おわりに(後編)

 ところで、天武天皇が蘇我宗本家の人物であったなら、何故 乙巳の変で亡くならず 生き残れたのか 疑問が残る。

 蘇我宗本家は 入鹿が暗殺された後、その父 蝦夷が味方に背かれた末、やかたに火をつけ 自害し その歴史に幕を下ろしたとされているが、どのようにして その禍から逃れることに成功したのか?

 ここで考えなければならないのは、乙巳の変という大事件が 果たして どれだけの支持を得られたかということだろう。換言すれば、 暗殺者テロリストの言い分を周囲の豪族がどこまで聞き入れたのか?

 おそらく、蘇我入鹿が暗殺された直後は、彼に対する少なからぬ不満から狂騒的な状態となったことであろう。その狂乱は、更なる流血を招かずにはいられなかった。大方、その流れの中で、入鹿の父 蘇我蝦夷は 命を落としている。

 けれど、その混乱が収束し 冷静になった後、一体 誰に政事を委ねればよいだろう? 要人暗殺をこととする政治未経験の若造にそれを任せるなど論外だ。その時、蘇我氏への回顧すら起きたのではないかと私は想像している。

 そして、変の最中さなか、その事態に思いを馳せ、入鹿の子の助命と引き換えに、蝦夷に 覚悟を問うた者があったのではないかと私は愚慮している。

 もしこの時、徹底抗戦を選択していれば、 一族が全滅してしまう危険性がある。蝦夷の死は もはや避けがたかったが、子供の命はまた別だった。蘇我氏の舘に一旦 集まった軍衆は このとき の説得により退去しているが、それも 、軍団を温存して 入鹿の子の生命をまもる可能性を少しでも上げるための策であったかもしれない。

 そうして、私は この人物の寿命がもう少し長ければ、白村江の敗戦も起こらなかったのではないかと夢想している。かの人物の名は"巨勢徳多"。彼は 乙巳の変後の主上 孝徳天皇(第36代)とその次の斉明女帝(第37代)の時代、左大臣として活躍しており、また、非公認ではあるものの、 (『尊卑分脈』)。

 徳多は 658年に亡くなっているが、天武天皇は その即位後、徳多に対する多大なる恩義に、最高位を叙勲する形で報いたのではないだろうか? 天武は 壬申の乱の功労者などにも 高位の死後贈位を多数 行っていた。

 "徳多"という名にも 何らかの想いが込められていると私は思うが、彼は 蘇我政権のとも言うべき存在であり、彼の目が黒いうちは、中大兄皇子も中臣鎌足も 勝手なことは出来なかったのではないかと私はニラんでいる。

 その辺りの細かいところは "大化の改新"を採り上げる際に、詳しく述べたいと思うが、一つだけ述べておけば、孝徳天皇の皇子 有間皇子が 中大兄皇子に粛清されたのは、巨勢徳多が亡くなった後のことであった(658年)。

 なお、天武自身が 中臣鎌足を抑えられなかったのは、。彼は 大方 蘇我氏の関係者であり、天武にとっては目上にあたる存在だった。


-紀元7世紀、この国は激動の最中にあった。6世紀後半 中国で統一王朝が誕生し、その存在が周辺諸国を脅かした結果、大国の脅威に対処するため 各国は慣習・因襲ルールの変更を迫られた。その影響は この国にも及び、幾多の改革が試みられている。

 7世紀半ば、韓半島の蓋 高句麗では 政変が起き、それが周辺に波及したとも賢察されている。一説には、このとき 高句麗で政権を握った淵蓋蘇文が天武天皇の正体ではないかと臆度されていた。

 なれど 私は、この国では 政権交代ではなく 王朝交代が起きたと愚考している。この国は 大陸と海を隔てられており、各国とは異なった路線をとることが可能だった。それ以前の段階で、一度 王朝交代という形で外圧と相対していたことも、その選択に大きく影響したものと私は目算している。

 この時期 その特性を活かし、現在にもつながる国づくりが行われたが、"日本"という国号や"天皇"という称号もこの頃に誕生。閉鎖された地域の中で、"和"をたっとび、敗者に対する鎮魂も行われた。逆賊とされる蘇我入鹿の墓は 破壊されず、現在も花が手向けられている。

 蘇我氏は 海から獲れる秘宝 翡翠ひすいを重宝していたと推測されているが、三種の神器の一つ 八尺瓊勾玉やさかにのまがたまは おそらく翡翠製。蘇我氏は 大方 天皇家と並ぶ高貴な一族であり、二度 至尊の座に就いたが、いずれも短命に終わった。

 蘇我氏が登極したのは、多分 国難に際してであり、その度 この国を窮地から救ったが、一部のかたくなな人々には 到底 受け入れられず、その即位は無かったこととされた。そして、実際には誕生していたの存在を隠したことが、それを忌避する現在の気風に繋がっているのではないかと私は揣摩憶測している。

 翡翠は 古代日本において 重宝されていたが、奈良時代以降は見向きもされないようになる。奈良時代とは すなわち天武の血統をいとい、皇室の女傑が統をたもつために奮闘した時代。かの宝物ほうもつは、その時代の男系の血統とともに 歴史の表舞台から姿を消したのであった。

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天武天皇は"蘇我入鹿の子"である。 営為つむぐ @eiitsumugu

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