おわりに(前編)

 壬申の乱の勝者 天武天皇(第40代)の正体に関する見解の中に、天武を"忍者"だったとする説がある。天武は「天文遁甲をくした」とされているが、ここで言うところの"遁甲"が 忍術だと高察されていた。

 激動する時代のうねりの中で、先帝 天智天皇(第38代)は帰らぬ人となっているが(671年)、一説には 天智は暗殺されたのではないかと囁かれている。この時期、韓半島の国家である百済や高句麗が相次いで 大国 唐に滅ぼされていて(660年、668年)、指導者の判断いかんによっては この国も亡国のみちを辿る恐れがあった。この時代から約400年後に完成した歴史書には、とする奇妙な記述も存在していた。

 仮に暗殺が事実だった場合、どのようにして暗殺が実行されたかだが、天武(即位前)が自ら指揮を執ったのではないかと推測されている。彼には それを実行する能力があり、また、いかに 天皇が判断を誤ったからと言っても 部下が大逆を快く引き受けるとも思われなかった。そして 恐らく、天智天皇の遠乗りの情報を入手ゲットし、気脈を通じた現地の有力者と結託して 彼は天智天皇を亡き者にしたものと概して探究されている。

 余聞だが、忍者を初めて使ったとされるのは、古代史の著名人 聖徳太子である。私は、この聖徳太子こそが 天武が崇敬する蘇我第一王朝の主上であったと当たりをつけているが、聖徳太子と蘇我馬子が編纂した歴史書は 蘇我宗本家が滅ぼされた"乙巳の変"の際に、あらかた失われていた。


 正史『日本書紀』において、蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)は、中大兄皇子こと天智天皇と藤原氏の祖 中臣鎌足なかとみのかまたりの活躍の舞台となっている。

 だが、史書編纂を命じた天武帝の立場からすれば、先代の悪行を挙げ連ねたいところ。ここで言う先代とは 天智天皇のことであり、実際、乙巳の変で実権を握った中大兄皇子が 有力な対抗者や重臣らを粛清したり、苛酷な土木工事を行い、怨嗟の声が上がったことが正史に記されていた。

 では、何故 天智の活躍の場面がそこに残されているかと言えば、まず最初に考えられることは それが単なる事実であった可能性だ。

 されども、変で活躍している人物達の素姓を鑑みると、どうも 何らかの意図や宣伝プロパガンダがあったことが勘繰れる。彼らの子供達は、実に 天武の次代の権力者であった。思うに、

 ならば、そこには どんな意図が込められているのか? 私は、自分達の血統の正当化は勿論のこと、その他、があったのではないかと愚察している。

 乙巳の変に 遁甲を能くする天武は登場しないが、それは 彼が本当は蘇我氏の人物だったからであり、彼 もしくはその息子 高市皇子を"逆賊"蘇我入鹿に見立て、自分達(持統天智の娘藤原不比等鎌足の次男)を中大兄皇子と中臣鎌足になぞらえ、過去の出来事の中で華々しく仇敵を倒すことによって溜飲を下げたのではないだろうか? 乙巳の変の対立軸は、壬申の乱の際,ひいては その後の時代にも存続していたものと私は検討している。

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