5.桜の樹の下には

「馬鹿にしやがって!」


 呪詛にも似た言葉を吐きながら、男はアオイのカラダを思い切り足元に叩きつけた。殻にヒビが入る音に紛れて、アオイが付けていたガスマスクの留め具が外れて吹き飛ぶ音がする。


「アオイ!」

「ざ、ざまぁみろ。俺を、俺を馬鹿にするからだ!」


 男は興奮気味に爛れた口を笑みに変えるが、ミトウはそれを見て不機嫌に舌打ちを零した。アオイの体は微動だにしない。数メイトル後方に転がったガスマスクは、その衝撃で警報装置のスイッチが再び入ったらしく、今やどこにも存在しない小鳥の鳴き声をか細く鳴らしていた。


「調子に乗るなよ、適合者。毒がなきゃ何も出来ない癖に」

「うるせぇ! 俺は毒に選ばれたんだ!」


 溢れ出す毒の影響か、男の肩から腕にかけての筋肉が膨張する。表面からは見えないが、骨もその膨張に耐えうるように変化している筈だった。適合した者には無限の可能性を与える毒ガス。それに「選ばれたい」と思う者はいくらでもいる。


 男が踏み出したと同時にミトウは地面を蹴った。男は小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、叩きつぶそうとするかのように両腕を振り上げる。だがその動作は、腕を振り下ろす直前で停止した。血走った眼がミトウではなく足元に向けられ、そして驚愕に見開かれる。そこにはガスマスクをつけていないにも関わらず、平素と変わらぬ状態のアオイが、しっかりと男の脚を掴んでいた。


「な、なん……」

「サムライとの仕合で余所見をするな」


 ミトウがそう言いながら間合いに入り込み、剣を袈裟懸けに振り下ろす。風を切る澄んだ音と共に、二人の間にあった毒ガスが真っ二つに裂けた。男は今まで浮かべていた表情に、今度は困惑を混ぜこむ。


「毒ガス……を……斬った……?」


 顔を反らし、体を反らし、男は仰向けに倒れ込む。肩から脇腹まで刻まれた裂傷から真っ赤な血が吹き出したのは、数秒遅れてのことだった。ミトウが腕を振るとカタナは元のロッドへと戻り、刀身であった部分には血曇り一つなく、その向こう側の桜並木を透かす。


「死んだ?」

「味も素っ気もない言い方をするなよ。侘び寂びって知らないか?」

「はいはい、サムライと違って情緒がなくてすみませんでしたぁ」


 立ち上がったアオイは、倒れた男の顔を覗き込む。白目を向いて口を開いたまま男は絶命していた。溢れ出した血が段々と地面に染み込んでいくのが、微かな照明でもよく見える。


「ミトウ、これじゃ桜の木に血が混じっちゃいそうだよ」

「いいんだよ。美しい桜の木は人の血を吸ってるって昔から言うんだ」

「何それ、気持ち悪い」


 アオイは落ちていた自分のガスマスクを拾い上げると、留め具が完全に破壊されているのを見て眉を寄せた。


「気に入ってたのに」

「お前、使わなくても平気なのに何でいつも付けるんだ?」

「伊達眼鏡と一緒だよ。伊達ガスマスク。それに抗体者だって他人にバレると厄介だ。脂ぎったオジサンやトリガラみたいなオジサンがボクを解剖するかもしれないし」

「お前の中の研究者のイメージ、偏りすぎだぞ」


 ミトウは周囲を見回して、被害状況を把握する。桜の木が数本曲がり、地面にヒビが入っている他に大きなダメージは無さそうだった。邪魔な死体が一つ転がっている事実は、この際見なかったこととする。


「さっさと直して、師匠に報告に戻るか。機嫌が良ければ酒奢ってくれるかもしれないしな」

「ボク、アイスソーダがいいな。可愛いサクランボ浮いてるやつ」


 サムライと義肢屋はそれぞれ勝手なことを言いながら、穴を埋めるための準備を始める。人を狂わせる毒ガスと、狂わされた死体と、美しい桜の花。そのアンバランスな美しさが何処までも続きそうな夜だった。



END

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カナリヤが鳴くとき 淡島かりす @karisu_A

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