ソドムの二人
窓の外では、雷鳴が轟いている。
稲妻が迸るたびに、薄暗い礼拝堂の中が一瞬だけ眩い光に包まれる。
神学校に併設されたこの施設は、ジョージ・ホフマン牧師が日々教鞭を振るう場所である。夜も更け、学生たちの姿はそこにはないが、ホフマン氏だけがひとり頭を抱えていた。
「ああ、神よ」
ジョシュア・アンダーソンの訃報がホフマン氏のところへ届いたのは、一週間ほど前のことである。なんでも、アンダーソン氏の住まう教会が全焼し、そこから彼の焼死体が見つかったそうだ。
警察の調べによると、火の元は礼拝堂とのことだ。すべて焼け落ちてしまったことから詳細はわからないが、争ったような形跡もないという。彼の居住区から金銭が盗まれていなかったことから推測するに、強盗の類は考えにくいとのことだ。現在は自殺と他殺の両方で捜査を進めている、と新聞では報じられていた。
アンダーソン氏は人から恨みを買うような人間ではない。彼は勤勉を絵に描いたような男であり、命を奪われるような言動をする人間ではないことを、ホフマン氏はよく知っていた。
そして同時に、彼が自ら命を絶つような者でないことも、知っていた。
アンダーソン氏のことは、ホフマン氏がよく知っている。学生の頃から熱心な教徒であり、牧師となった現在もそれは変わっていない。
「ジョシュアよ、どうして」
だからこそ、わからない。
どうして彼が命を落とすこととなったのか、それも神に祈りを捧げる聖なる場所を焼き払われるかたちで朽ちたのか、ホフマン氏にはどうしてもわからなかった。
礼拝堂が焼けて、ジョシュア・アンダーソンが亡くなった。
それだけであれば、気の違った何者かが彼を亡き者にしたのだろうと、無理やりにでも納得することはできる。
ホフマン氏がどうしても納得できないのには、二点ほど解せない点があったからだ。
まず一点目は、アンダーソン氏からの手紙が、つい先日届いたこと。
消印は、彼が亡くなる数日前のものとなっている。数週間前に彼を講義に呼んだことに関しての旨が綴られているのかとてっきり思ったが、その中身はホフマン氏にとって予想以外の何物でもなかった。
ここに何か、彼の死についての手掛かりがあるはずだ。
傍らに置かれていた手紙を手に取って、ホフマン氏はそれに再度目を落とした。
『親愛なるホフマン先生
先日はかのような講義にお呼びいただき、感謝の言葉もありません。
筆を取りましたのは、他でもありません。私の犯した罪について、ホフマン先生に聞いていただきたく思ったからです。
私は大罪を犯しました。それは到底許されるものではないとわかっていながらも、私はその罪を今でも犯し続けているのです。
神に懺悔することも憚られます。けれどもどこかにこの罪を告白しなければ、私は罪の意識に苛まされ、狂ってしまいそうなのです。
罪を犯している時の私は、どうにも私でないような気がしてしまって、理性で自らを律することができずにいます――』
そこまで読んで、ホフマン氏は大きな溜息をついた。
アンダーソン氏が大罪を犯すなどと、ホフマン氏には考えられない。理性のたがが外れた彼など、思い描くことも叶わない。
きっと彼には事情があったに違いない。
そしてそれは、神にも告白することのできない深い事情であったのだ。
この手紙が届き初めて目を通したその時から、自分だけでもこの事件の真相を探らねばならないと決心し、ホフマン氏は独自に動き始めた。
まずは、彼の妻に話を聞くのが手っ取り早いだろうと考えた。
事件が起きたのは日曜日であったから、きっと彼は奥方と一緒にいたに違いない。
けれども、焼け跡から発見されたのはジョシュア・アンダーソンの遺体、ただひとつであった。
アンダーソン氏の奥方は、きっと何かを知っているはずだ。
そう思い、彼の住んでいた街で色々と聞いて回ったのだが、不思議なことに誰もが彼女の存在を知らない。そればかりか、アンダーソン氏に伴侶がいたことすら知らない住民がほとんどであった。
これがホフマン氏の思う、二点目の解せない点である。
アンダーソン氏と再会した際、確か彼は妻の名前を言っていたはずだ。
しかし歳のせいだろうか、ホフマン氏にはどうしてもそれを思い出すことができなかった。名前さえわかればどうにか調査を続けられるのだが、と彼はますます頭を抱えてしまう。
――トン、トン
八方塞がりとなったホフマン氏が呻く中、豪雨が屋根を叩く音に混じって、礼拝堂の入り口を叩く音が微かに聞こえた。
はて、こんな時間に誰だ。不審に思わないでもなかったが、彼は思い腰をあげて立ち上がり、ゆっくりと扉を開いた。
「ああ、人がいらした。これも神の救いなのでしょうか」
扉の向こうには、頭からつま先までぐっしょりと雨に濡れた、女の姿があった。
濡れに濡れたその衣類は女の体にぴたりと貼りつき、彼女の細い体が角のない美しい曲線となり、ホフマン氏の眼前に飛び込んできた。
「どうしたのです」
「実は暴漢に襲われておりまして、命からがら逃げだしてきたのです。どうか中へ入れてくださいませんか」
「それは大変だ。ささ、早く中へ」
アンダーソン氏のことも気がかりだが、これは一大事である。
急ぎ礼拝堂の中へ入るよう女に促して、ホフマン氏は二度三度辺りを見回した後、扉を閉じた。
ばたり、という重苦しい音が響き渡ったかと思うと、礼拝堂の中には不気味に冷たい静寂が流れた。
それと同時、緊張の糸が切れてしまったのだろうか、女の体がふわりとよろめいたので、ホフマン氏は慌ててそれを受け止めた。
ひどく冷たくなった柔らかな体だが、その芯は確かに熱を帯びている。
長いこと失われていた自らの雄が目を覚ましそうになるのを必死に抑え、ホフマン氏は女に声をかけ続けた。
「しっかり、しっかりしてください」
「ああ。逞しい体。とても安心しますわ」
先ほどまでとは打って変わった、熱を帯びたような艶やかな吐息。
思わず欲望が渦巻いてしまうのを自覚したホフマン氏は、まるでそれが自分の体と思考でないかのような錯覚に陥ってしまう。
しかし彼の思考は、次に女が発した言葉で、しっかりと覚醒することとなった。
「ありがとうございます、牧師様。私は――メアリと申します」
メアリ。
そうだ、確かアンダーソン氏の妻の名は、メアリだった。
外で迸る稲妻の如き衝撃がホフマン氏の脳を貫き、彼はしばし呆けてしまう。
どうして今まで忘れていたのだろう。誰も存在を知らぬアンダーソン氏の妻の名は、メアリだったはずだ。そして今、命からがら逃げだしてきた女も、その名をメアリという。
これは単なる偶然なのだろうか、それとも――
「ああ、牧師様。私、寒くて仕方がありません。その逞しい腕と身体とで、どうか私を強く抱いてください」
先ほどまで涙ぐんでいた女と同じ声とは思えぬ、艶めかしい声と吐息。
ぐにゃり、と視界と思考とが霞んでいく。何がどうなっているのかと理解は追いつかないが、なんとか理性を保ち、彼女を再度見つめた。
「――ね?」
女の瞳が、妖しく煌めく。
その瞳から、ホフマン氏は目が逸らせないでいた。
「――――ッ」
その光を見た途端にホフマン氏の理性と意識は完全にこと切れて、聖なる礼拝堂の床に彼女を押し倒した。
もう何もかもわからない。
わかるのは、今彼は理性を失った獣になっていることだけだ。
自らが獣に成り下がったからだろうか、女の頭と尻に、獣の耳と尾があるような気さえしてくる。
薄れゆく意識の中、アンダーソン氏の手紙に綴られていた最後の一文が、ホフマン氏の脳裏に浮かんできた。
『神はどこで見ているのかわかりません。それが私にはたまらなく怖い。
最近知った、東洋の諺にこのようなものがあります。その言葉を思い出すたびに、誰がどこで私の蛮行を見聞きしているのではないかと考えると、恐ろしくなるのです。
壁に
愛するは罪、ソドムの二人 稀山 美波 @mareyama0730
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