愛するは罪 5

「ジョシュア」


 私の頭上で、私を呼ぶ声がする。

 美々の輝かしいまでの肢体が、私の肢体の上で揺れている。

 嬌声と言ってもよい艶めかしい声が私の名を呼ぶと、私の中の何かがはじけ飛びそうになってしまう。


「ジョシュア」


 あれから数週間の時が流れてもなお、私は毎日のように地底湖を訪れ、美々を求め続けた。いけないことだと頭では理解しながらも、体は美々を求めて止まない。神も見ていないだろうというわずかな希望だけが、罪悪感に押しつぶされそうな私をなんとか繋ぎとめていた。


 そして、神に隠れて逢瀬と身体を重ねる背徳感が、ますます私を興奮させる。それがたまらなく嫌だった。


「なあ、儂を見てくれ」


 そして、彼女の妖しい瞳を見ると、その感情すら消えてなくなってしまう。

 自らの体が自らのものでないような、浮ついた感覚。幾度となく果てててもなお、彼女の瞳が私をいきり立たせた。



「もう行くのか」


 何度果てたことだろう。時も忘れるほどにまぐわった後、私は我に返る。

 またやってしまったと後悔の念に苛まされながら着替える私を、名残惜しそうな美々の声が引き留めた。


「……もう行かないと、礼拝の時間が」

「そうか」


 鍾乳洞の冷たい地面にその裸体を寝かせたまま、美々は優しく微笑んだ。

 またしても彼女を抱きたくなった私の中の雄を必死に押し殺し、踵を返す。彼女との淫靡な密会は、誰かに見つかってしまえばそこで終わりなのだ。


 終わりなのは密会だけでなく、私の人生も、私とメアリの関係も。


 そのためには、何食わぬ顔で日常生活を送らなければならない。

 初日のように、礼拝を怠ったりしてはならない。そのため、家内のいる日曜日はどうしても美々には会えず、悶々とした一日を過ごしていた。その溜まった煩悩を吐き出すかのように、月曜日はすべてを忘れて、いつも以上に彼女と交わる。


 そんなルーティンで、一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、数週間が過ぎた。



「神は我々に……」


 平然な顔をして礼拝や教義を執り行ってはいるものの、その心は日に日に疲弊していった。神とメアリへの罪悪感は日に日に募り続け、教徒失格とも言える私が神の言葉を紡ぐことにひどく心が痛んでいくのだ。


「さあ、神に祈りましょう」


 私がしなければならないのは、祈りではなく、懺悔だ。

 神が私にしなければならないのは、救いではなく、裁きだ。



 ◆



「あなた、申し訳ありません。私、今週の日曜日は街の友人のところでパーティがありまして」


 そんな生活を続けていたある日のこと。夕食を終えたあと、メアリは大層申し訳なさそうな表情を浮かべて、謝罪の言葉を口にした。

 家内は、平日は街に働きに出ている。その関係で、そういった催しに誘われるのは決して珍しくないのだ。品行方正な彼女のことだ、きっと人間関係も良好なのだろう。


「ああ、大丈夫だよ。楽しんできて」


 私は満面の笑みでそう答えると、メアリもその表情をぱあっと明るくさせた。

 私の笑みの裏には、『日曜日も美々に会える』という感情があることを彼女は知らない。何も知らないであろう彼女の明るい表情を見ていると、強く胸が締め付けられた。



「それでは、行ってきます。帰りは遅くなると思いますので、先に寝ていて構いませんわ」


 それからも毎日、美々との交わりは続き、そして日曜日が来た。これから数時間もすれば礼拝の時間となる。普段であればその後に夫婦水入らずの時間が過ぎていくのだが、今日は違う。


 その後に、美々に会いに行くことができる。

 今日は私が来ないと思っているであろう彼女は、私を見てどんな表情を浮かべることだろう。


 そんなことをぼんやりと考えながら、私は礼拝堂の扉を開けた。

 今日はあいにくの曇り空で、小さな窓から太陽を拝むことは叶わない。しかし、私の心にはどこか、一筋の光が差し込んでいた。



「今日も早いのう、ジョシュア」


 すっかりと聞きなれたその言葉が、聞きなれない場所で響いた。

 数週間前に、化け狐の彼女と邂逅したこの場所、神の御前。そこにいてはいけない異形のものの声が、確かに私の耳には届いた。


「美々、どうしてここに」


 驚きつつ祭壇の方へ振り向くと、私たちが出会った時と全く同じように彼女はそこへ腰かけていた。もちろん、その体を包む布は一切なく、あるのは幾度となく抱いた裸体と、獣の耳と尾であった。


「今日はな、別れを言いにきたんじゃ」


 別れ。その言葉を聞いて、私は愕然とする。

 祭壇から降りろという言葉も失い、ただただ呆然と立ち尽くしてしまった。


「体力もほとんど全快した。儂はそろそろ日本へ、古郷へと帰ろうと思う。今まで世話になったのう」


 考えなかったわけではない。そもそも彼女は郷愁にかられ、自らを狙う者の目を欺くために地底湖へと潜ったのだ。決してあの場所は、我々の行為を神の目から逸らすための場所ではない。


「そ、そんな」

「そんな顔と声をするでない」


 ただそれがわかっていてもなお、私の頭は彼女の言葉を拒絶した。

 もう彼女のいない生活など、考えられない。彼女なしでは、私は生きていくことすらままならない。


「私と一緒に、ここで暮らそう。それがいい、そうしようじゃないか」


 震える声でそう懇願し、震える手で彼女の肩を掴む。

 情けない私を見下ろす彼女の表情は、ひどく寂しそうなものとなっていた。


「儂はあの島国に根付く妖じゃ。あの国で、儂は呆れるほどの年月を過ごしてきた。儂の帰る場所はあそこなのじゃよ、ジョシュア」


 諭すように私に声をかけ、そっと祭壇から降りると、優しく私を抱きしめた。幾度となく味わった美々の感触が、私に伝わる。その感触は、今までにないほどに優しく、冷たく、寂しいものだった。


「だからの、ジョシュア」


 それも束の間、彼女の体が徐々に熱を帯びていくのを、私は感じた。

 我々の行為が始まる時と同じように、彼女はそっと私の耳に口を近づけていく。



「最後に、目一杯に交わろうではないか。神の見ている前で、神とやらに、儂らのまぐわいを、見てもらうとしよう」



 まさか、と思った私の予感は、的中した。

 この神の御前で、不貞行為を働けと、異形のものと交われという。


 そんなことができるはずがない。これまで私が彼女と交われたのは、神の目の届かない地下であったからだ。教徒である私が自我をなんとか保ててきたのは、その一点なのだ。


 それをあろうことか、神の目の前でなど、言語道断である。

 許しを請うどころの話ではない。背徳行為、裁かれてしかるべき悪徳に他ならない。


「そ、そんなことができるわけ」

「のう、ジョシュア」


 駄目だ。彼女のこの声を聞いていると、自分を律することができなくなる。

 徐々に近づいてくる彼女の顔を見ていると、彼女の瞳に吸い込まれてしまうと、私は私でいられなくなる。


 神を信ずる教徒であるジョシュア・アンダーソンではなく、ただの一匹の雄と成り果てる。



「最後じゃ。最後はうんと、楽しもうではないか」



 美々の瞳が、妖しく光る。

 それは比喩でもなんでもなく、確かに光っているのだと、今回初めて気づいた。

 これを見てしまったが最後、私の理性のたがはぶつりと音をたてて外れてまう。


「――――ッ」


 それがわかっていても、彼女の瞳から逃れる術を、私は持っていなかった。

 全身が震え、痺れ、いきり立つ。息は荒く、視界は霞み、頭の中は美々のことで埋め尽くされる。


 窓のそとからちらりと見える雲のように、私の心に黒い何かがどよりと広がる。

 それは自身を食らい尽くし、私は獣へと変貌する。


 神の見ているそこで、神の目の前で、私は彼女を存分に味わう。


 彼女と大罪の両方を、犯し尽くした。

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