愛するは罪 2


「おはようございます、あなた。先日は講義、お疲れさまでした」


 心の中で小さく神に祈りを捧げたと同時に急激な疲労感に襲われた私は、軽く汗を流した後にすぐ眠った。体が溶け出してベッドに染み入ってしまうのではないかと錯覚するほどの深い眠りを終わらせたのは、食欲をそそる匂いであった。


「朝食、できていますわ」


 大慌てで台所へ向かうと、家内が私を出迎えた。朝食の準備をし終えたところであったのだろう、角のないすらりとした曲線の体からエプロンが外された。


「すまないメアリ。随分と寝坊してしまったようだ」

「仕方ありませんわ。遅くまで戻られなかったですもの、お疲れでしたのね」


 牧師でありながら朝寝過ごすとは、なんたる怠惰であろうか。そう自責する私を叱責するでもなく、大きな目を細めて彼女は微笑んだ。食欲をそそる香りを醸しているパンを机に並べる度に、腰まで伸びたきめ細やかな髪がふわりと揺れる。


 所作、言葉遣い、物腰、メアリはそのすべてが美しい。

 未だにぼやけた頭でも、それだけは認識できた。


 黙祷を捧げ、朝食をいただく。黙祷の間に、もうこのようなことがないよう規則正しく清らかな生活を心がけますと自戒するとともに、神に懺悔する。


「そういえば、勝手口のところにバスケットが置いてありましたが、あれはあなたが?」


 朝食を食べ終えたところで、メアリは思い出したかのようにそう尋ねた。

 そうだ、寝坊したことを後悔しすぎてすっかりと忘れてしまっていた。そもそも私が寝坊するまで根を詰めていたのは、あの狐がいたからではないか。


「負傷した狐がいてね。もういなかったかい?」

「そうだったのですか。ええ、バスケットは空でしたので片づけておきましたわ」


 その言葉を聞き、胸をなでおろす。無事に息を吹き返し、森に帰っていったのだろう。


 神はあの小さな迷い子を、見捨てはしなかったのだ。

 神よ、感謝いたします。


「きっとあなたの優しさが、狐にも神にも通じたのですわ」

「救ったのは私ではないよ。救うのはいつだって神だ」

「うふふ。好きですわねその言葉」


 メアリは口元に手を当てて、上品に笑う。

 上等な作り物のようなその所作を見ていると、彼女は神の使いではないのかとも思ってしまう。彼女の一挙一動を見つめる度に、私は神に感謝するのだ。


「あら、もうこんな時間。そろそろ街へ行きます」

「ああ、気を付けて。神のご加護があらんことを」


 お決まりの台詞を聞いて満足したのか、彼女は再び笑みを浮かべると、一礼して家を出た。名残惜しいようにその後ろ姿を見つめ、やがてそれが見えなくなったところで、私は礼拝堂へと足を運んだ。


 本日は日曜日。窓の外では、その名に恥じぬほどの太陽が燦々と煌めいている。礼拝堂の中にある小さな窓からも、それを確認することができるほどだ。


 世間では休日だが、牧師たる私は忙しい。休日に礼拝に訪れる信者が多いのだから、必然とも言えよう。


 神は六日で世界を創造し、最後の一日は休んだという。

 それに倣って週末は休日としている、というのが日曜日が休日である所以だとうのが通説だ。神の真似事など、私には恐れ多い。だから私は、カレンダー通りの生活を送ることのできないこの仕事でよかったと、心底思う。



「日曜日だのに、お主の朝は早いのう。もう少し寝ていてもよかろうに」



 そんなことを考えながら窓の外を眺めていると、礼拝堂の隅々にまで響き渡るほどの甲高い声があった。


 礼拝の時間にはまだ早い。では、救いを求めて流れ着いた旅人か何かだろうか。


 困惑する頭と飛び跳ねた心臓をなんとか押さえつけて、声のあった祭壇の方へと目を向けた。


「しかしここはちと固いの。尻が痛くてかなわん」

「な、何をしているのです! そこは神聖なる祭壇です! 早く降りなさい!」


 女性と思われる声の主は、あろうことか祭壇に腰かけ、足を組み、頬杖をついて私をじっと見つめていた。先ほどそちらを見たときには何もなかったはずだが、一体どうして、祭壇に腰かけるなど神への冒涜だ――などという言葉が出る前に、彼女はひょいと祭壇から飛び降りた。


 逆光でよく見えなかったそれが、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。


「あ、あ、あなた! 服、服はどうしたのです!」


 メアリよりも更に長い栗毛、細く引き締まった身体、ふくよかな胸――何物にも覆われていない、一糸纏わぬ裸体が。


 その顔は、異国の者であるように見える。東洋人のそれと近い。


 思わず目を背けてしまったが、ひどく美しいその肢体が、未だに目に焼き付いている。全身に雪を染み込ませたかのような白くきめ細かな肌に、主張の激しい豊かな乳房、細いながらも肉感のある妖艶な腰。


 その全てが、鮮明に思い出されてしまい、私はたまらず息を荒げてしまう。


「なんじゃ。初心でもあるまいし。女の裸体ひとつで狼狽えるでない」

「いいから、何かを、纏ってください!」


 たまらず私は礼拝堂を飛び出して、浴室からタオルをかっさらってきて、彼女に手渡した。彼女はぶつくさと何かと文句を言っていたが、渋々それを身に纏った。

 タオルを体に巻き付けたことで、体のラインが余計に際立つ。胸から腰、腰から尻へ、なんとも淫靡な曲線が私の眼前にある。


「いい加減こちらを見んか」


 彼女が肌を隠してもなお、直視することができない。

 神への無礼やらここにいる理由やら、色々と言いたいことがあるのだが、乾いた口からはそれも中々出てこない。


「……先ほども言いましたが、貴方の行為は神への冒涜です。今ここで懺悔なさい」


 ようやく落ち着きを取り戻し、面と向かって――とはいかないものの、ひとまずは彼女の行為を咎める。この神聖なる教会で祭壇を足蹴にすることなど許されざる行為であるし、むやみに男性へ肌を晒すこともあってはならない。


「神に首を垂れるなど、死んでもごめんじゃ」


 けたけたと笑いながら、彼女は再度祭壇へ腰かけた。


「ああ、なんたることか。神よ、かのような者を聖なる場所へ立ち入らせてしまったことをどうかお許しください」

わしの国には、八百万もの神々がおる。その中には、謝罪せずとも儂を許す神がおるじゃろうよ」


 八百万やおよろずの神、聞いたことがある。東洋の島国、日本の文化だ。

 とすれば、彼女もその島国の者なのだろう。


 かの国では、様々なものに神が宿っていると信じられている。山に神がいると信じる者が東にあれば、海に神がいると信じるものが西にいる。そんな考えが、日本には根付いているのだとか。


「貴方の国の文化は知っています。ですがここは私の国の、私の教会だ。我々の信ずる神への冒涜行為を、見過ごすわけにはいきません」

「はあ、お堅いのう。『郷に入っては郷に従え』、というわけか」


 聞きなれぬ言葉に、私は思わず聞き返してしまう。


「儂の国のことわざじゃ。よく覚えておくがよい」


 教養として覚えておいてもよいかもしれないが、今はそれどころではない。

 早く彼女に懺悔をさせないといけないし、彼女が何者なのかも問いただねばなるまい。


「だが儂がいくら謝ったところで、その神とやらは儂を認めんと思うぞ」

「何を言うのです。神はすべてを許します。ですから、懺悔するのです」

「お主らの言う『神』とやらは、儂のことを忌み嫌っておるじゃろうからな」


 私が差し出したタオルを、彼女は再度脱ぎ捨てる。するりとそれは彼女を縁取る曲線から滑り落ちて、ふわりと床へ落ちた。


 目を逸らさなければ、と思ったが、私は彼女の体に釘付けとなってしまっていた。


 白い肌、大きな乳房、細い体。

 それに加えて、先ほどまではなかったものが、人間の体には決してなにものが、そこにはあったからだ。



「儂みたいな化物は、お主たちとお主たちの神は、『異形のもの』なんて呼ぶんじゃろ?」



 頭には、まさに獣のそれである大きな耳。

 引き締まった尻には、まさに獣のそれである大きな尾。



「そういえばお礼がまだじゃったの。儂は先日お主に命を救われた、狐じゃ。『妖狐』、『化け狐』、好きな方で覚えてもらっていいぞ。名は、美々ミミという」



 聖なる場所に、邪なるものを、異形のものを、どうやら私は招き入れてしまったようだ。

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