愛するは罪 6
気がつけば、礼拝堂の天井を仰ぎ見ていた。
理性と意識を手放すほどに、私たちは交わっていたのだ。
何度果てたかわからない、けれども確かに妖しく光る彼女の瞳を見つめる度に、興奮が湧きたった。まるで永久機関のように果てては沸き立ち、私は幾度となく彼女を味わった。
「ああ、神よ」
もう言い訳などできない。
荒れ狂った私を、狂ったようにまぐわう我々を、神は見ていた。
そんな我々を、神は決して許さない。
仮に神が七日目の休息をとっていたとして、この礼拝堂に立ち入った人間であれば、ここで何が起きたかを想像することは難しくないだろう。締め切りの礼拝堂の中は、我々が何度も交わった際の、性行為特有の匂いが充満している。美々の獣臭さも混じり、想像を絶するものとなっていた。
窓を開け、何かお香の類を焚いたとて、消臭機能は望めない。
神にも信者にも、私の蛮行は筒抜けとなることだろう。
「これで言い訳はできんの、ジョシュア」
未だに妖しく笑う美々は、そっと私に耳打ちをする。
自分の中でもそれはもちろん理解していたが、改めて他者から指摘され、私の心に絶望が広がっていった。
「神よ――――!」
無駄なことだとわかっていながらも、懺悔せずにはいられなかった。
ふらつく頭と体を必死に動かして、なんとか立ち上がり、ふらふらと祭壇まで歩を進めた。
跪きながら祭壇に手をやり、私は泣きじゃくりながら神の名を叫び続ける。
届かない声、許されぬ懺悔とわかりながらも、叫ばずにはいられない。厳かに佇む祭壇は、静かに私を見下ろし、物言わぬ威圧感を放っているようにも思われた。
「どうか! どうか私を! ああ!」
その威圧感は、神が私を戒めるようにも見え、私は正気を失ったかのように祭壇にすがり寄った。それは冷たく、そして堅い。神の心情のように思われて、ますます私は追い詰められてゆく。
私が祭壇を何度も揺らしていると、祭壇に置かれた何かが地面へと落ちた。
見間違うものか、何度も目を通し、何度も口にしてきた、聖書である。
神が私に、『これを読め』と言っている。
そう確信した。
「今更どうしたのじゃ」
過呼吸気味になりながらも必死に聖書を開く私を見て、美々は心底呆れたといった感じでぼやく。その言葉に私が耳を貸さないとわかるや、不貞腐れるように床へ寝転んでしまった。
美々の様子には目もくれず、私は聖書をぱらぱと捲っていく。やがてその手は、あるところでピタリと止まった。
「天の火……」
創世記、ソドムとゴモラの街について書かれた、その場所で。
色欲にまみれた悪徳の街、ソドムとゴモラ。それらは神の怒りに触れ、天の火によって焼かれた背徳の街。神はそれらを決して許しはしなかった。きっと私とて、神は許さないだろう。
ふと私の脳裏に、ソドミーという単語が浮かぶ。天の遣いを辱めようとした民の住まうソドムの街が語源となった、正常のものとは違う不自然な性行為を差す言葉だ。
それには勿論、異種間との性交も含まれる。私と美々のそれはソドミーに、ソドムの民が行おうとしたものに、相違ない。
神がそれを示した理由は、かつて勤勉な教徒であった私にはすぐに理解できた。
「……ここは今、ソドムの街なのだ」
神に導かれるよう、私は生まれたままの姿で居住区の方へと向かう。虚ろな目と表情で家屋を物色し、目当ての物を手に取ると、またふらふらと礼拝堂の方へと戻ってくる。
「色欲と背徳に溢れた悪辣な土地、ここはソドムだ」
木目の美しい床に、肌色の体が今だ寝そべっているのが目に入る。その周囲には、私たちがまき散らした体液がそのままにされており、ことの凄惨さを改めて実感した。
私はこの穢れなき聖地を汚したのだと、ここはソドムの街なのだと、痛感する。
「ソドムは、神の怒りを買った」
倉庫から持ち出してきた、暖房用に使用していた油を礼拝堂の床へ撒いていく。びしゃびしゃ、と音を立てて広がるそれは、私たちの行為の証をも飲み込んでいった。
「ジョシュア。何事じゃ」
最後に祭壇へ油を撒いたところで、異様な音と匂いに気づいた美々がむくりと起き上がり、私のもとへと駆け寄ってくる。
「美々。ここは今、ソドムの街なんだ」
「何を言っておる」
「ソドムは、天の火によって滅ぼされた。神の怒りを買ったからだ」
私が手の内を開き、握りしめられていたものを彼女に見せる。恐る恐る覗き込んだ彼女は、私の掌にあるそれを見て、これから私が何をするのか理解ができたようで、その大きな瞳をますます大きく見開いた。
「やめろジョシュア。考え直せ」
「神の手を煩わせてはいけない。神は私に聖書を読めと仰った。これは、自らの手でこのソドムの街を、この教会を焼き払えということに違いない。天の火は、大罪人である私自らの手で起こすのだ」
掌の上に置かれたマッチ箱を再度握りしめると、美々は慌てた表情で私を静止しようとする。
「儂とともに日本へ行こう、ジョシュア。日本の八百万の神々の中には、お前を許す神も沢山おる」
出会ってから数週間、初めて見せる表情だ。その表情すらも美しく愛らしいと思ってしまう私は、いよいよ妻を愛する資格がないと言える。
慌てふためく美々の肩にそっと手を置いて、私は黙って首を横に振った。
「私は、醜い人間だ。大罪を犯したことのみならず、君を日本へ返したくないとも思っている」
神がどうとか、天の火がどうとか、実は大義名分なのかもしれない。つまるところ私は、彼女と離れ離れになりたくないのだ。けれども、私はここで裁きを受けなくてはならない。ソドムの街とともに、焼かれなくてはならない。
「君を私の中で、永遠のものにしたい。独占欲が、私の中で渦巻いて仕方がないんだ。ソドムを焼く火の中で、私は美々と永遠となりたい」
ではどうするか。
私は彼女と共に、このソドムで朽ちたい。そして、私たちは永遠のものとなるのだ。天の火によって滅びゆく、ソドムの街で。
あたふたと何度も体を動かし、忙しなく腕を上げ下げしていた美々であったが、私の決意に満ちた鬼気迫る表情を見て、はあとひとつ大きな溜息をついた。
「本気なんじゃな」
肩と目尻をだらりと下げて、すべてを諦めた表情を浮かべる。
その表情に私を咎める感情は一切見受けられず、ただただ私を慈しんでいるように見えた。
「我儘な男ですまない」
「もうよい、もうよい。すべては儂の責任だしの。思えば、儂も長く生きすぎた。『天に唾を吐く』とはこのことじゃな」
そう言いながら、首を下げて項垂れる。またしても聞きなれぬ言葉が聞こえたが、これも日本の諺なのだろう。
美々がどんな表情をしながらその言葉を発したかはわからないが、すべてを受けいれたかのような諦めにも似た感情が、口調からは感じ取れた。
もうひとつ大きな溜息をついて肩をすくめたかと思うと、ゆっくりと顔を上げ、その表情と瞳とを、私に見せつけた。
いつもの、妖しく艶やかな表情を。
いつもの、妖しく煌めく瞳を。
「愛するお主とここで朽ちるのも、よいかもしれん」
いつものように、彼女の瞳に一筋の光が宿る。
これまでは私の思考を鈍らせていたその光だが、今回は違う。煌めく静かな力強い光は、僅かながら私の中に残っていた躊躇いや戸惑いといった感情を振り払った。
もう迷いはない。
欲にまみれた爛れたソドムの街を、私の手で滅ぼすのだ。
天の火で、このソドムを焼き払う。
全身の震えが止まり、手の内にあるものを握る力が蘇る。
箱の中からマッチを一本取り出して、何度かそれを擦った。
一度目には火花が散り、二度目には火の粉が舞い、三度目にようやく火が灯った。
「これが天の火か。儂にはただの火にしか見えんがの」
心もとない細い枝に灯った心強い火を、床へと落とす。
ゆらりゆらりと火が落ちる様が、ひどくゆっくりに感じられた。
永遠にも思えるほど長い時間をかけ、天の火は硬く湿った床へと達した。
火はやがて火柱となり、次第に火の海となる。
それはあっという間の出来事だったと思う。美々の瞳から一度も目を離すことなく火を放ったが、薄暗い礼拝堂に佇む彼女の姿は、今は眩いほどの明かりの下に晒されている。
ぢりぢりと鈍い音をたてて広がる火は途端に礼拝堂全体を包み込み、ゆらゆらと揺れる陽炎が彼女の姿を薄くしていく。熱に焼かれた私の眼球は、もう彼女の姿をはっきりと捉えることができなかった。ぼんやりと広がる彼女のシルエットだけが、私に近づいてくるのが見える。
「ジョシュア」
服や肌にも火の手が回り、呻き声も出せぬままうずくまった私に、愛しい声が届いた。躊躇うことなく、私の焼けた肌に美々はそっと触れた。神の裁きである天の火が燃え盛る中でも、彼女の手はどこか冷たい。
「お主との淫靡な一時、悪くなかったぞ」
すでにこと切れそうな私は焦げる体に鞭打って、その声の方に顔を動かした。
名前の通り美しい美々の体を見ることは、もう叶わない。
「さらばじゃ、ジョシュア」
背後で祭壇が崩れていく音がする。眼前で優しい声がする。
この背徳のソドムには似つかわしくない、天の遣いのような澄んだ声だ。
私がここで最後にできることは、神への懺悔でも祈りでもない。
この世で一番愛する者の名を、叫ぶことだけだった。
「
こと切れる直前、私を包み込む火の向こうで私が見たのは、燃え盛る火よりも眩しい、一筋の光だった。
それは神が私を導く光か、それとも美々の瞳か。
朽ちたソドムの街では、もうそれもわからない。
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