愛するは罪 3

 なんということだ。

 この聖なる教会に、『妖狐』――つまり狐のあやかしである者の侵入を許してしまったというのか。東洋の狐や狸は人に化けると、確かに聞いたことがある。


 自らをその妖の類だと名乗る彼女――美々は、私が先日手当をした狐であるという。つまり、異形のものの侵入は、私の手によって行われていたのだ。


「ああ神よ! 愚かな私をどうかお許しください!」


 後悔と自責とが全身を駆け巡り、私は祭壇の前に跪き、両手を合わせて神へ懺悔する。


「異形のものよ、早々にここを立ち去れ!」


 妖の類が神の御前にいるなど、あってはならぬことだ。

 神聖なる場所が侵されることは、決してあってはならない。


「まあ落ち着け。お主は勿論、お主たちの言う神とやらに危害を加えるつもりなど毛頭ない。少しばかり匿ってほしいだけじゃよ」


 怒り心頭に大声を張り上げる私をよそに、美々は飄々とした声と態度とで答える。その様子を見ていると、確かに彼女が異形のもの、妖の類であるように見えてきた。


「匿う?」

「そうじゃ。そもそも儂がこの国に流れ着いたのは、儂らのような妖を狙う者共から逃げてきたからでの。儂が日本を離れてもう幾年が過ぎた。次第に郷愁を覚えていっての、奴らの目を誤魔化したらすぐにでも日本へ帰りたいのよ」


 やはりというか、そういった人外なる存在を滅さんとする存在がいるらしい。とくに日本は嫌に排他的な国だと聞く。美々のような存在を決して認めない人間も、少なからずいるのだろう。


「お主らの神の言葉に、『隣人を愛せよ』なんてものがあるじゃろ。お主たちに害をなす気もない儂は、お主の『隣人』足りえんか?」


 我々が崇拝する神の言葉を妖に引用され、うすら寒さを感じなかった訳では決してない。しかし、彼女の言うように、人間でないからといって手を差し伸べないのもどうなのだろうと、少し心に引っかかるものがあったのも事実だ。


 東洋人には似つかわしくない金色に煌めく瞳が、鋭く私を捉える。妖しく光るそれを見ていると、段々と思考が鈍ってくるような錯覚に陥った。


 確かに彼女は、害をなす存在であるとは、到底思えない。とすれば、彼女もまたここに救いを求めに来た、迷える子羊であり、隣人なのだろうか。


「……ここに匿うことは無理です。どこか場所を考えましょう」


 けれども、この神聖なる教会に妖狐を匿えることは、どうしても理性が受け付けなかった。どこか身を潜めることのできる場所に案内する、折衷案としてそれを提示することが限界と言えよう。


「十分じゃ。恩に着る」

「人目のつかないところがいいでしょう。今から考えます」

「贅沢を言うとな、薄暗い場所がよい。儂は闇夜に潜むもの、太陽の光はあまり得意ではなくての」


 薄暗く人目につかない場所と聞き、私の頭にひとつ思い当たる場所が浮かんだ。

 この教会のすぐ傍に佇む湖、その対岸。そこには小さな鍾乳洞がある。夏場でも寒気を感じるほどのその場所は、人はもちろんのこと、太陽の光さえ訪れることはない。


 その鍾乳洞をさらに潜ると、美しい地底湖がある。天井から伸びる鍾乳石から滴る水が湖面を叩く音以外に一切のものがない、五感が研ぎ澄まされる場所だ。澄み渡った清い水が、妖狐にとって益となるか害になるかはわからないが、飲み水には困らないだろう。


「……礼拝まで時間がありません。すぐに向かいましょう」

「この格好でか」


 美々は自らの体をくねらせる。一転、二転、と体が回る度に、ふくよかな胸と細い腰とが私の目に突き刺さる。彼女の告白にしばし呆けていたが、思えば美々は今、一糸纏わぬ姿なのだ。


「ま、また狐の姿になればいいでしょう」


 突き刺さった肢体は、あまりにも目に毒である。視線を美々から外しながら、私は吐き捨てるようにそう言った。


「力を使い果たしてしまっての。変化したくてもできぬのだ」

「……妻の服を貸します。それを着てください」


 清く美しいメアリの衣類が、獣かつ妖のそれに汚されてしまうことに抵抗を覚えたが、背に腹は代えられない。美々から返却されたら、汚してしまったなどと言って、処分してしまおう。


「ひどく着にくい衣類だの」

「手伝いますから、じっとしていてください」


 メアリの私室の箪笥から服を取り出して、美々に手渡す。どうにも着方がわからない様子の美々に痺れを切らし、そっと彼女の肌に触れた。

 想像と違わぬそのきめ細やかさ、弾力のある肌触り。否応にもなく、私の男性としての本能が刺激されてしまう。


「そう息を荒げるでない。初心な男よ」


 けたけたと笑いながら、美々は私にされるがままだ。

 彼女は私に害をなすつもりはないと語ったが、もう十分なほどに害である。


 そんなことを、思った。



 ◆



「お主、名は何という」

「ジョシュア・アンダーソンです」


 なんとか美々を着替えさせ、私たちは湖のほとりを足早に進んでいく。

 メアリの細身な体にあった服は、彼女の豊満な体にはどうにも小さかったようで、その生地がぴったりと彼女の肌に張り付いてしまっている。これでは、タオルでその身を包んでいた時とあまり変わらないではないか。


「ジョシュア。良い名じゃ。儂の名、美々というのはな、日本語で『美しい』と書くのじゃよ。どうじゃ、『名は体を表す』とはよくいったものじゃろ」


 言葉の意味はよくわからないが、きっとまた島国の諺なのだろう。

 しかし、名前に『美しい』を冠する彼女は、確かにどこをどう見ても美しさしかなかった。いや、正確には少し違うかもしれない。彼女は美しいというよりも、『妖艶』である。


「しかし、いい湖じゃ。儂の古郷にも湖があっての。日本が恋しいのう」


 深々とした緑と薄く広がる湖とを交互に眺め、美々は溜息を漏らした。やはり郷愁が彼女の中では強いのだろう。


「国を転々としてきたが、自然と一口に言っても色々とあるのだと実感したわ。ここの一個前に訪れた国だったかの、塩の大地が広がっていて、それはもう驚いたぞ。まるで地面が鏡になったかのように、空の景色が地に反映されるのじゃ。その前の国で見たのは、乾燥地にあるそれは大きな岩だったかの。あと――」


 観光ツアーを紹介するかのように、美々はこれまで数々の国で見てきたものを楽しそうに語る。前者はボリビアのウユニ塩湖、後者はオーストラリアのエアーズロックだろうか。


「しかし、やはり古郷のなんてことのない湖が一番じゃ。その点で、ここはいい。一番古郷に近いかもしれん」


 旅行好きが聞いたら羨望しそうなラインナップであるが、彼女にとってはやはりあの島国が一番なのだと言う。このなんてことのない田舎町の風景こそ、それに近いのだと。

 この街を愛している私は、抱いてはいけない親近感を、思わずこの異形のものに感じてしまう。頭をぶんと振って、それを取り払った。


「ここです。足元に気を付けて」


 彼女の異国旅行譚に耳を傾けている内に、鍾乳洞の入り口に辿り着いた。

 ランタンに明かりをつけ、光の届かない鍾乳洞を照らし、ゆっくりと進んでいく。


 鍾乳石に光が当たる度、てらてらとした表面がちらつく。洞内にわずかながらいる生き物の息吹と、我々の息遣い、そして足音だけが響いている。一歩一歩進むたび、現世から遠ざかっていくような、そんな幻想的な気分に陥った。


「ここです。ここなら、滅多に人も来ないでしょう」


 私たちが鍾乳洞に足を踏み入れて約十五分といったところだろうか。ランタンを頭上に掲げると、湖の底すら見えるほどの透明な水面が眼前に広がった。鍾乳洞内の地底湖、知る人ぞ知る穴場である。


「よいではないか。水もあるし、死ぬことはないじゃろ。ちと暗すぎる気がしないでもないが、儂は夜目がきく。素晴らしい場所じゃ」


 夜目がきくというのは本当のようで、美々は辺りをうろうろと歩き回った。どうやらランタンの光すら届かぬ場所へいってしまったようで、すぐに見失ってしまう。


「あまり遠くには行かないでください」


 小さく溜息をついたところで、私も歩を進め、彼女を探した。

 すると、岩肌とは違う感触を靴の裏が捉え、思わず転んでしまいそうになる。硬い地面とは違う、柔らかな布のような感触。はて、と思い、私の足を掬ったそれを持ち上げて、ランタンを近づけてみる。


 見覚えがある。これは紛れもなく、メアリの服である。それも、先ほど美々に貸し出したばかりの。


「のう、ジョシュア」


 ということは――と考える暇もなく、光源の向こうから美々が現れた。

 礼拝堂で見た、美しい裸体と、獣の耳と尾を携えて。

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