XIII-普く通ぜぬ私の話

 

 

 見計らったようタイミングで来た姉からのメールには、懐かしい名前があった。


『燈子、元気してる? 今日、お店に京子ちゃんが尋ねてきました。愛衣ちゃんに会いに来たようだったけど、ずっとあなたの話題をしてたよ。気が向いたらお店に顔を見せてくれると嬉しいな。愛衣ちゃんが喜ぶと思います。京子ちゃんとも仲良くね。颯葵』


 愛衣は今、姉の店で店員として働いている。姉の店を滅多に訪ねないのは姉への劣等感もあったが、京子と今も交友がある愛衣と会うのが気まずいのも理由の一つだった。


『姉さん、メールありがとう。近いうちにお店に行きます。燈子』


 姉のメールに返事をしたのは久々だった。いつも何でもないことでメールをしてくるから、返事に困って無視をすることが多かったのだ。


 ──小説を一つ書き上げたら、姉の店を訪ねようと決めていた。


 普通とは何なりやと、こんなにも長いことこの概念に苦しめられた。しかし、そんなことを考えている時点で『普通』でなどない。そんな簡単なことに、何年も気付けなかった。


 物書きは物書きを目指さないように、受付嬢は受付嬢を目指さないように、『普通』は『普通』を目指さない。


「あたしたち、普通でいよう。なんていうか、自然体、みたいな意味で」


 あの日、京子はそう言った。


 愛衣の言うところの「くだらないプライド」で雁字搦めになっていた私は、自然体だったとは言えないだろう。京子との約束なんて、とうの昔に破綻していたのだ。そして、それなら──思春期のイタい少女だの若気の至りだのと否定してきた高校生の私は、少しだけ救われる。


 負い目引け目があり過ぎてもう友人とは呼べないかもしれない京子との時間も、少しだけ大切にできる。


 これ以上、大切だったものを否定せずに──済む。


 あれからずっと、思春期の頃の私を刺し殺し続けていたような気がする。とっくに否定し尽くしているというのに、何度も何度も、死体蹴りのように。跡形もなくなるまで。義務のように。強迫観念のように。


 それを、やっと止められた──そんな心地がしていた。


 過去といえど私は私、受ける痛みは同じだったわけで。それがやっと止んだ安堵で、久々に晴れやかな気持ちになっていた。


 救済された。

 そう思う。


「……じゃあ、天津さんはまた小説を書くんですね。素敵だなぁ」


「まぁ、一応……もう何年も書いてないですし、書けるか分からないですけど」


 助けてもらったお礼にと、私は伊豆を食事に誘っていた。会社帰りではない、普通の休日である。


 休日に身なりを整えて外に出る、ということを久しぶりにした。


 人に自分のことを話す、ということを久しぶりにした。


「天津さん、過呼吸を起こしてから何だか別人みたいですね。憑き物が落ちたみたいというか……。前よりも距離が近いかんじがして、僕は嬉しいですけど」


「それは……たぶん、ちゃんと可哀想になれたからだと思います」


「可哀想……? ちゃんと?」


「ええ」


 自分のことを大切にしろと、いつか伊豆に言われたのを思い出す。


 プライドばかり高い私は、現状の私が大切にされることを良しとできなかった。だから他人からの親切心や好意を跳ね除け続けてしまったとも言えるが──過呼吸を起こしたことで、そのあたりが吹っ切れたのだろう。ストレスが限界に達したことで救われるなんて随分おかしな、それこそ普通じゃない話だが、こうなることでやっと古傷を抉り続けることをやめられたのだ。


「天津さんの言うことが難しいのは変わりませんね」


「そうですか? 私からしたら、伊豆さんのように生きることの方がよっぽど難しいんですよ」


 伊豆にこういうことを言えるのも、結構大きな進歩だと思う。


 普通の人とはよく知らない人のことを指す、と言ったのは誰だっただろうか。思えば私は伊豆のことをよく知らない。いや、知った気にはなっていたが、それはあくまで趣味とか思想とか、そういう部分の話だ。いつか伊豆のことを普通じゃないと思えたら、その時私は本当にこの『普通』という概念から解放されるだろう。


「僕、天津さんの小説読んでみたいなぁ。高校の頃の作品とか残ってないんですか?」


「ないですね。その友人──京子というんですが、彼女の作品を初めて読んだ時に全て破棄してしまいましたから」


「それは残念です。……それなら、天津さんがこれから書く小説が書き上がったら読ませてくださいよ」


「嫌です」


「にべもない!」


 だって恥ずかしいじゃないすか。私がそう言うと、伊豆は「そんなの今更ですよ」と笑った。確かに私は伊豆にみっともないところばかり見せてきたし、本当に今更かもしれない。









 小説を書くのが好きだった。自分の文章を信じていた。

 何か成せると、残せると、何の根拠もなく漠然とそう思っていた。


 でも、何かを成したくて書いていたわけでも、残したくて書いていたわけでも──ない。


 ただ、小説を書くのが好きだった。


 好きだからには良い作品が書きたかった。素人でも表現者紛いのことをしているなりにプライドがあった。自信もあった。


 初めて小説を書いた友人は、私よりずっと上手く表現者をした。私がずっとやりたかったことを、私よりずっと秀逸に、突然奪われた──そう思ったのだ。


 でもそれは、何も永遠に筆を折ってしまうほどの話ではなかった。


 京子の才能も姉の努力も妬ましいままだ。いちご牛乳を日に二本開ける生活も続きそうだ。伊豆という男はやっぱり気に食わない部分も多いし、筆を握り直したところで京子を含む圧倒的な表現者には敵わないままだと思う。それを羨望して惨めになることもなくならないだろう。


 それでも良い、そう思う。

 というか、それでも良しとするより他ないと思う。


 だって書きたいのだ。あの日折った筆がずっと恋しいままだった。自分で二度と書かぬと呪い縛った癖して、本当は、『普く通ずる存在になった京子』よりも『楽しそうに表現を続ける京子』が羨ましかった。

 


 七年ぶりに持った筆の重さが、この世の何よりも愛おしい。

 

 さぁ、大輪の徒花を咲かそう──。

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遍く通じた彼女の話 木染維月 @tomoneko

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