かったぜ」
ちゃぷり、鏡面が揺らいでエメリナの反応が返ってくる。どうやら彼女も無事らしく、ジゼは顔を出した人魚に微笑んだ。
「行こうか、エメリナ」
「……?」
「〝どこへ〟って? ……さあ、どこだろうな。一緒にこんな国出て、遠くまで行こうか。もうここに留まる理由も、大金を稼ぐ必要もない。ウェインは、もう、どこにもいないからな……」
最後はどこか気落ちしたようにこぼして、ジゼは振り向く。この近辺は、幼少期をウェインと共に過ごした場所。二百年以上前の住居など、もはや跡形もなく取り壊されているに違いない。
過去を懐かしみながら山道を歩き、ジゼは切なげに目を細めた。だが、その時不意に、彼は思い出した。
遠い昔、ウェインが自分に告げた言葉を。
『──ジゼや。もし、いつか人魚に髪を引っ張られるようなことがあれば、それはお前さんを知ろうとしている証だ。その子を大事にしてやりなさい』
『今はまだ分からないだろうが、いずれ分かる。お前は人魚を必要とする。必ず人魚を求めるだろう』
『お前の左側に残したこの綺麗な髪は、ワシが遺してやれる、最後の贖罪だ』
(贖罪……。俺が、人魚を必要とする……)
ジゼは歩む速度を緩め、眉をひそめる。なんとなく、過去に告げられた言葉に違和感があるように感じた。
ウェインがジゼの髪を、片側だけ切り落とした日。今思えば、あれはトーガと出会う直前ぐらいの出来事だ。
人魚の絶滅は二百年以上前。トーガを殺したのが二百五十年前。ジゼがトーガと出会った時、すでに人魚は絶滅しかけていた。
ということは、『片側の髪を切る』というこの風習も、当時すでにほとんど残っていなかったのではないだろうか。実際、同じタイミングで出会ったトーガの髪は風習に反して短く切り揃えられていたのだから。
(それでも、ウェインは、風習通りに俺の髪を片側だけ長く残した……いつか、俺に人魚が必要になると言って……)
ぴたり。ジゼは完全に足を止め、魚の小骨が喉につっかえているかのような違和感に目を泳がせる。
よく考えてみれば、おかしいのだ。
(何で、ウェインと住んでたあの地下室には……
疑念と共に、穏やかな風が頬を撫ぜる。
ジゼが地下で過ごしていた頃、ウェインがあの鏡を使ったことなど一度もなかった。人魚を捕獲する用途しかない鏡。なぜそんなものが、部屋にあったのだろうか。
過去、自警団に捕まり、この道を引きずられていったウェイン。あの時の悲痛な叫び声が、脳裏に蘇る。
『頼む、あの子を返してくれ!!』
あの子って、誰だったんだ。
『──人魚をワシから奪わんでくれ!!』
人魚って、何のことを言っていたんだ。
足を止めたまま動かないジゼ。鏡の中のエメリナが不思議そうに顔を出す。
翠玉を思わせる無垢な少女の瞳。
その瞳が、いつか見た小瓶の中の硝子玉と、重なって。
「……あの……箱の、中身……」
呟き、ジゼは思い出す。幼少時代を過ごした地下の部屋に、鍵のかかった小箱があったことを。
その中身を覗いた時、入っていたのは、古びた小瓶と翠玉色の硝子玉だった。
彼女が〝言葉〟を紡ぐ際、水面でぷかぷかと浮遊する、あぶくの色によく似ている。
──人魚は泡から生まれてくる。
ふと、最近読んだ書物に記されていたそんな一説も、彼の記憶の扉を叩いた。
「……お前……」
「?」
「まさか、あの時の……?」
二百年以上も前。ウェインと共に自警団に奪われた小箱。その存在を思い出しながら、ジゼはエメリナの髪に手を伸ばす。
ドビーが以前語っていた話では、エメリナがあの屋敷に連れてこられたのはドビーの曾祖父が子どもの頃の話らしい。
つまり、ここ二百年以内の話だ。
「人魚は、泡から生まれてくる……」
「……?」
「あの時、俺が見た、小瓶の中の
確証のない疑惑の解を求めるように。
彼が、その長い髪に触れた──刹那。
パァンッ!
「……っ!」
乾いた発砲音が、森の静寂を無慈悲に砕く。腹を穿つ強い衝撃。ジゼは目を見開き、抗うことも出来ず膝から地面に崩れ落ちた。
落とさぬようかろうじて守り通した鏡面に傷は付かなかったが、腹部を貫通した何かが鏡の端を掠めたらしく、装飾の一部が破損している。
どろり。
ややあって、ようやく痛みを知覚し始めた傷口からは赤黒い血が溢れ、青ざめたエメリナは届かない声を張り上げた。
「──ッ!」
「……っ、ぐ……ぅ……!」
「くっ、くふ……あはっ、あはは!! 実に無様だ、ざまあみろ盗人が!! 性懲りも無く僕の宝石を盗みに来やがって!!」
煙と鉄錆の匂いが鼻先を掠めた直後、耳に届いたのは癪に障る物言いと上擦った笑い声。痛みと息苦しさに奥歯を噛み締めて振り向けば、今しがた拳銃でジゼを撃ったドビーが爛々と輝く瞳に狂気を宿し、いびつに口角を上げていた。
その隣には、なぜかエマの姿まである。しかし彼女も両肩を銃で撃ち抜かれているのか、腕から血を流してだらりと脱力し、苦悶の表情を浮かべていた。
「……お前……っ!」
「あはっ、あはは! 君が人魚を盗みに来ることなんて計算のうちさ! まんまと罠にかかりやがって!!」
耳障りな笑い声が鼓膜を叩く。睨んだ視線の先で目が合ったのは、こめかみに拳銃を押し付けられているエマ。
おそらく彼女の魔力探知を使い、ドビーはジゼの転移先を割り出したのだろう。表情を歪めたジゼは歯噛みし、逃げようと足に力を込める。だが、撃たれた体は思うように動かない。
「……っ、く……」
「おっと、逃げられると思うなよ」
パンッ。またも響く銃声。ジゼは咄嗟に魔法の障壁を作って狙撃を防いだが、先ほどの重い銃弾の痛みが魔力を練る集中力をも奪い取る。
ごぽりと血を吐きこぼし、出血する腹部を押さえて、ジゼは地面に蹲った。
「は……っ、あ……!」
「クククッ、哀れな虫けらだ。惨めに泣いて命乞いでもするといい。大人しくエメリナを返せば、君の命は助けてやるさ。この女の命もね」
青ざめたエマを引きずり、少しずつ近寄ってくるドビー。ジゼの『命』を天秤にかけてくる様子を見る限り、どうやら彼はジゼが不老の肉を食らった古代人であるということを知らないらしい。
どくどくと流れ落ちる、自身の血の赤。呼吸もままならず、無力に苦虫を噛み潰す。
(くそ……っ、最悪だ……! 下手に魔力を使ったせいで、回復が追いつかない……!)
ジゼは被弾したことを悔やみながら、抱き込んでいる鏡の縁を強く握った。気が付けばドビーは目の前にまで迫っており、倒れているジゼを豪快に蹴り飛ばす。
鏡を庇って転がった彼。エメリナは悲痛に何かを叫び、ジゼを守ろうと鏡から身を乗り出した。
しかし、ジゼがすかさず鏡面を自身の胸に押し当てたことで、彼女は無理やり鏡の中に押し戻される。
「──!」
「……っ、ふ……う……! ごほっ……! 絶対、エメリナは、返さねえぞ……」
「……はあァ? 僕のものを盗んでおいて何を言っている? 生意気なんだよ、虫けらの分際で!」
「あぐっ……!」
体重を掛けて傷口を踏みつけられ、五臓六腑がえぐられるような激痛がジゼの体内に突き抜ける。「あああッ……!」と悲痛な苦鳴が漏れる中、血を流しすぎてまともに動けないはずのエマは「やめなさい!」と鋭い声を絞り出した。
ぎょろり、ドビーの眼球が不気味に動く。
「ああ……?」
「その男の、処遇を、決める権利は……っ、我々騎士団が、所有しています……! いくらあなたが貴族と言えど、一方的な暴力を、許可するわけには……」
「うるさいんだよ、血なまぐさいクソアマ! あとで可愛がってやるから黙って見てろ!」
「あぅ……っ!」
突き飛ばされ、エマは受け身も取れず地面に倒れる。両腕の自由を奪われている彼女は立ち上がることすら困難な様子で、浅い呼吸を繰り返しながらドビーを睨んだ。
ジゼはエメリナのいる鏡を守るように抱き寄せたまま、奥歯を軋ませて地面を這いずる。しかし、すぐにドビーが逃げようとする彼の体を踏みつけた。
「うあ……っ!」
「どいつもこいつも僕を舐めやがって……はあぁ、最高に虫の居所が悪い。残念だけれど時間切れだ、汚いゴミ」
こつん。頭部に冷たい銃口が押し当てられる。
ジゼは土を握り込み、焦燥をあらわにドビーを見上げた。
「僕のコレクションに手を出したこと、後悔しながら死ぬといい」
「やめっ──」
──パァンッ。
銃声が鼓膜を叩き、微かな火薬の匂いが鼻腔に入り込む。エマはひゅっと息を詰めたが──しかし。その視界を不意に飛び込んできた黒い背中が遮り、鈍色の一閃が風を切ったことで、軌道の変わった弾丸は何も無い地面を撃ち抜いていた。
焦げ付くような殺気を纏い、風に揺れる短い赤髪。
今まさに頭部を撃ち抜かれようとしていたジゼの窮地を救いにきたのは、先ほど兵舎で別れてきたはずのサリだった。
「……っ、サリ……!」
「おーいおいおい。部屋に閉じ込めてたエマが居ないから探しに来てみれば……なーに早速捕まってんだよ、
彼は浅く嘆息し、倒れ込むジゼに目を細める。
「あーあ、腹撃たれてんのか。痛そー。……で、うちの姫様も負傷中、と」
地面に転がるエマを一瞥し、サリは凍てついた瞳でドビーと向き合う。特別な言葉は何も発しなかった彼だったが、その目の奥には明確な怒りと殺意の色がけぶっていた。
露骨な敵意にドビーは嫌悪感をあらわにし、「何だ貴様、その反抗的な目は?」と圧をかける。一方で、普段のニヤケ面が嘘のように表情ひとつ変わらないサリ。
その態度も気に入らないのか、ドビーの形相は憤怒に染まり、更なる苛立ちを蓄積させていく。
「おい、貴様……この僕に逆らうつもりか!? 騎士団に金を援助しているのが一体誰だと思っている!? こっちには銃だってあるんだぞ! 魔法文明の崩壊後、最も殺傷力の高いと言われる最高峰の武器さ! たった一発で貴様ら全員を瀕死に追い込める!! そこで転がってる女みたいになりたくなければ逆らうなよ、ああ!?」
「はあ……これだからやだね、貴族ってのは。武力と権力が絶対だと思っていやがる」
「ごちゃごちゃと何を──、ひっ!?」
ビュンッ。風を切ったサリの剣が躊躇なく縦に振り下ろされ、ドビーの構えていた銃はあっけなく分離された。まさか本当に攻撃されるとは思わなかったのか、腰を抜かした彼は情けなく地面に尻餅をつく。
サリは無表情のまま、こつり、こつり、一歩ずつドビーに近付いた。
「……っ……く、来るな! やめろ! 僕に何をするつもりだ!? ぼ、僕を殺したら、どうなるのかわかってるのかぁ!?」
「よーく分かってるよ。貴族殺しは国一番の大罪、当人どころか親兄弟全員監禁して拷問した上、みんな仲良く打ち首だ。俺も過去に何人の首を縛り上げたか」
「ひいッ!!」
ドスッ。ドビーの内腿の
「──サリくん!!」
しかしその時、そばで倒れていたエマが焦燥をあらわに声を張り上げたことで、彼はぴくりと反応を示した。
「……っ、だめよ、殺しちゃ、だめ……! 貴族を殺せば、あなたの妹や弟達まで死ぬことになるのよ……っ! 馬鹿な真似、しないで……!」
「……あー、そーだね、あいつら悲しむだろうね。俺の妹と弟、エマさんのこと大好きだし」
「サリくん、お願い……殺すのは、やめて……」
プライドも捨てて地面を這いずり、掠れ声で懇願するエマ。上司の必死の訴えを耳で拾い上げつつ、サリは無言でその場に立ち尽くしている。
しかし、程なくして彼は目尻を緩め、その口角をわずかに持ち上げた。
「うん。大丈夫。殺さないよ」
「……サリ、く……」
「
カラン。
意味ありげに付け加えて、彼は持っていた剣を遠くに放り投げた。深く陥没した湖跡地の崖下に投げられた剣。急斜面を滑り落ち、やがて視界の中から消えてしまう。
想定外のことに面食らった一同を差し置いて、サリは微笑み、地面に倒れ込むエマの元へ歩み寄った。
「なあ、エマ」
「……サリ、くん……?」
不気味なほど穏やかな笑みを浮かべ、エマに近付く彼。こつり、彼女の目の前に立ちはだかったサリは、笑顔のまま片足を振り上げた。
「──そこ邪魔」
ゴッ!
次の瞬間、あろうことか彼は上司であるエマを全力で蹴り飛ばす。何の抵抗もできずに「あぐっ……!」と呻いた彼女は、サリが先ほど投げた剣のように深く陥没した急斜面を滑って転がり落ちていった。
ジゼは腹部の出血を押さえながら目を見開き、「おい!?」と思わず声を張る。サリはエマが滑落していった方向を黙って見つめたのちに、ジゼへと視線を移した。
「お、お前……っ! 何してんだよ!?」
撃たれた傷の痛みに顔を歪めながらジゼが問えば、サリはあっけらかんと答える。
「別にぃ? 邪魔だったから退場してもらっただけ。両肩撃たれてるみたいだし、この斜面下に落とせばもう登って来られないだろ」
「はあ……!? な、何、言って……お前、あの女が大事だったんじゃ……!」
「うん、大事だよ。俺の命より大事。……だから、アイツがここに居たら邪魔なんだよ」
最後は些か言葉尻を弱めて、サリはいまだに腰を抜かしているドビーの胸ぐらを掴み上げた。顔面蒼白の彼は「ひい……!」と露骨に震え上がり、何を考えているか一切わからない目の前の男に畏怖の念を強く覚えている。
くすり、サリは目を細めて笑った。
「ほら立てよ、我が国を支えてくださる高尚な貴族様とやら。今から最高のショーが始まるんだぜ? 大いに偉ぶって喜びたまえ」
「……は、はあ……!?」
「嬉しいねえ、ここが最高の特等席だ。なあ、古代人。あんたは飲み込んでくれたもんなァ? 俺の〝
にたり、意味深な言葉を投げかけて、サリは不敵に笑っている。彼の言う〝条件〟──その真意に気がついたジゼは、背筋にぞわりと冷たいものが這う感覚を覚えて息を詰めた。
『──出獄後、あんたが俺の指示にぜーんぶ従ってくれて、尚且つ
獄中で差し出され、有無も言わさず飲まされた
それがようやく本当の姿を現した瞬間、まるで目に見えない死神が、己の首に鎌を充てがっているかのような戦慄が襲ってくる。
「お、前……まさか……」
震える声を絞り出せば、サリは何の躊躇いもなく答えを紡いだ。
ただ一言。
されど、一言。
「──歌えよ」
憎らしいほど平然と、明るく、悪魔は笑う。
ジゼの喉に、むせ返りそうなほどの腐肉を押し込んで。
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