オリンピックの奇跡

プラナリア

オリンピックの奇跡

オリンピック延期。

居酒屋のTVに映るニュースキャスターの、沈痛な面持ち。

言葉が出ない。隣の彼も、細目を見開いている。

奇跡は、起きなかった。

反故になった約束。

三年間の日々。


***


給湯室の扉を閉めた途端、視界が滲む。

最後の最後に、痛恨のミス。

悔しい。今までの、努力は。

食い縛った歯の奥で嗚咽が漏れた。

「あっ……」

背後の声に振り向く。闖入者はポットを抱えた男性。細目を精一杯見開き、私より狼狽えている。思わず睨み付ける。

早く出ていきなさいよっ!!

沈黙。交錯する視線。

「あの……」

おずおずと彼が差し出したのは、何故かポケットティッシュ。普通はハンカチなのだろうけど、現実的には断然ティッシュがいいと思う。そっと涙をハンカチで拭うより、心おきなく鼻をかむ方が後腐れなく笑えそうだ。場違いなミッキーのイラストが私に微笑む。

「よかったら、どうぞ。差し上げますので」

ぷつん、と何かが弾けた。

彼に、私はつかつかと迫った。怯える首根っこを掴む。

「今晩、付き合いなさい」


「あー、もう嫌!!」

高架下の居酒屋は、前のグルメな上司が教えてくれた穴場だ。風情はあるが雰囲気は無い。職場の知り合いはまず来ない。細目は小柳と名乗った。同じフロアだが、課が違い接点は無かった。年下の彼は辛抱強く耳を傾けていたが、私が黙ったところで呟いた。

「葉月さんとしては、やるだけやったんですか?」

横目で見やる。細目の表情は読めない。

「やりきったわ」

小柳の口元がはっきり笑みの形を刻む。

「じゃあ、いいじゃないですか」

「どこが?」

「結果がどうあれ、やりきったならそれでいい」

「……意味が分からん」

生ビールが苦い。小柳は、ぽつぽつと語りだした。


昔、陸上をやってたんです。マラソン。コースがあるじゃないですか。真っ直ぐな道、曲がり道、上り坂、下り坂。平坦な道はあり得ない。どこをどんな風に走ろうか、考える。うまくいく時もある、失敗する時もある。じゃあ、次はどんな風に走ろうかなって考える。その過程が楽しいんです。一番悔しいのは、自分に負けた時。まだやれるって思うのに、やりきれなかった。それが一番悔しい。惨敗だったとしても、努力してやりきったって思えたら、なんだかんだで受けとめられるんです。次に向かえる。


「……やりきった、けど」

私は視線を落とす。

「誰かに褒めてほしかったですか」

小柳は優しく頬笑む。

「『自分で自分を褒めたい』って言葉があるでしょ。有名な、メダリストの。僕はあれ、ほんとだなって思うんです。誰も気付かなくても、自分は自分の努力を知ってる。自分は褒めてあげられるなぁって」

それに、と小柳は付け加えた。

「きっと、周りも葉月さんのこと、見てますよ。会ったばかりの僕にだって、あなたが一生懸命だって伝わるんですから」


コイツ。

私は小柳を睨みたくて、でも気付いたら見つめてしまう。

小柳は視線に気付かない。とろとろに煮込まれた角煮を、黙々と食む。

「ここ、美味しいでしょ」

「はい、初めて来ました」

「女一人じゃ来にくくてさ」

声が上ずらないよう祈る。勇気を振り絞る。

「また、付き合ってくれる?」

僕でよければ、と小柳は笑った。小癪なくらい、何でもないように。


デート特集のお店は無視。高架下へと急ぐ。

タイトスカート、甘めのワンピース。緩めのパーマ、うなじが露なショートカット。

躍起になる私。常と変わらぬ小柳。

「ねぇ。好きな人とか、いる?」

直球を投げてみる。

小柳は視線を泳がせた。

「……川内優輝さん、かなぁ」

「だぁかぁらぁ、誰よそれ!」

「知りません?有名な公務員ランナーですよ」

ほんと、何やってるんだか。

「今月のお勧め、とうもろこし焼酎って何?それ下さい!」

詳しくなるだけ、酒の銘柄。

「好き、ですねぇ」

小柳が呟く。私の心臓が止まる。

「本当に、お酒好きなんですねぇ」

にっこり笑った小柳の、足を思わず蹴りつける。本気で痛がるのを尻目に、メニューで顔を隠す。視界が歪む。

いつだって吹っ切れる、こんな奴。


「あー、もう嫌!!」

続けざまにグラスを空にする私を、小柳はおろおろと見守っている。

うまい具合に告白されて付き合った同期とは、二週間で破局した。

ダイニングバー。夜景。ワイン。絵画みたいにキレイな一皿。話上手な彼。

それなのに。

心はいつもの居酒屋に飛ぶ。赤提灯、喧騒。焼酎、おでん。黙って微笑む細目。

吹っ切れる、はずだったのに。

自己嫌悪と罪悪感。気持ちはぐるぐる、視界もぐるぐる。

突っ伏した私に、小柳が呟く。

「葉月さんみたいな人が隣にいてくれたら、それだけでいいでしょうにねぇ」

それをお前が言うか。

小柳の視線が逸れた。店のTVに映ったニュース。オリンピックまであと三年だと、ニュースキャスターは嬉し気に語る。


オリンピックの話をしたことがあった。

興味ない、と言い切る私に小柳は苦笑した。

「勿体無いですね」

「小柳は陸上好きだから観て楽しいんでしょ」

それもありますけど、と考えこむ。

「一世紀も続いてるって、凄いなぁって。世界規模のイベントですよ?会場の建設からですよ?数えきれない人々が携わって、きっと毎回波乱万丈ですよ。報道されるアクシデントもあれば、表に出ないトラブルもある。TVに映らない、名前も出ない、本番を会場で観ることも無い、無名の人々の努力で受け継がれていく」

訥々とつとつと語る小柳。その横顔を見つめてしまう。

「オリンピックは奇跡です。当日だけじゃ無くて、そこに至る過程も含めて。待ち望む人々、祭典のために奔走する人々、たゆまぬ努力を続けるアスリート達。人々の積み重なった想いが、奇跡を起こす。それがこの国で、みんなで味わえる。幸せだと思います」


人々の想いを積み重ねて。

4年に一度の奇跡。


私の想いも、積み重なっていくかな。

奇跡を、呼ぶかな……。


カウンターが指定席の二人。視線はいつも、一方通行。交わることは無い。


ねぇ、私を見て。


「三年経ったら」


私の呻きに、小柳がTVから振り向く。


「オリンピックまで独身だったら、小柳と結婚してやる!」


小柳の細目が見開かれる。

小気味よくて、笑った。

「冗談よ」

「……飲み過ぎですよ、葉月さん」

小柳がお冷やを頼み、私に手渡す。溢れそうな想いごと、飲み込んだ。


大残業のある日。やっと帰宅できると席を立ち、まばらなフロアに小柳の姿を見つけた。一人残った背中。

「まだやるの?」

疲れた様子の小柳は、それでも笑って振り向く。後輩に泣きつかれ、代わりに資料作成中らしい。

見れば小柳の書き込みばかり。最初から丸投げされたんだろう。

「手伝うから寄越しなさい」

狼狽える小柳を無視し、奪った資料をデスクに持ち帰る。もう一度PCを立ち上げる。

丁寧に書き込まれた小柳の字。

後輩は、何食わぬ顔で完成した資料を提出するのか。

コイツはいつも要領悪くて、回り道をして、でもその分、人より多くを積み重ねていくのだろう。

表に出なくても、分かる人には分かる。きっと。

「おかげで、間に合いました」

完成した資料をきちんと揃え、礼を述べる彼に憮然として告げる。

「さぁ、飲みに行くわよ!」

「……今から、ですか?」

彼へのエールを込めて、乾杯した。


***


オリンピック延期。切迫した事態は、日常を一変させた。会社も雲行きが怪しくなり、スーパーの商品棚が空っぽになっていく。

不要不急の外出禁止。

私はさっきから、LINE上の小柳を見つめて躊躇している。

会いたい、と言えば「こんな時に飲み会ですか」と咎められるだろうか。

積み重なった想いが、彷徨う。

泪が零れた。

私たちは、このまま、なのだろうか?



店内は、空席が目立った。

小柳が指定したのは7月24日。

開会式だった日。

カウンターの背中は憔悴していた。無言で隣に座る。

「もう、会えないかと思いました」

そうね、と呟く。まだ事態は収束していない。私たちの街でも多くの感染者が出て、近隣の県からは行来が禁止されたまま。今年のお盆は、帰省出来ないかもしれない。会社はテレワーク。不安な噂だけが飛び交う。

数ヶ月ぶりの生ビールが、沁みた。

「ずっと考えていました」

客は一、二杯で引き上げていき、私たちだけが残された。店主のおじさんは、マスク姿で黙々と料理している。

「僕は、葉月さんに気紛れで声をかけられたんだって自分に言い聞かせてた。最初から、このコースを走るまいと思ってた。でもどこかで、奇跡を待っていた。オリンピックがやってきたら、奇跡が起きるんじゃないかって。……そんなもの、起きなかった」

私は俯く。あの頃、当たり前だと思っていたものは、遥かに遠い。

「気付いたんです。誰かが奇跡を起こすのを待っていたけど、でも、奇跡を起こすのは僕なんだって。だから、葉月さんに会おうと思った」

初めて、視線が交錯した。小柳は、まっすぐに私を見た。

「今日、あなたに会えた。一歩先が分からない日々の中で、二人ともここに辿り着けた。これってひとつの奇跡でしょう。一緒にいましょう、葉月さん。今日、一緒にいられて、明日も一緒にいられたら、また奇跡が積み重なる。ひとつひとつを積み重ねて……僕たちの小さな奇跡が、大きな奇跡に繋がっていくんじゃないかって」


結婚してください。


小柳は静かに言った。私は瞳を閉じる。

「こんな時に?」

「こんな時だからですよ」

「結婚式、できないかもよ?」

「一年後は出来ますよ。また延期になったとしても、新たな式のプランを考えればいい。何通りも楽しめます」

馬鹿、と呟き顔を覆う。嗚咽を堪える。

「こんな時だから、一緒にいましょう」


閉じた瞼に浮かぶ、聖火。高々と掲げられたそれが着火した瞬間、会場は歓声に湧く。私たちを包む人々の笑顔と拍手。歓喜が降り注ぐ。祝福のように。


小柳は、そっと私の肩を抱いた。泪で滲んだ視界に灯りが煌めく。店主のおじさんが、優しく微笑んだのがマスク越しにでも伝わった。

私たちがこれから走るコース。この上り坂はいつまで続くのか、上りきった先に何が待つのかは、分からない。

それでも、今夜は、奇跡の始まり。

奇跡を起こすのは、私たちなのだ。


〈了〉






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