ロリータレンピカで偽装して

鶴川始

とても清澄な気分です

 私が高擶たかだま響子きょうこと出会ったのは大学一年の夏でした。

 当時、私はまだ髪も染めていなかったし、今ほど痩せてもいませんでした。

 私は田舎の女子校で茫漠と生きていたので、生まれてからずっと東京で生活してきた高擶とは何もかも違うと、ひとめ見ただけで理解してしまいました。


 夏期休講に入る前に私は左沢あてらざわ先輩に告白しました。

 無口な人でした。笑ったところは勿論、怒ったり悲しんだりしているような顔も見たことがありません。目が死んでいると、先輩の周りの友達はからかっていました。

 それでも先輩は優しかったんです。

 本当に。

 だから、好きになったんです。いえ、たぶん、優しくなくても好きになっていたと思います。

 だから告白したんです。

 無理だろうなとは思いつつも、私の方から。

 それでも、先輩に彼女がいるなんて告白するときまで知らなかったんです。

 普通、彼女がいるかどうかとか、告白する前にそれとなく探ってみたりするものなだろうと思うのですけれど、矢張り当時の私は、私が思っているよりもずっと気分がのぼせ上がっていたのだと思います。もしかたら怖かったのかもしれません。茫漠と生きてきたので、恋愛らしい恋愛もしたことがありませんでした。なので、どういう形にしろ結果が欲しかったのだと、今にしてみればそう思います。受け入れてもらえようとも、そうでなくとも、告白すれば結果だけは得られると。結果がわからないということは私にとってどうにも恐ろしかったのです。

 先輩は、ちゃんと私のことを振ってくれました。

 曖昧にせず、いい加減なことを云わず、断ってくれたのです。


 だから、きっと先輩は私に高擶響子――先輩の彼女を紹介したのです。

 先輩も高擶も、乾いたような、さっぱりとした性格でした。彼氏と彼女というよりも本当に仲のいい親友というような感じで、人前でべたべたとする感じではありませんでした。一方私はというと、なにかにつけてぐずぐずとして、万事物事に決めかねるきらいがありました。そのくせ、余裕をなくしたり、なにか切羽詰まるとなにもかもを投げ捨てて選択してしまうところがあります。堪え性というものがないのです。

 だから、私はいつまでも先輩のことを思い続けていました。指で押し込むと血がにじむようなきずが、私の精神にいくつも付いているようでした。痛みを感じるのに、どうしても弄るのをやめられない瑕でした。


 いっそのこと、高擶響子のことを憎く思えたならよかったのです。ですが、彼女を嫌いになることはできませんでした。左沢先輩にとって大切な人だからということを抜きにしても、彼女は魅力的な人物でした。

 最初は努めて高擶のことを嫌いになろうとしていました。しかし、無理でした。高擶にはおよそ女の悪い部分というものを持ち合わせていませんでした。陰湿さや老獪さというものはありません。かといって鼻につくような高潔さを纏っている訳でもありません。だらしないということもなく、かといって杓子定規な正義で周囲を測ることもありません。常に愉快で爽快で、ある意味では男らしい性格でした。かといって女性の魅力がないわけでは決してなく、高擶が身なりを整えた姿は、女性の私でもはっとするようでした。


 そんな人物を、嫌いになれる訳がないじゃないですか。ずるいと思うことは何度もありました。無理に冷たくなろうともしました。しかし、あまりにも高擶という女は魅力的で、彼女に対してすげなくしようとすると私の良心が痛みます。決して彼女は私のそのような部分につけ込もうとしてそうなっているわけではありません。


 つまりは私も、高擶の事が好きになってしまっていたのです。



 二年の秋になっても、私は左沢先輩のことが好きでした。

 左沢先輩と高擶の仲は良好で、ずっと仲のいい恋人同士だったと思います。別れ話の類いは聞いたことはありません。些細な喧嘩は何度かあったように思いますが、そのどれもが喧嘩というよりも惚気話のようなものでした。そんな話を聞かされると、複雑な気持ちにならないと云えば嘘にはなりますが、それでも私にしては割合素直に二人の関係を喜ばしく受け止めていました。


 だから、高擶が死んだとき、私は自分でも驚くほどの衝撃がありました。

 交通事故でした。信号無視の飲酒運転の車が、バイト終わりの高擶のところへ突っ込んできたそうです。遺体の損壊はあまりに酷く、左沢先輩が高擶の遺体を見ることなく火葬にされたそうです。


 高擶が死んだことを聞かされたときは、私はちょうど自室の洗面所に居ました。身近な人間の突然の死というものは今までに経験したことがなく、しかもそれが高擶響子のことだったので、私は自分でも驚くほど動揺しました。


 一斉送信されたメールの文面を何度も読み返しました。高擶響子が死ぬことなんて私は一度も考えたことはありませんでした。高擶響子は私にとって憧れでした。私にないものをいっぱい持っていて、それを妬ましく思うことはあっても、それを覆い尽くすような高擶の魅力を私は知っていました。彼女の人生が順風満帆であることを、私は固く信じていました。こんなに素敵な人間の人生が、なんらかの理不尽な悪意によって歪められてしまうことなんてあってはいけないと思っていました。否、思ったことはありません。無意識にそう信じていたのです。当たり前や常識と呼ばれるような感覚で私はそう信じていたのです。あまりにも月並みですが、私がそれを自覚したのは彼女という存在を失ってからのことだったのです。

 昨日までの私の日常には高擶響子が存在していました。その日常の中からある個人がこの世から突然喪失したということを実地に理解させられ、それは私にとって大きな衝撃でした。


 ずっとスマートフォンの画面を見続けていた所為か、それともあまりにも精神的に大きな衝撃だったのか、軽く目眩がしました。

 何気なく画面から目を上げて鏡を見ると――私は笑っていました。

 醜い笑顔でした。抑えようとしても口角が上がります。まっとうな嬉しさや喜びなど感じていなかった筈です。いくら何でも人が死んだのにこんな顔をしているのは非道いことだと諭されるまでもなく理解しています。


 それでも私は、鏡の向こうの私は、笑っていたのです。



 葬儀場に居た左沢先輩は、いつも通りでした。

 いつもと変わらない死んだ目の顔で、高擶の両親と一緒に葬儀の手伝いをしていました。友達と一緒に受付の先輩のところへ行くと、先輩は普段大学で会ったときのように話しかけてきました。

 無論、それは先輩が薄情だからということではなく、高擶がこの世から居なくなったことに感情が追いついていなかったからでした。そんな先輩を見て責める人は居ません。先輩にとって高擶がどういう存在か知っている人は、その喪失の大きさも知っています。悲しみを分かち合うというより、腫れ物に触るような気持ちで、みんなは先輩と対応していたように思いました。

 私はというと、表情を作るのに精一杯でした。

 自分でも意識していないうちに笑顔になっていないか、恐ろしくてたまりませんでした。法要の間、何度も自分の口元を触って自分が笑っていないか確かめました。ハンカチで抑えながら確かめたので、端から見れば単に泣いているだけのように見られたかもしれませんけれど。



 高擶の葬儀が終わって二週間が経過しても、左沢先輩は大学に来ませんでした。

 心配になった左沢先輩の友達が、先輩の自室を訪れたそうですが、先輩の様子は変わりませんでした。時間の経過だけが先輩を癒やすのだとしても、私はいてもたっても居られない気持ちになり、私も先輩の元を訪れることにしました。


 先輩の部屋に入るのは、それが初めてのことでした。

 先輩の部屋には、高擶の家族から受け取った遺品の一部が積み上げられていました。服や小物、化粧品といったものから、彼女の生まれてからのアルバムまで。

 左沢先輩は、肉体的には元気そうでした。外出することはあまりない生活をしていましたが、食事などはそれなりにとっているようでした。


 私は先輩と二人きりで、長い時間ぽつりぽつりと話しました。

 今まで一度も話したことのないような話をたくさんしました。

 左沢先輩のこと。高擶響子のこと。私のこと。大学のこと。それらと関係があること。それらと全く関係のないこと。あらゆる話題が脈絡なく転がり派生し、無軌道に切り替わりながら長い時間話し続けました。そうして話題の種の総てが尽きたところで、漸く二人の間に沈黙が訪れました。


 長い沈黙でした。心地よさも苦痛もない、奇妙な沈黙でした。

 それから暫くして、

 なあ、高擶は死んだのか。

 先輩はそう私に訊きました。

 ええ、死にました、と私は答えます。

 じゃあ何か高擶の代わりになるものってないの。

 先輩はまた私に訊きました。

 まるで家電量販店で店員に尋ねるような口調だったので、思わず可笑しくなってしまいました。本当に、何気ないように訊くものですから、顔にこそ出しませんでしたが、こんなシュールな諧謔味のある言葉なんてあるのかと可笑しくなってしまいました。


 私がなりますよ、と私は云いました。

 云ってから驚きました。自分は何を云っているのだろうと。

 云ってから自分の言葉の意味を理解しました。否、理解できませんでしたが、自分が何をすべきなのかはわかっていました。

 本当に、と先輩が訊くので、私は無言で立ち上がりました。それからを先輩の部屋にある高擶の遺品の服を見繕いました。

 服を脱ぎ、私は高擶の服を着ました。先輩の前で下着だけになった瞬間があったのに、驚くほどに私は冷静でした。高擶は髪を茶色に染めていましたが、私はずっと黒の髪で生きてきました。染め方なんて知らなかったので、とりあえず髪を後ろにまとめて、高擶が生前よく被っていた帽子を被ってみました。最後に、高擶の好きな香水をつけました。


 どうですか、と先輩に訊いてみました。

 身長は一緒だな、と云いました。そして先輩は一瞬笑った後、涙を流しました。

 先輩の笑顔なんて初めて見ました。

 先輩の泣き顔も、初めて見ました。

 私は、座っている先輩を抱きしめると、まるで子供をあやすかのように頭をなでました。


 その日、私は高擶の服を着て、生まれて初めてセックスをしました。



 翌日から、左沢先輩は大学へ来るようになりました。

 私は、高擶響子になりました。美容院へ行って高擶と同じ髪型と髪色にセットして、高擶と同じような化粧をして、高擶の服を着るようになりました。

 高擶は私より少し痩せていて、同じような体型になれるように食事制限もしました。身長は元から同じくらいだったのは幸いでした。身長なんてそう簡単に調節できませんので、それはよかったと思います。

 毎日鏡の前で化粧の練習をしました。顔立ちが少しでも高擶に近づくように、先輩から借りた高擶のアルバムを見ながら練習しました。高擶は先輩や私と違ってよく笑う人でしたので、笑顔の練習も沢山しました。


 何をしているんだろうと思うことは何度もありました。この行動に、程度の低い同一化に、一体なんの意味があるのだろうと自問自答することは沢山ありました。考えるほどにわからなくなって、くらくらと目眩がします。無理に化粧と笑顔を続けると、猛烈な吐き気に襲われることもありました。たまらずトイレに駆け込んで、胃の中のものをすべて吐き出すことなんてしょっちゅうありました。そのおかげで痩せることができたので、それはそれでよかったと思います。


 自分でもそれなりに納得できるほど、高擶の容姿に近付けた頃、私はとても充実した気分になれました。

 憧れだった高擶響子に、私はいま、なっている。

 言葉で思う以上に私はそう実感しました。陶酔するかのように頭が痺れて、何度も何度も鏡に映る私の姿を確認します。笑顔の練習も沢山しました。もう口角を抑える必要なんてありません。ぎこちなくない、自然な笑顔を作ることができました。高擶の四十九日法要の終わる頃、私は完全に高擶響子になっていました。


 それ以来、高擶の服を着て、先輩に抱かれる日々が続きました。私は先輩に抱かれている間、ずっと高擶のことを考えていました。高擶だったらどんな声を出すのだろう。高擶だったらどんな風に感じるのだろう。高擶だったらどんな痴態を演じるのだろう。高擶だったらどんな求め方をするのだろう。


 その日、私は先輩の上にまたがっていました。いつものように、高擶の化粧をして、高擶の髪型で、高擶の服を着て、高擶の香水を付け、先輩に抱かれていました。

 どう、と私は先輩に訊きます。高擶になって以来、私は敬語をやめました。高擶は左沢先輩に敬語で話していなかったので、私もそれにならいました。

 響子はそんな風に笑わない。

 先輩はそう云いました。

 先輩が高擶のことを響子と呼ぶのなんて、初めて訊きました。

 響子はそんな風に笑わないんだよ。響子はそんなこと云わないよ。響子はそんな風にセックスをしなかったよ。響子は――――。

 私は酷い目眩がしました。やがて先輩の声が遠くなります。くらくらします。吐き気はありませんでしたが、視界がぐらぐらと歪みます。先輩の顔も歪みます。


 気が付くと私の手首から血が流れていました。

 ついに無意識に自傷でもしてしまったのだろうか、と思いましたが、手首だけでなく、手のひら全体に激痛があります。

 気が付くと、左沢先輩の首が、横に九十度に折れていました。

 私の手の甲と手首には、掻きむしったような痕がありました。手の指はいくつか骨折していました。あんまり力を込めたので、どうやらいくつか指が折れてしまったみたいでした。

 両手が痛かったのですが、どうにかスマートフォンで電話をかけることができました。十数分して、警察が部屋へとやってきます。遅れて救急車もやってきて、先輩はすぐに病院へと運ばれました。もっとも、救命士の人も、先輩の遺体を見た段階で事切れていることはわかったので、それほど慌ただしくはなりませんでしたが。


 裸に布団を被っているだけの私に、警察の人は私の名前を尋ねます。

 私は答えます。


 私の名前は高擶響子です、と。



 結局のところ、私はどうして先輩を殺したのかわかりません。

 先輩に拒まれたからなのか、それとも先輩に高擶響子だと認めてもらえなかったからなのか。今となっては、どうでもいいことではありますが。

 今でも練習は欠かしていません。化粧品は手に入れられないので、それはどうにもできませんが、笑顔の練習は鏡さえあればできますから。

 そういえば、私は前より自然に笑顔が作れるようになりました。どこか先輩の求める高擶になろうとして、余計な力が入っていたのかもしれません。何かに追われることなく高擶の練習ができるようになった今、私は自然な気持ちで、高擶の笑顔の練習をすることができるようになりました。そうしていると、なんだか高擶の香水の香りがするような気もします。

 

 私はいま、とても清澄な気分です。

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