愛するは罪、ソドムの二人

稀山 美波

愛するは罪 1

 その昔、神の怒りに触れたソドムとゴモラの街は、天の火によって滅ぼされた。

 色欲にまみれ、性に放埓な、悪徳の街。神は、天は、決してそれらを許すことはない。


 天からの許しを得て、唯一ソドムの街から逃げおおせたロトの一家とて、その結末は決して幸福ではなかった。悪辣な街――すなわち悪辣な環境とは、善なる人をも飲み込み、破滅へと誘ってしまうのか。


「やあアンダーソン牧師。お疲れ様。わざわざ遠いところをどうも」


 『牧師』と呼ばれる度に、決してそうはなるまいと、携えた聖書を持つ手に力が入る。我々が崇拝し、規範とし、この世でひとつの拠り所である聖典。純然たる信者であり教職者として、私はこの聖書のお言葉を遵守し語りついていかねばならないと、身が引き締まる。


「お久しぶりです、ホフマン牧師」


 一点の穢れもない黒の牧師服に身を包んだ恰幅の良い男――ホフマン氏は、深々と頭を下げた私の両手をとり、ふくよかなその頬をさらに膨らませて微笑んだ。西日差す礼拝堂では、目尻をさげてにこにこと笑う彼の笑顔がよく映える。


「講義に君を呼んで正解だったよ。君ほど勤勉で熱心な信徒を僕は知らないからね、学生たちにもいい刺激となったことだろう」


 今日は、かつて私が通っていた神学校で教鞭を振るうホフマン氏に呼ばれ、学生たちの前で信徒としての心構えなどを語った。私としても良い機会であったが、学生にとってもそうであったなら、光栄である。


「どうかね、これから一緒に夕飯でもいかがかな」

「申し訳ありません。家内が待っておりますので」

「おや、奥方がいるのか」

「ええ、メアリといいます」

「隅に置けないなジョシュア」


 予想していない返答だったのだろう。思わずといったような風に、我々がかつて教師と学生の間柄であった当時と同じように、彼は私を呼んだ。あっ、という表情を一瞬覗かせたかと思うと、こほんと一つ咳払いをした。


「失礼。もう君は牧師だものな、ミスター・アンダーソン」

「気になさらないでください。ホフマン先生にそう呼ばれると、私も懐かしい、暖かな気持ちになります」


 輝かしい青春の日々を思うと、思わず口角が吊り上がってしまう。そんな様子の私を見たホフマン氏も大きく頷き、改めて私の手を握った。彼の存在のように大きく、彼の人柄のように、柔らかな掌だ。


「ジョシュア・アンダーソン。今日君に会えたことは最上の喜びだ。奥方にもよろしく伝えておいてくれ。神のご加護があらんことを」

「私もです、ホフマン先生。神のご加護があらんことを」


 名残惜しいが、家で私を待っているであろう愛するメアリのことを思うと、そう長くもここにはいられない。別れを惜しむように、随分と長い間私たちは固く手を握り合った。


 神学校のキャンパスにある礼拝堂をあとにすると、辺りはすっかりと暗くなっていた。キャンパス内に点々としている街灯が、その足元に影を落としている。街灯と街灯との間に広がる闇の中に、私の牧師服が溶け込んでいく。それがどこか嫌で、私はわざと街灯の下を選んで歩き、停めてあった車へと乗り込んだ。


 キャンパスを出て車を走らせていると、大通りへと差し掛かった。時間も時間であるから人通りはまばらだが、行き交う人たちは皆幸福かつ穏やかに見える。


 その時ふと、ソドムとゴモラの街のことを思い出した。


 旧約聖書の創世記に登場する街の名前だ。その悪辣さ故に、神の怒りを買い、天の火に焼かれた街。それらとここはまるで違う、そう感じた。穏やかな人たちの暮らす平和な街が、天の火に焼かれることがあろうか。神の祝福に溢れてさえすると思わせる。


「これはこれは牧師様。今日はお出かけでしたか」

「こんばんは。今日はですね、神学校で講演を」

「熱心なお方だ。どうぞご自愛ください」


 その感情は、私の住まう教会がある街に近づくにつれて次第に大きくなっていった。

 車で一時間程走ったところに、私の教会はある。私が信号待ちをしていると、ちらほらと見知った顔が私に声をかけてくる。ここで暮らす人々は穏やかで温厚な人間しかいないし、ましてや犯罪など聞いたこともない。


 小さな田舎街であるが、アンティークを思わせる小奇麗な街並みはとても美しく、緑も多い。車の窓を開けて大きく息を吸い込むと、木々の深々とした香りが鼻腔をついた。


 さらにそこから三十分ほどすると、大きな湖が姿を現す。その湖畔にある小さな教会が、私の住まいだ。教会の横に車を停めて、月明かりが反映された水辺に目をやった。


「……おや」


 夜目に慣れ始めたころ、数メートル離れた湖のほとりに、小さな黒い影を認める。

 その正体を特定すべく近くに寄ってみると、それは小動物であることがわかった。


「狐か。大分弱っている。なんということだ」


 ぴくりとも動かないそれは、どうやら狐のようだった。

 森の方からやってきたのだろうか。体は泥にまみれており、瞼が開くことはない。寿命か、それとも天敵にやられたか。とにかく死に瀕していることだけはわかった。


「息はまだある、助かるな」


 ただ、瀕しているだけで、その命の火はまだ絶えていない。そうとわかれば善は急げだ。もう寝てしまっているであろう家内を起こさぬようゆっくりと戸を開けて、沸かした湯や包帯やらを持ち出してきた。


 狐には寄生虫が多く、触れることは感染症のリスクがある。このまま見過ごすのが正解なのかもしれない。だがしかし、助かるはずの命に手を差し伸べないことが、どうしてできようか。


「何とか一命は取り留めるはずだ」


 傷口を濯ぎ、包帯を巻く。とにかく冷やしてはならないと、小さな体をタオルで幾重にも巻いてやった。さすがに家の中に入れるわけにはいかず、タオルにくるまれた小さな負傷者は、大きいバスケットの中に入れて教会の勝手口近くに避難させる。


 とりあえず、私にできることはした。

 この狐の命運は、あとは神のみぞ知るところといったところか。

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