愛するは罪 4
手元の頼りない光しかないこの場所では、彼女の裸体はより一層美しく、情欲的に見える。肌と風景との境界が曖昧となったその肢体は、魅力的と言う他ない。
目を逸らす余裕もなく、私は彼女に釘付けとなっていた。
「ジョシュア」
再度自らの名を呼ばれ、はっと我に返る。
しかし時すでに遅く、美々の両の掌は、私の頬を抑え込んでいた。金色の丸い瞳が、私をじっと見つめる。私のその視線に捕らえられて、何も抵抗できないでいた。
「昨日の礼がしたい」
先ほどまでの軽々しい甲高い声とは違う、ひどく低い声と艶やかな吐息が、私の鼓膜をつついた。震える鼓膜と連動するように、びくりと体が跳ね上がる。それでもなお、視線だけは彼女の瞳から離せずにいた。
「礼なら、先ほども」
「言葉ではなく、行為でじゃよ」
行為。それが何を意味するのかわからない私ではない。
この官能的な体をどうにでもできたのなら、男としてこの上ない幸福と快感を得るに違いないだろう。
「ば、馬鹿を言わないでください。私は神に仕える身だ。妻がありながら他の女性と――ましてや妖の類とまぐわうことなど」
溶け出していく思考をなんとかかき集め、我が信ずる神の姿を思う。
不貞行為、さらに異種間の交わりなど、決して神は許さない。熱心な教徒と評されてきた私が、最大級の背徳行為に身を落とすことなど、どうしてできよう。
「ふむ。『壁に耳あり障子に目あり』などと言うがな」
これまた聞きなれない言葉を、彼女は口にする。どうせまた、日本の諺なのだろう。その意味を考える暇もなく、彼女は私をそっと抱きしめた。
腕が、胸が、腰が、私と重なる。
息も絶え絶えな私を尻目に、耳元でそっと囁いた。
「ここには、壁もなければ障子もない」
その言葉を発したすぐ後に、美々は私からそっと離れ、再びその瞳でもって私を覗き込んだ。彼女の瞳を見ていると、思考も意識もやけにぼんやりとしてきてしまう。
駄目だ、駄目だ、あってはならない。
「こんな地下の湖、神は見ておらぬよ」
彼女の言葉と同時に、瞳にきらりと一筋の光が差した気がした。
それを皮切りにして、私の理性の糸は、ぷつりと途切れた。
私の信ずる神。私の行為を決して許しはしない神。
光も届かぬこの地下で、果たして神の目は届くのだろうか。
そんなことを考える余裕もないくらいに私は彼女を求め、彼女は私を求め、時が忘れるほど何度も我々はまぐわった。
◆
気づくと私は、湖のほとりで独り呆けていた。
日は陰り、赤く染まった太陽と、ひどくやつれた顔の私が湖面に映っている。
あの時間は夢か現か幻かと思われたが、私の手と下半身とに残る美々の感触が、現実のものであったと実感させる。
「ああ、神よ――」
どうか私を、と言いかけて、止めた。
美々が言うように、人気のない幻想的な空間に神の目は果たして届いていたのだろうか。私と美々の背徳的かつ冒涜的な行為を、淫らな行為を神が見ていたとは、限らない。
そんな淡い期待が心に潜んでいたから、私は神に祈ることをやめたのだ。
「あなた。どうしたのですか」
ふらふらとした足取りで湖の淵を歩いていると、私を呼び止める声があった。
紛れもなく、私の愛する者、メアリの声に相違ない。愛する者、と心で思う度に胸が苦しくなる。愛する彼女を裏切ったのは私自身だ。なのに軽々と『愛する者』などと、よく言えたものだ。
「メアリ」
様々な感情が渦巻く私がようやく口にできたのは、彼女の名前だけであった。
「心配したのです。今朝の礼拝に姿を現さないと、信者の方々から連絡をうけて。どうしていたのですか」
ふと、今日が日曜日で、午前中には礼拝があったことを思い出す。
そんなことを忘れるほど、私は彼女との行為に熱中していたことを実感し、更なる自己嫌悪に陥る。
「すまない。どうにも体調が優れなくてね。外の空気を浴びようと湖の周りを歩いていたのだが、どうやら先ほどまで気を失っていたみたいなんだ」
街に行っていたなどと嘘をついてはやがてボロが出ると思い、とってつけたような嘘を咄嗟に口にする。一文字一文字を発する度に胸が痛んでいく。
「ああ、なんということでしょう。最近、働き詰めでしたからね。愛するあなたにもしものことがあったらと思うと、私は胸が張り裂けそうです。どうかご自愛ください」
心の底から心配している様子の表情を浮かべ、メアリは私の両手をとった。愛するあなた、そう呼ばれた瞬間に、私は胃の中のものをすべてぶちまけてしまいそうになるほどの吐き気を覚えた。
メアリは私を愛していて、私もメアリを愛しているというのに。私は彼女以外のものと、まぐわってしまったのだ。
そして何よりも、メアリとの行為よりも、美々との行為の方が断然良かったなどと考えてしまっている自分が、気持ち悪くてたまらない。
「今日はもう寝ましょう。明日は月曜日であなたはお休みでしょう。私は街で仕事がありますが、どうか一日ゆっくりと休まれてください」
そうか。明日は月曜日で、礼拝もない。そして、メアリもいない。
誰も私を見ている者はいないのか、と考えてしまっている最低な自身に、また吐き気を覚えてしまう。
◆
「それでは行ってきます、あなた。体にはお気をつけください」
翌日の朝、私の体調を心配する声を何度もかける家内に、私は何度も胸を締め付けられた。申し訳ないと思うと同時、あの地底湖へ行けばまた美々に会える、とも考えてしまっていた。
「愛しております。それでは」
普段は去り際に口にしない言葉をメアリが言うものだから、更に罪悪感に苛まれる。決して他意はなく、私の体を案じて思わず出た台詞なのだろうが、はっきりと言葉に出されると罪の感情はひとしお身に染みた。
パタリ、と家のドアが閉まると同時、私の体は勝手に動き始めた。
理性ではなく、本能で足が動く。何をしているんだと頭で考えて、早く美々のもとへ向かえと体が急かす。そのちぐはぐな心と身体とがせめぎ合っているのが、嫌でも感じ取れた。
湖面は相変わらず静かで、木々は瑞々しく、空には雲一つない。
私の心情とは正反対の風景の中を、欲望と欲情とが混じる男が一人、駆け抜けていく。
鍾乳洞に入る際の、ランタンに光を灯す手がおぼつかない。心ばかりが行き急ぎ、体がついてきていないのだろう。
「ジョシュア。昨日ぶりじゃの」
危険を承知で洞内を駆け抜け、息が切れ始めた丁度その時、地底湖と美々の姿が見えた。その姿と口調とは、先日から何も変わっていない。美しい肢体に、甲高い声。その姿が光の先に見えた途端、家内や神のことは頭の中から抜け落ちてしまった。
「ふふん。その様子じゃ、儂の体が忘れられなかったと見えるな」
口と目尻とを引きつらせて、ゆっくりと私に近づいてくる美々は、行為の最中を思わせる妖しい口調でそう言った。つつ、と彼女の指が私の頬を伝う。否応なく、昨日の交わりが私の脳内によぎってしまう。
「ち、違う。私はただ、君が腹を空かせているだろうと」
「食料も何も持たずにか?」
咄嗟に口にした嘘も、あっさりと見透かされてしまう。
意地の悪い表情を浮かべて私を見上げる彼女の瞳が、私を見る。
「いいんじゃよ、ジョシュア」
ああ、この瞳だ。
妖しく煌めく彼女の瞳を見ていると、体と頭の自由がきかなくなってくる。かすかな思考が脳内から零れ落ち、体を縛り付ける理性がこと切れる。
「儂も、お主とまぐわうことを、考えていたからの」
美々の瞳と声は、私の理性を吹き飛ばす。
彼女のことしか考えられなくなり、彼女の体を求めることしかできなくなり、その他の一切合切はどうでもよくなる。
ああ、美々。美々よ。
私は君のことしかもう、考えられなくなってしまっている。
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